大阪在住、缶チューハイ片手にフラッと散歩が趣味のライター・スズキナオさんの最新エッセイ『このロボで、行けるところまで行くしかないのだ。』が発売になりました。歳を重ねるにつれ積もる、やるせない気持ちを綴った本書より、スズキさんの“寂しさ”を味わって下さい。
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あの重たさが今もどこかにある
部屋のどこかに子猫がいるのをすっかり忘れたまま日々を過ごし、ある時、それに気づいてゾッとするという夢をよく見る。子猫の姿は見えないが、何日もずっと世話を忘れてしまっていたのだから、もう死んでしまっているかもしれない。なんと大変な失敗をしてしまったのかと絶望感に襲われ、だが、どうしても怖くて、子猫の様子を確かめることはできない。目が覚めた後、「夢でよかった」と心底ホッとして、重苦しい夢の疲れと、そこから解放された安堵の中でもう一度眠りに落ちる。
自分にこの夢を繰り返し見させているのは、2週間ほど自分の部屋にいて、人にもらわれていった子猫の存在だと思う。中学時代、週に数回のペースで学習塾に通っていた。教室は割と近所にあって、家から自転車に乗って10分ほどの距離だった。そこで2時間近く勉強して、友だちとコンビニに立ち寄り、パンでも買って食べながらしばらく他愛のない話をして、気が済んだところで帰路につく。隅田川にかかる新大橋へと続く、その名も「新大橋通り」という大きな道路に沿って自転車を走らせていたある夜、小さな猫がヨタヨタとした足取りで通りを横切ろうとしているのを見た。
その猫のサイズからすれば、幼児が大きな川を泳いで渡り切ろうとするようなもので、その試みは無謀に思えた。というか、最初は小さな生き物が大通りを渡ろうとしているのが信じられず、自分の見間違いではないかと思いながら、暗い道に目を凝らした。しかし、やはり猫がいる。親からはぐれてしまったのだろうか。あるいはこの近くに捨てられてしまったのか。
子猫は頼りない足取りで通りの向こうへと進んでいくが、何台かの車が、気づくわけもなくそのすれすれを走り過ぎていく。直視するのもおそろしいが、もうその存在を知ってしまった以上、目を離すことができなかった。一台の車のタイヤが、子猫の後ろ足に接触ひしたように見えた。信号が変わり、私は自転車を置いて大通りに駆け出した。轢かれてもうだめかもしれないと思ったが、こわごわ近づいてみると、幸い、子猫はまだ生きているようだった。両手に抱えて歩道へと戻り、そっと自転車の前かごに乗せて実家のあるマンションまでたどり着いた。
玄関先で母を呼んで子猫を見せ、状況を話す。命に別状はなさそうなものの、片方の足はやっぱり車に轢かれてしまっていて、自由に動かせないようだ。とにかく今夜は牛乳とエサを与えて様子を見ることにして、明日になったらすぐ動物病院へ連れて行こうという話になった。私が買ったナイキのスニーカーの空き箱にタオルを敷き、それを寝床代わりにしてみることにした。明るい部屋で見てみると、両手にすっぽり抱えきれてしまうほどの小さな体はキジトラの模様の毛で覆われていた。ミャーミャーと、時折細い声で鳴いた。 翌朝、子猫を動物病院に連れていってくれたのは母だったと思う。記憶はおぼろげだが、車に轢かれたように見えたにもかかわらず、レントゲン写真からすると、足の怪我は大したものではないと聞いた。
子猫の回復力は強く、本当に、数日の間にみるみる良くなって、しっかりした足取りで歩けるようになった。風呂場で体を洗ってやると、毛の艶も戻り、小さな頭部に見合わないほど大きな目が輝いて、なんとも愛嬌があった。私の部屋をひょこひょこと歩き回るその姿が愛らしく、このまま飼い猫にしてしまいたいと思ったが、我が家には一匹、すでに長く飼っている猫がいて、モモという名のその白猫には繊細なところがあり、子猫を私が家に連れ帰って以来、押し入れの隅に姿を隠して出てこない。
先輩猫のモモにしたら、ある日いきなり知らない猫がやってきて、自分の平穏な日々がふ びん奪われてしまったわけである。それは不憫なことだ。母との協議の末、誰か子猫をもらってくれる先が見つかれば、その家に譲ることにしようという話になった。可愛い子猫だから、飼い主はきっと見つかるはずだと母は言う。情が移ってしまうのが怖くて、名前はつけないでおいた。
しばらくして本当に飼い主が見つかり、子猫はもらわれていくことになったのだが、それまでの2週間ほど、自分の部屋に小さな、か弱い生き物がいるという状況を私は生まれて初めて味わうことになった。眠りから覚め、子猫が無事に生きているのを確かめては安心する。子猫がひょこひょこと部屋で遊び回った末、私の手が届かない、物置棚の下へ潜り込み、しばらく出てこないこともある。一つ一つの動きが愛しくて仕方ないが、あまりに小さな生き物だから、見ていると心細い気持ちにも襲われる。いつ呼吸を止めてもおかしくないように思えてしまう。
その時の気分が、おそらく今も私に子猫の夢を見せている。そして、その不安な夢の中に、子猫と共に、幼い子どもが現れることもよくある。子猫の生存に対する懸念が、いつの間にか子どもに対する気持ちにすり替わっていて、最終的には無事な子どもの姿を見て安堵する、というような展開が多い。私には二人の子どもがおり、現在、長男は中学3年生、次男は小学6年生である。
170センチ弱の私の身長を、バスケットボールの練習に熱心な長男はとっくに超えており、同じくバスケ好きの次男も、もうすぐ私の背と並びそうだ。二人とも、学校から帰ってくるなり静かにスマートフォンを眺め続けている。ゲームをしたり、ショート動画を見たり、私は彼らが何をしているのか、よく知らない。詮索されるのも嫌だろうと思うから、居間に一緒にいても、私はテレビかパソコンの画面を見て、子どもたちはスマホを見て、みなそれぞれに静かだ。
そんな子どもたちを、自転車の前に取り付けた幼児用シートや、後ろの座席に乗せて走っていたことも当然あった。その頃のことを未練がましく懐かしんでいるわけではないし、手がかからないどころか、自分が特に必要とされる機会もないほどに大きく育ったことに気楽さを感じているはずなのに、夢の中に繰り返し現れるのは、両手で抱え上げられるほどのサイズだった頃の長男の姿である。
そこに現れる息子の像は、まだ2歳か3歳か、それぐらいの時のものだ。その頃、長男に卵アレルギーがあることがわかった。卵を使った料理を食べさせてみたところ、いつも通りよく食べはしたが、しばらくして口の周りのあちこちが赤くなったのだ。
幸い、赤みはほどなくして引いていき、その後、医師に「年齢とともにアレルギー反応が改善することも多いので、少しずつ、慎重に様子を見ながら卵を与える分には問題ないと思いますよ」とアドバイスをもらって少し安心した。医師の言った通り、息子は今では平然と卵を食べているが、口の周りを赤くしたあの幼い姿は、脳裏に焼き付いてずっと離れないままだ。
どこか困ったような、ムスッとしたような表情で、食べこぼしをキャッチするためのシリコン製のエプロンを首からかけて、口の周りが赤くなっている。それを見た時、自分とはまったく別の存在が目の前にいることの心細さに私はゾッとしたのだと思う。別の存在でありながら、先天的な部分のある程度を、私から受け継いでしまったせいでこのようになっているのかもしれなかった。
元気に成長していけるか、この人は誰かに愛され、助けてもらえるだろうか、もし誰もいなくなって、一人になっても生きていけるだろうか、この世界が気まぐれで不確定な要素で成り立っているのは自分の生きてきた過程で味わってきたことだから、考えるほどに怖くなってくる。
妻が二人目の子どもを出産する前、産婦人科の定期健診で切迫早産のおそれがあると診きゆうきよ断され、急遽入院することになった。当時、私は会社勤めをしており、しかも、それまでのん気なダメ社員としてやっていた代償かのようにプレッシャーのかかるプロジェクトを任されていた。そんな経験は人生で初めてのことで、早朝から終電近くまで働いても作業が追い付かないような日々だった。その状況を知り、大阪に住む妻の妹一家が、長男をしばらく預かってくれることになった。義理の妹には、長男と歳の近い息子がいて、それまでもお互いの家を訪ねた機会に仲良く一緒に遊んでいたから、長男にとっても賑やかでい いのではないかと、そう言ってくれたのである。ありがたい言葉に甘えさせてもらうことにして、週末、私は長男を連れて新幹線に乗った。
母親のいない日々に戸惑い、毎晩泣き疲れて眠っていた長男だったが、いとこに会いに大阪に行けるということを理解して、新幹線の中では楽し気だった。昼間に大阪に着いて、義理の妹の家を訪ね、長男を預けた後、私は一人で東京へと戻る予定になっている。母に加えて父(私)までいない環境でしばらく過ごすことになるのだと、そこまで正直に話すことはできなかった。「大阪で毎日遊んで、きっと楽しいよ」と、道中、そんな風に調子のいいことを何度も言った。
義理の妹の家に着いてしばらくして、長男がいとこと一緒におもちゃで遊んでいるうちに私は静かに外に出た。そうしなければ、去っていく私に気づいて長男が泣き出すかもしれないと、義理の妹がそのように配慮してくれたのだった。玄関で靴を履き、遠くから長男の姿を見た。私に気づくこともなく、おもちゃを手にして笑っている。その姿を最後に数秒眺め、振り返り、ドアを開いて外に出て、祈るような気持ちでエレベーターホールへ向かう。
それから1か月ほどして、無事次男が生まれ、長男を迎えに再び大阪に行くことになったのだが、あの、気づかれないようにそっと長男から離れていった時の気分もまた、私の心に刻まれたように消えない。
かつて、子どもの存在がか弱く思えて不安になると、私はその体をよく抱きかかえた。そうすることで何が解決するわけでもなかったが、そうせずにはいられないほど、心細過ぎる世界に、私たちはいるのだった。
それから10年以上が経って一家で大阪に移り住むことになり、私は会社勤めをやめてフリーライターの仕事を始めた。不安だの心細いだの言いながら、より先行きの見通せない方に歩みを進めたようにも思えるが、妻と、子どもたち自身の力によって、二人は無事、大きく育っている。自転車に乗せられたことが信じられないほどに二人は成長し、一人の独立した若い人、という感じで存在しているが、私は未だに幼い姿を夢に見ては、不安な思いで目を覚ます。そんな時、いくら心細くても、もう抱きかかえることはできない。
切ない気もするが、同時に、早くもっともっと大きくなってくれ! とも思う。卵をバンバン食べて、ジャンプすればバスケのゴールに手が届くぐらいに、早くなって欲しい。あの小ささとあの重さは、きっとこれからも私の夢の中に現れるから、寂しくはない。
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このロボで、行けるところまで行くしかないのだ。

なんと平凡な中年だろうか――。
缶チューハイ片手にふらっと散歩が趣味の、中年フリーライター。
歳を重ねるにつれ寂しさが積もる日々を綴る、書き下ろしエッセイ。
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