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アウトサイダー・アート入門

2015.04.20 公開 ツイート

第5回 空想の戦争物語を描いた「ヘンリー・ダーガー」 椹木野衣

「アウトサイダー・アート」という言葉をご存じでしょうか? 障害者や犯罪者、幻視者など正規の美術教育を受けない作り手が、自己流に表現した作品群です。椹木野衣さんの『アウトサイダー・アート入門』では、社会からの断絶し、負の宿命に立ち向かうために芸術に身を捧げた者たちを紹介しています。ダイジェスト版連載の最後は、小さなアパートで空想の戦争の物語『非現実の王国』を描き続けた、「ヘンリー・ダーガー」です。書籍版では、さらに詳しく、多くの芸術家たちを取り上げています。興味を持たれた方は、ぜひそちらをお読みください。

ヘンリー・ダーガー

 独居老人が残した宝の山

 1973年の少なくとも春が訪れる前のこと。シカゴに住むある夫妻が管理するアパートメントの3階で、前の間借り人が出ていったあとを片付けようと悪戦苦闘していた部屋のなかから、ある不思議な創作物が見つかった。

 悪戦苦闘というのは、借り主が去ったあとのこの部屋が、床からほとんど天井に届くまでゴミの山だったからだ。ひとりで片付けるのはとても無理と判断した家主でアーティストのネイサン・ラーナーは、教え子のデヴィッド・バーグランドの手を借りて、なんとかして部屋の床が見えるようにしようとゴミの山に立ち向かっていた。エレベーターもなく廊下も狭いなか、階段でゴミを下ろすのは無駄と判断したラーナーは、効率を考えて窓の下に大きなゴミ入れを設置し、3階の窓からそこ目がけて放り投げる作戦に出た。

 そんなこんなで、呼び寄せたトラック2台がゴミの山を積んでようやくアパートをあとにしたときのこと、広大な遺跡の発掘現場から不意に貴重な文化財が見つかるように、厚紙で綴じられた巨大な手作りの画集がひょっこり顔を出した。ラーナーの手が急ブレーキを掛けたように止まった。アーティストであったラーナーの目が直感的に「これはなにものかだ」と反応したのだ。ゆっくりと頁を捲ると案の定、驚くほど美しく、同じくらい奇想を尽くした水彩の絵が何枚も姿をあらわした。衝撃を受けたラーナーは、この部屋を去った孤独な老人の創作の痕跡がほかにもないか、もうゴミなどそっちのけで部屋をき分け始めた。片付けはいつのまにか「宝探し」になっていた。

 やがて旅行用のトランクのなかから、全15冊のお手製の本が見つかった。タイプライターで印字された電話帳のように厚い一冊一冊は、うち7冊までが製本されており、残りの8冊は簡易な表紙をつけられ紐で束ねられていた。前者は分厚い板紙にきれいな壁紙が貼られており、表紙には金地でタイトルが描かれていた。そこには『非現実の王国で(In the Realms of the Unreal)』(次ページ参照)とあった。この瞬間から、老人が残していったゴミの山は、のちに美術史へ痛烈な一撃を与えるほどの表現とその一大資料へと意味を一変させた。すでにかなりの分量を捨ててしまっていたが、家主のラーナーがアーティストならではの目を持っていたのは僥倖というほかない。もしもそんな絵や書き物など一顧だにしない家主だったら、とっくにほかのゴミと一緒に窓から投げられ、トラックで焼却炉へと向かい、なにごともなかったかのようにこの世から跡形もなく消え去っていただろう。

 もともとネイサン・ラーナーは、この部屋と手前の部屋をひと続きに改装して別の借り手を探し、もっと高い家賃を取れないものかと考えていた。しかし結局かれはそれを諦め、残された家具も捨てるのではなく自分たちで使うため大ぶりなものだけいくつか運び出すと、部屋の原状復帰は諦め、できるだけ今あるままの状態で保存することに決めたのだ。とはいえ、これではなんの生活の足しにもなりようがない。だいたい誰に見せたらよいものか。身寄りのない老人が部屋に残していった遺物など、好んで見たがる者などいはしまい。ラーナーはせめてこの部屋の窓を塞いで外光を閉め出し、自分の写真を焼く暗室に使うことにした。そんな仮り使いのまま他人に貸すあてがなくなっても、かれはこの部屋にはそこまでして残すだけの値打ちがあると踏んだのだ。もっとも、自分が認めたからといって、すぐにほかの誰かがそれに同意してくれるわけでもない。もしなんの価値もないゴミ同然の代物だったらどうしよう。自分は大事な不動産をみすみす無駄にしているだけなんじゃないか──そんな不安がよぎることだって一度や二度ではなかったはずだ。

 その後、ラーナーは1997年にこの世を去る。あの独居老人が放置し、残された者が片付けを諦めた部屋のほうが、発見者である家主よりも長く現世に生き残ることになったのだ。結果的にこの部屋は2000年4月13日に解体されるまで、実に27年のときを生き延びた。その間、老人が残していったゴミ同然の絵や文章は、美術界が競って議論する世紀の問題作として世界中に名を轟かす。すんでのところで焼却の難から逃れたほかのガラクタについても、公的な施設での保存、収蔵、研究が特段に進められることとなる。ラーナーの英断であったというほかない。

 この壮絶なゴミ=宝の山こそ、「アウトサイダー・アート」の名を一躍高め、その世紀の一大傑作の担い手として世界に名を轟かせることになる老人作家、ヘンリー・ダーガーの創作物だったのである。

 ただし、それに先立ってネイサン・ラーナーによる発見の経緯について詳しく記したのには理由がある。アウトサイダー・アートにとって第一発見者の存在が、いかに重要であるかを具体的に示したかったからだ。 

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椹木野衣

一九六二年埼玉県生まれ。美術評論家。多摩美術大学美術学部教授。同大学芸術人類学研究所所員。同志社大学卒。『シミュレーショニズム』(ちくま学芸文庫)、『日本・現代・美術』『なんにもないところから芸術がはじまる』(ともに新潮社)、『「爆心地」の芸術』(晶文社)、『太郎と爆発』(河出書房新社)、『戦争と万博』『後美術論』(ともに美術出版社)、『反アート入門』(幻冬舎)など著書多数。

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