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「難民」という言葉を聞くと、何をイメージしますか? ここ数年で急増し、支援が急がれているのは、「シリア難民」と「イラク難民」です。長引く国内紛争と、「イスラム国」などイスラム過激派の侵略のために、国から逃げ出してきた人たちです。
 難民の保護・援助のために設立された国連の特別機関「国連難民高等弁務官事務所」(UNHCR)の日本語サイトでは、難民とは、「政治的な迫害のほか、武力紛争や人権侵害などを逃れるために国境を越えて他国に庇護を求めた人々」と解説されています。
 日本で「難民」と言うと、「外国から日本に逃れてきた人たちを『難民』と認める審査が厳しい」「受け入れ体制が整っていない」など、もっぱら「受け入れ」側としての話が問題になります。

 ですが、ほんの70年前、百万人にものぼると言われる日本人が「難民」となって、過酷な生活を強いられていました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が、5月27日に発売されました。
 本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。



* * *

 一九四五年八月九日――。それは、満洲国に渡った日本人にとって決して忘れることのできない日付である。この日を境にして大陸にかけた夢は無残についえ、人々は見捨てられたように、身ひとつで曠野(こうや)をさまようことになったのだから。

 

 

「満洲国」とは、1932年、中国の東北部を占領していた日本が樹立した国家です。独立国家のかたちをとっていますが、実質的には日本が支配していた「傀儡(かいらい)国家」です。首都は新京(しんきょう 現在の長春)におかれました。
 1945年8月9日とは、ソ連が、対日本戦に参戦し、満洲国と国境を越えて攻撃を開始した日です。
 終戦前の新京の人口は約90万人、うち、日本人は軍関係者や民間人など約15万人。ソ連軍の侵攻から逃れるために、人々は満洲からの避難を余儀なくされます。
 そのなかに、現地の食品商社に勤める井上寅吉(42)・喜代(39)夫婦と4人の子どもの、井上家の姿もありました。


 一般市民の間にも緊急事態の認識が急速に広がっていた。十一日夜、現地人が居住する旧市街に近い長春大街沿いの日本人街区では、隣組の非常招集の鐘がけたたましく打ち鳴らされた。このあたりに住む男性のなかでは唯一、召集を免れた年配の組長が、集まった人々の前に興奮した面持ちで現れ、早口に語った。
「新京はもう危険だ。ソ連軍の大部隊があと十二、三時間後には新京に入れる地点にまで迫っている。これからすぐ共同生活ができる準備をしたうえで、明朝夜明けに非常食を持って広場に集合し、区ごとにまとまって駅へ向かう。各自の所持品はリュックサック一個を限度に許可する。ただし、新京を死に場所と決めている者はその限りでない。その場合は勝手にせよ」
 どこに疎開するのかと問われても、組長には何も答えられなかった。
 井上喜代はすぐ自宅に戻ると、夫寅吉にこの話を告げた。寅吉は「新京はもうダメかもしれないな」とため息をつくと、向き直って「おまえたちはどうする」と尋ねた。二人には長女泰子(一六)をはじめとして四人の子どもがいた。喜代は不安そうに言った。
「でも、私たちは非戦闘員ですもの。まさか殺しはしないでしょう」
「どうかな。内地とは違うからな」
 寅吉は低い声でつぶやくと、そのまま黙り込んでしまった。しかし、思いをめぐらす余裕はなかった。この機を逃したら、幼い子どもたちを抱えたまま、ソ連軍の部隊に蹂躙(じゅうりん)されることになりかねない。喜代は泰子と手分けして、かねて用意していたリュックに食糧、薬品、貴重品などを詰め込んだ。それだけでリュックは満杯になり、衣服を入れる余地はなくなってしまった。夜の寒さを思い、手持ちのシューバをそれぞれのリュックに括りつけた。夏の盛りではあったが、さらに下着を何枚も着込んだうえに、晒(さら)し木綿の布を腹に巻いていくことにした。混乱が収まったらすぐ新京に戻るつもりでいたから、秋から冬にかけてのことなど、まったく考えていなかった。
 

 8月12日、井上家を乗せた天井のない無蓋貨車は、満洲を逃れ、朝鮮半島に向けて走り出しました。少しでも日本に近いところまでという願いも空しく、貨車は途中の朝鮮北部の小さな駅で次々と切り離され、乗っている人々もそこで下ろされていきます。井上家を含む日本人集団が下ろされたのは、「郭山」(かくさん)という小さな町。ここに、1094名の日本人からなる「郭山疎開隊」が組織されたのでした。
 そして迎えた8月15日。


 突然、教会堂と隣り合う礼拝堂の鐘が「カン、カン、カン、カン」と鳴り響いた。
 息をひそめて様子をうかがう人々の耳に、朝鮮語の賛美歌が高らかに響き渡った。隣室には少なくとも数百人の朝鮮人キリスト教徒が集まっているらしい。
 賛美歌の合唱が終わると、今度は荘重な調子の演説がはじまり、それに続いて歓呼の声が沸き起こった。
「大韓国、マンセーイ!」
「植民地の朝鮮が『大韓国』として独立したのに違いない」
 人々はそう直感した。悲憤と嘆き、虚脱感が代わるがわる去来した。
 今となっては疎開者と称すること自体、誤りなのかもしれなかった。この瞬間にも、ソ連軍の侵攻にさらされている満洲では朝鮮と同様、日本の植民地支配を打破すべく、満洲人や中国人が気勢を上げていることだろう。そうだとすれば、戻るべき満洲国はもはや風前の灯だった。
 日本人は八月十五日を境にして敗戦国民に身を落とした。しかし、戦乱の満洲を逃れてきた疎開者には、それだけでは済まされなかった。人々はこの日から、帰る場所を失った「難民」になり果てたのだった。その後、それ以上の混乱はなかったが、人々は重苦しい雰囲気のなかで一夜を明かした。

* * *
 

「難民」となった郭山疎開隊を待ち受けていたのは、想像を絶する厳しい生活でした。
 当時、新京にいた日本人とは、どんな人たちだったのか。民間人の避難が遅れたのはなぜだったのか。興味を持たれたかたは、ぜひ
をお読みいただけると幸いです。

*第2回「骨と皮だけにやせ衰えた子どもたち」は8月21日(金)に再掲予定です。

 

関連書籍

井上卓弥『満洲難民 北朝鮮・三八度線に阻まれた命』

一九四五年八月、ソ連軍の侵攻から逃れるため、満洲から多くの日本人が北朝鮮に避難した。飢え、寒さ、伝染病。本土終戦の日から始まった地獄の難民生活で、人々は次々と命を落とす。国はなぜ彼らを棄てたのか。世界史の中でも稀に見る悲惨な難民だった彼らの存在は、なぜ黙殺されたのか?「戦後史の闇」に光を当てた本格ノンフィクション。

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日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉

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井上卓弥

1965年、山形県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。1990年、毎日新聞社入社。外信部、東京社会部、サンデー毎日編集部などを経て、現在、東京学芸部編集委員。 2000年10月から4年間、ローマ特派員を務め、バチカン、パレスチナ紛争などを取材。03年のイラク戦争で米海軍に従軍した。

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