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生まれたくなんかなかったのに

2026.05.26 公開 ポスト

「働きたくない」「親が嫌い」「死にたくもないけど、生きたくもない」は甘えでも怠けでもない小島和男(哲学者)

生まれたくなかった。でも、生まれてしまった。その感情から始まる哲学――反出生主義を研究する小島和男氏による新書『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』が5月27日に発売になります。「生まれたくなかったのに、なぜ生きるのか」を問う本書より、「はじめに」後半をお届けします。(「はじめに」前半

生きづらさは社会全体で考えるべきこと

20世紀アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの「無知のヴェール」という思考実験がある。自分がどのような条件のもとに生まれるかを知らない状態で、社会の制度を設計してみる。裕福な家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるか。健康な身体で生まれるか、障碍があり生まれるか。それが分からない状態で、どのような社会にしたいかを考える。そうすると、最も不利な立場にいる人のことを考えざるを得なくなる。

反出生主義は、この問いをさらに一歩進める。「生まれること自体がすでに制度の結果である」という認識だ。どの国に、どの家庭に、どの身体で生まれるか。それらは個人の選択を超えている。同意なく、この世界に送り出される。だからこそ、生まれてしまった後に苦しまない仕組みを社会全体で考えなければならない

アメリカのケアの政治学者ジョアン・トロントは、ケアを個人の徳ではなく、社会全体の仕組みとして捉える議論を展開した。私は、ケアのニーズとそれを満たす方法が、正義・平等・自由という民主主義的価値と整合しているかを、社会的に点検したい。友達がいなくても、安心して生活できる社会。いざというときに助けを求められる制度がある社会。ケアを個人の善意に任せるのではなく、社会全体で支える仕組み。それが、本書の考える「より良い社会」の姿だ。

反出生主義の核心にあるのは、悲観ではなく、他者への配慮だ。苦痛を問題にすること。意識ある存在が生まれると、必ず苦痛を経験する。どんなに恵まれた人生でも、病気、怪け我が、失恋、挫折、孤独、そして死。苦痛を完全に避けることはできない。だから、新たな生命を生み出すことには慎重であるべきだ、というのが反出生主義の基本的な主張だった。

しかし、すでに生まれてしまった存在がいる。自分も含めて。そして、その存在たちは苦痛を感じている。ならば、その苦痛を少しでも減らすことには価値があるのではないか。

私が考える「続ける価値」の中心にあるのは、他者の苦痛を少しでも減らせる可能性だ。身近な人が困っていたら、手を差し伸べる。日常的な親切を心がける。制度や社会に働きかけて、苦しんでいる人が少しでも楽になるようにする。

人間だけではない。動物もまた、苦痛を感じる存在だ。私は今、2匹の猫と暮らしている。ジュードとさびこという名前の、元野良猫だ。いわゆる「さくらねこ」で、不妊・去勢手術を受けて耳の先がV字にカットされている。以前から大学のキャンパスで暮らしていた猫を引き取ったり、保護団体から譲り受けたりし続けている。

猫たちは縁あって私の家に来ることになった。その猫たちを助けることに、どれほどの意味があるのかは分からない。地球上には、苦しんでいる動物が無数にいる。何匹かの猫を助けたところで、全体から見れば誤差のようなものだ。しかし、少なくともその何匹かにとっては、暖かい家で安心して眠れることには意味がある。私にできることは限られているが、できる範囲で、目の前の苦痛を減らすことはできる。

本書が繰り返し問うのは、「苦痛を避け、加害しないこと」の大切さだ。自分の苦痛を避けること。これは自分を大切にすることだ。無理をしすぎない。心身を壊すような働き方をしない。自分を傷つける人間関係から距離を置く。できる範囲で、自分の苦痛を減らす工夫をする。これは「怠け」ではない。自分を守ることだ

そして、他者を害さないこと。自分の快楽のために他者を傷つけない。自分の成功のために他者を踏み台にしない。加害者にならないこと。世の中には、目標を達成するために他者を傷つける人がいる。出世のために同僚を蹴落とす。利益のために顧客を騙す。フォロワーを増やすために誰かを炎上させる。そうした「成功」に何の価値があるだろうか。むしろ、何も成し遂げなくても、誰も傷つけずに生きたほうが、はるかに価値があるのではないか。「苦痛を避け、加害しない」。これだけでも、十分に価値のある生き方だと私は思う。

ただし、ここで謙虚さが必要だ。

19世紀イギリスの哲学者ハリエット・テイラーとジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、「半真理」という考え方を示している。どんな意見も、完全に正しいわけではなく、完全に間違っているわけでもない。多くの場合、真理は複数の意見の間に分散している。だから、自分と異なる意見にも耳を傾ける必要がある。相手の意見の中にも、真理の一部が含まれているかもしれないからだ。

反出生主義も、「半真理」だ。私はこの考え方に説得力を感じているし、この本でさまざまな角度から論じる。しかし、それが完全に正しいとは限らない。反出生主義に反対する人々の意見の中にも、真理の一部が含まれているかもしれない。子どもを作ることを選んだ人にも、それなりの理由や価値観がある。その価値観を、私は全否定するつもりはない。

そして、私自身の立場についても、留保が必要だ。

私は多くの点でマジョリティに属している。男性であり、大学教授という社会的地位があり、重い障碍はない。そして、言葉を使う訓練を長年受けてきた。こうした属性は、私が意識しようとしまいと、社会の中で特権として機能している。

マジョリティに属する人間が何かを語るとき、その言葉は、マイノリティの人々に対して、意図せず抑圧的に機能することがある。イギリスの哲学者ミランダ・フリッカーは、こうした問題を「認識的不正義」と呼んだ。言葉にできない苦しみを抱えている人がいる。自分の経験をうまく言語化できない人がいる。そういう人が「論破」されたら、黙るしかない。でも、黙らされたからといって、その人の苦しみが消えるわけではない。

だから、対話を呼びかけること自体が、言葉が得意な側の特権なのかもしれない。その自覚を持ちながら、それでも語ることを選ぶ。語らないことで、苦しんでいる人が一人で抱え込み続けることになるかもしれないし、不完全であっても言葉にすることで、誰かの助けになるかもしれないと思うから。

本書の姿勢を一言で言えば、こうなる。生きることを勧めないが、生きる人を責めもしない。死を肯定しないが、死を語る人を否定もしない。私はただ、「生まれてしまった者」として、今ある現実の中で、どんな身のこなしが可能かを考えたい。苦しみを美化せず、かといって切り捨てもしない。その間に、思考の居場所を探したいと思う。

「働きたくない」「結婚したくない」「親が嫌いだ」「死にたくないけど、生きたくもない」。そうした声に、「怠け」「わがまま」「甘え」というレッテルを貼らないために、この本はある

倫理学は、本来そのための技術だったはずだ。人の痛みを、正確に受け取るための道具。それを今一度、生活の側に戻したい。

生まれたくなんかなかった。でも、生まれてしまった。だから、この矛盾を抱えながら、それでも生きていく。死ぬのは難しいし、目の前に苦しんでいる存在がいるから。猫でも、人間でも、できる範囲で、苦痛を減らす努力をする。それが、生まれてしまった者の、せめてもの責任なのかもしれない。

この本が、誰かの生きづらさを少しでも解きほぐす助けになれば、と願っている。

小島和男『生まれたくなんかなかったのに』

その感情から始まる哲学がある――反出生主義だ。 苦しみは、生まれたことに伴って生じる。 食べていくための労働、結婚しないことへの不安、孤独の居心地の悪さ、そして避けられない老いと病。生きづらさは、甘えや怠けのせいではない。望んでもいないのに、不完全な制度と社会のもとに生まれ落ちたからなのだ。 問題は社会であって、個人ではない。その構造を見抜くことで、自らの苦痛を減らす道筋が見えてくる。 反出生主義の哲学者による、自分を守るための人生論。

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生まれたくなんかなかったのに

2026年5月27日発売『生まれたくなんかなかったのに』(小島和男著)について

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小島和男 哲学者

学習院大学文学部哲学科教授。1976年生まれ。博士(哲学)。専門は、古代ギリシア哲学、反出生主義、うどん。日本うどん学会理事を務め、研究対象の貴賤の無さを語る。著書に『プラトンの描いたソクラテス』(晃洋書房、2008年)、『反出生主義入門』(青土社、2024年)、翻訳書に『生まれてこないほうが良かった』(デイヴィッド・ベネター、田村宜義との共訳、すずさわ書店、2017年、新訂版2024年)などがある。

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