2021年に「小説家になろう」で連載を開始した、久々原仁介さんによる恋愛小説「海のシンバル」。
下関のラブホテルを舞台に、お互いの顔や姿を一切見ることなく、短い手紙のやりとりだけで恋をする男女の切ないストーリーが多くの共感を集め、2022年に実施された、書籍化を目指したクラウドファンディングは431%を達成。私家版は文学フリマ等で発売され、たくさんの方に読まれました。
それから4年。大幅な加筆・修正がされた新版『海のシンバル』が2月18日に全国発売され、即、重版が決定しました。
"最後に謎が明かされる時、きっとあなたは涙する。" 感動のヒューマンドラマ、冒頭の一挙試し読みをお届けします。
第一話 青く、深く
しらしらと、静かに海が鳴いている。
一層深く響いた細波が窓辺の僕を呼ぶように、冷たくなった頰へと触れる。読んでいた文庫本から顔を上げると、猫背でカラダの細い男の影が、ぼんやりとガラス窓に映っていた。
読書用の眼鏡を外すと、ずれたピントが合わさって窓外の景色が徐々に浮かび上がってくる。未だに冬の終わりが見えない港町は、暖色に包まれた店内と対となるかのように、青灰色に染め上げられていた。
僕がいるのは、国道191号線の海岸沿いにポツンと立つ古民家のようなカフェだった。平屋建ての木造家屋は、潮風に晒された痕跡を随所に残しており、屋根は湿気のせいか鈍く光っていた。
店内は、和モダンな温もりある空間になっている。奥に並んだテーブルからは、扇形の海岸と、それに接する梶栗郷の町並みを一望することができた。
手元のコーヒーに口をつけようとしたとき、カップの中身が空になっていることに気が付いた。底に残った黒ずみが、どことなく物憂げな気持ちを誘ってくる。舌に残った苦みから目を逸らし、もう一度文庫本に手を伸ばしたとき、店内に「からんからん」とせわしなくドアベルが響き渡った。
振り返ると、薄い桜色のコートを羽織った女性が息を切らして立っていた。肩甲骨くらいまである柔らかそうな髪の毛が、ところどころ跳ねている。彼女は髪を二、三度撫でながら慌てた様子で店内を見渡した。
店内でテーブルに座っている人間は、いまは僕しかいない。視線がこちらに向いたとき、彼女の動きは一瞬止まり、草花が風に吹かれるみたいに小さな会釈をした。
女性は、二十代半ばくらいだろうか。自分と大して年齢は変わらないように映った。彼女は案内しようとしていた店員を避けて、ぱたぱたとこちらのテーブルまで駆け寄ってくる。
「あの、磯辺逢深さん、ですか」
呼吸も整わないまま呼ばれた名前に、咄嗟に言葉が出てこなかった。
まるで、自分が「磯辺逢深」という人間であることを、長い間忘れていたような気さえしていた。
「遅れてしまって、ごめんなさい。カフェを見つけるのに、時間がかかってしまって」
何も喋らない僕を見て、目の前の女性は恥ずかしそうに頭を下げる。
むしろ道に迷わせてしまっただろうかと申し訳なかった。梶栗郷は、町を横切る国道から分岐する細い道が多い。海辺の道路まで出れば一本道ではあるが、待ち合わせ場所として選ぶには不便な場所だったかもしれない。
謝ろうと口を開けたが、先に彼女の目元が優しく微笑んだ。
「でも、会えてよかった」
僕の態度に白い布を被せるように笑うから、唇に力が入って、黙ったままになってしまう。
「自己紹介が遅れてしまいましたね」
彼女は着ていたコートを脱ぐと、懐から取り出した名刺入れから、一枚抜き取って差し出した。
外がずいぶんと冷え込んでいたのか、指が霜焼けで赤くなっていた。
「ウェブライターの秋山千鶴と申します。改めて、今日は取材を受けて頂きありがとうございます」
出された名刺に、自分が席に座ったままだったことに気付かされる。椅子を倒さないようにテーブルに手を添え、慎重に立ち上がった。
「はじめまして、僕は」
そこまで言いかけ、途中でやめる。
「磯辺と、申します」
差し出された名刺を両手で受け取る。
少し遅れて、自分に返せるものがないことに気が付いた。
「こちらにお渡しできる名刺がなく、申し訳ありません」
「そんな、気にしないでください」
突然頭を下げた僕に驚いたのか、秋山さんは何でもないことだと胸の前で手を振る。
「僕らの仕事は、人目に触れる機会がなかったんです。だから、誰にも名刺はありませんでした」
働いていた当時は、何の不便も感じなかった。心許なさを痛感したのは、仕事を辞めざるを得ない状況になってからだった。
「……磯辺さん、座りましょう。お話は、それからで」
このまま立ち話を始めてしまいそうになるのを抑える。
コートを椅子にかけてから秋山さんが腰を下ろしたところで、キッチンからウェイトレスが注文を取りに来た。
メニューをちらりと見て、彼女は考える素振りを見せる。
「わたしは紅茶をお願いします。磯辺さんは?」
すっかりカップが空だったことを忘れていた僕は、促されて追加のコーヒーを頼む。注文を終えると、秋山さんは珍しそうに店内を見渡していた。
「素敵なカフェですよね。磯辺さんの、行きつけなんですか」
「同僚に、教えてもらったんです。ここからだと、よく梶栗郷の海辺が見渡せます」
カフェはアートギャラリーを併設しており、いたるところに梶栗郷の風景写真や絵画、ポストカードが飾られている。
話し声も、音楽もない。この静かな空間を好んでいるといえばそうかもしれない。しかし、いまの僕からは「行きつけ」という感覚が欠落していた。執着と呼ばれる方が、余程しっくりくる。
「晴れていたら、海岸の一番西側に『ピシナム』の白い建物が見えるんです」
ガラスを隔てて響く波風が、少しばかり心を揺さぶってくる。まだ昼間であるのにも拘わらず、日が落ちてしまったかのような町並みからは、『ピシナム』を探すことはできなかった。
「……秋山さん。そろそろ、始めましょうか」
暗雲が立ち込めた空を二人でしばらく眺めながら、会話のきっかけを探るように発したのは、僕の方だった。
「そうですね。このままだと、ずっと探してしまいそうなので」
垣間見た横顔から覗くのは、化粧で隠すことのできない幼さだった。
「本日はファッションホテル『ピシナム』の取材ということで、よろしかったでしょうか」
津留崎さんから電話があったのは、一週間前のことだった。
いつもなら開口一番に体調を気遣う話をする人だ。「体調はどうだ」「仕事で困ってることはないか」とか。けれどその日は、挨拶もそこそこに、「今回の取材は絶対に受けなさい」と、いつになく硬い声で言った。受話器の向こうで咳払いを一つしてから、「頼むよ」と、いつもの穏やかな調子に戻る。
その落差が、胸のどこかに残った。
理由を訊ねなかったのは、津留崎さんから説明がなかったからだ。理由を話さなかったということは、話さない理由があるのだろう。
これまでも、津留崎さんの言葉に動かされてきた。今回もきっと、遅かれ早かれ、そうなるのだとわかっているのだから、わざわざ確認する必要もない。
秋山さんからの挨拶と、取材を打診するメールが届いたのは、その夜のことだった。
「ご存知だと思いますが、『ピシナム』はすでに廃業したホテルです」
ファッションホテル『ピシナム』は二〇一九年二月、多くの人に惜しまれながら、その歴史に終止符を打った。
ちょうど、ひと月前の出来事だ。
「最初は、潰れたホテルの取材なんて、どうしてするんだろうと思いました」
閉業する話を津留崎さんから初めて聞いたのは、三年前の冬だった。
まるで乗っていた観覧車が、頂点へ上る前に停電したみたいに、目の前が真っ暗になったことを覚えている。
「それでも、理由なんて何だってよかったんです。ただ僕は……だ」
だ、だ、だ、と。濁音が三回。乾いた口の中をごろごろと転がってうまく発音できなくなる。
無意識のうちに、俯く自身の喉元に手が伸びていた。
「誰かの心に、あのホテルを、残して、おきたかった」
ホテルをたたむまで三年という時間を要したのは、勤めていた従業員の新しい就業先が見つかるまで、経営を続ける方針だったからだ。
『ピシナム』がなくなったあと、僕を含むスタッフ数人は津留崎さんの紹介で、隣町にあるビジネスホテルで働いている。
それでも「職を失わなくて安心した」なんてことを言う従業員は、誰一人としていなかった。
「ここに来るようになったのは、『ピシナム』がなくなってからです」
休日、このカフェに来ては遠目に見える白い建物ばかりを探している。そしたら、いつの間にか陽が落ちている。そんな日々を、延々と繰り返している。
「ずっと、あのホテルに骨を埋めるつもりで働いていました。きっと、いまここにいる僕は、抜け殻みたいなものなんです」
いよいよ壊れた機械のようになっていくのと、この欠落に耐え切れなくなって忘却を選ぶ日と、どちらが早いのだろうと、昼も夜も怯えていた。
そんな愚痴にもならないことを訥々と話していると、彼女は僕の名前を呼んだ。
「磯辺さん」
金管楽器の吹き口に注ぐ、吐息のような声だった。
共鳴し、震わせるベル・トーンが僕の耳へと優しく触れる。
「こんなことを言ったら、わたしはあなたを怒らせてしまうのかもしれません。それでも、少しだけお話を聴いては頂けませんか」
小さな水溜りのような澄んだ瞳には、いまは僕しか映っていない。
「ライターなんて仕事をしていると、色んな人に取材をします」
彼女は持っていた仕事鞄から手帳を取り出し、テーブルに置く。
「同じテーマで取材をしても、面白おかしく喋る人もいれば、泣いて訴える人もいます。何が違うんだろうと、ずっと考えていました。最近になって、それがぼんやりと、見えるようになってきたんです」
胸に、手を添える。
その形が、花開く前の蕾に見えた。
「それは言葉を託そうとする人と、自身に刻み込もうとする人の違いです」
託す人、刻む人。
ドクドクと、心臓がいつもよりハッキリと脈打つ。
「大切な話をするとき、人は相手の感情を動かそうと考えます。だから、自身も感情が剝き出しになっていく。誰かに、憶えておいてほしいと、つよく願うから」
磯辺さん、と、再び彼女は名前を呼んだ。
「わたしは、忘れることを罪だとは思いません。ですが、忘れることと傷が癒えることは違うと思います。忘れてしまえば、その傷は永遠に癒えることはありません。ただ血が流れていくことに慣れて、鈍感になっていくだけです」
彼女の手に握られたボールペンが、ノートの上でじんわりとインクを広げる。
「わたしは、忘れてはいけない誰かの記憶を、遺すために取材を続けています。『ピシナム』も、その一つです。そのためにわたしは、磯辺さんに逢いに来ました」
言葉で編んだ手を差し伸べ、秋山さんは続ける。
「それでもあなたが、自分を壊れた機械だと言うのなら。わたしはその部品が欲しいんです」
包帯の下にある傷跡を、そっと見せてくれたような優しさが、不意に胸の内側へ流れ込んでくる。
秋山さんは、僕の欲しい言葉を必死に与えようとしてくれる。一方で、答えを求める瞳の奥にあるものは、僕と同じく脆さに見えた。
「……どうして、僕なんでしょうか」
『ピシナム』は、他にもベテランの従業員は数名いた。それは当然、オーナーである津留崎さんも理解しているはずだ。それなのに口下手な僕がなぜ指名されたのか、疑問だった。
秋山さんは、そんな分かりきったことをどうして訊くのかと、不思議にさえ思っているように微笑んだ。
「あなたが、最も『ピシナム』を愛しているホテルマンだ、と。津留崎オーナーから伺ったからですよ」
ずっと口の中にあった溶けない氷が、崩れていくような心地で満たされる。
あの人らしいな、と思った。
「そういう、人なんですよ。自分だって痛いのに、それでも誰かのために走れる人なんです」
額に手をやると、触れた指先から目元に皺が寄っていると分かる。自分が、ずいぶんと泣きそうな顔になっていることに気が付いた。
大きく吸ってから吐いた息は、小刻みに震えていた。
「僕がホテルに勤めたのは、津留崎さんに拾って頂いたのがきっかけなんです。居酒屋で働いていた僕に、声をかけてくれて」
当時は大学の授業なんてろくに出ないで、アルバイトに明け暮れていた。
勉学の意欲がなかったわけではない。誰かと一緒にいなければならない大学の空気が、とにかく自分の肌に合わなかった。
「初めてでした。誰かに期待されて、居場所を与えられたのは」
テーブルを拭いていた手を、津留崎さんが「良い手をしている。大きくて、ベッドシーツを綺麗に張れる手だ」と言ってくれた。
しかしあの人が褒めてくれた手には、いま虚しさだけが残っている。
「……秋山さん、取材の前に一つだけいいですか」
「いいですよ、何でも仰ってください」
風が窓を叩き、かたかたと震える。
「僕は、人と話すのが得意ではありません」
「あ、時間はどれだけかかっても構いませんよ。ゆっくり、お話ししてもらえれば」
秋山さんの声からは、できるだけ僕を安心させようとしているのが伝わってくる。
だから、いま何かが足りないと僕が焦っていることに、彼女の落ち度はなかった。
「そういうことでは、ないんです。どれくらいの距離感で話したらいいか、言いたいことは正しく伝わっているのか。不安を置き去りにしたまま、僕は『ピシナム』について話したくはないんです」
もっと慎重に、言葉を選んで。そう考えるほどに相手とすれ違っていく。今までの二十五年という短くも長くもない人生で、人より多くの失敗を学んできた。
「ですから、これから受ける取材はどうかファッションホテル『ピシナム』のホテルマンとして話をさせてください」
テーブルの木目を見つめて、ツギハギの言葉を重ねる。秋山さんが、困っているか、呆れているのかも分からないまま、口を動かす。
「そうすれば、正しく伝えられる気がするんです」
潰れたホテルの従業員を演じること。それはもしかすると、取材の趣旨や、秋山さんが知りたかったことからは、方向性がズレてしまうのかもしれない。
それでも僕は、この青臭くて愚かな行いを、今だけは赦してほしかった。
「この時間だけでも、わたしは『ピシナム』のゲストになれますか」
ここで笑うことのない真摯な瞳をした彼女を、初めて美しい人だと思えた。
秋山さんからもらった言葉たちが束を成し、頭を二回、コンコンとノックする。
「……もちろんでございます」
口調が、ホテルマンの恭しさを伴って背中は真っ直ぐに伸びていった。
ずっと眠っていたホテルマンとしての僕が目を覚ましていくような感覚が、首筋から下りて指先の神経まで巡っていく。小さなカフェが、かつての薄暗い受付へと変貌していく感覚がカラダを瞬く間に覆った。
イメージする、視界は暗く澄んでいく。
ここは『ピシナム』の受付室。机上に置かれたランプシェードは煌々と光り輝いて周囲を照らす。右手側には年季の入ったレジスター。左手側には部屋の鍵が入ったキーボックス。ボールペンと領収証用紙の束が、無造作に置かれていた。
「『ピシナム』は、何より寡黙なホテルでございます」
ホテルに勤める初日に、まずはお客様に見つからないこと、話しかけないことを教え込まれた。
沈黙を守ることも業務のうち。『ピシナム』のホテルマンは、お客様と顔見知りにならないよう細心の注意を払っていた。
「ですので、これからは独り言のように聞こえるかもしれません。どうか、ご了承ください」
エントランスと受付は、ブラックフィルムの張られた厚さ四ミリのガラス壁で区切られていた。目の前に座っていたはずの秋山さんの姿からも色が落ちていき、ぼんやりとしたシルエットだけになっていく。そして無言のまま小さく頷く。
「それでは……ご案内いたします」
視界の真ん中に浮かぶ女性の影が、少しだけ誰かに重なって見えた。
第二話 『ピシナム』
『ピシナム』は、たくさんの観賞魚を飼育していることで有名なホテルでした。
エントランスの壁面は、大きな水槽で囲まれております。
ディスカスや、シルバーモーリー、エンゼルフィッシュなど、そこには鮮やかな熱帯魚たちが優雅に泳いでいました。照明は淡いブルーライトに統一されており、水槽から溢れ出る光が足元を照らしてくれます。
改めて、自己紹介をさせてください。
ファッションホテル『ピシナム』で、受付と清掃スタッフを務めておりました。
磯辺逢深、と申します。
よくラブホテルとファッションホテルを同じものだと勘違いされる方がいらっしゃいますので、最初にご説明させていただきます。
厳密に言うと、この二つは別物です。違いはいくつかありますが、私が思うに、決定的なのはフロントの受付にホテルマンが常駐しているかどうかという点です。
ラブホテルは基本的には無人ですが、ファッションホテルには二十四時間、受付にホテルマンが待機しております。
『ピシナム』もそうです。受付にある錆びついたパイプ椅子は、座る人が替わってもスタッフがその場を離れることはありません。あの青い座面が冷たくなったのは、ホテルを閉めたその時からです。
ファッションホテル『ピシナム』までのご案内を簡単に申し上げます。
山陰線の駅名にもある梶栗郷は、ここの最寄り駅から一つ先の駅です。線路と交差するように伸びる綾羅木川に沿って下ると、県営アパート群の先に開けた海岸が見えてきます。
その一番西側には、森の茂みに隠れてケーキボックスのような白い建物があります。そこがファッションホテル『ピシナム』です。
一見すると、田舎の古いホテルにしか見えないかもしれません。確かに携帯の電波は途切れますし、備え付けのテレビで観ることができるのはドラマか映画かアダルトビデオ。それも一昔前の。しかしそれは社会から、良い意味で隔離されているということでもあります。
言うなれば、『ピシナム』はお洒落なシェルターみたいなホテルでした。
利用するお客様や、働くスタッフにとっても特別な空間であり、何より誰に対しても寛容な時間を提供しておりました。
そんな素晴らしいホテルにも一つ、注意することがあります。
それは正面の押し扉が、漬物石のように重たいことです。
しかしこの仕様は、ホテル側からの粋な計らいでもあります。
これくらいどうってことないさ、お先にどうぞ。
あら、ありがとう。
こんな会話が、扉を開けてあげるだけで自然に生まれる。レディとして扱われる方も、頼られる紳士も、きっと悪い気はしません。
しかしながら、お客様のなかにはあの重たい扉を開けてもチェックインをするかどうか悩む方もいます。
悩まれているお客様には、ゲストテレフォンを取ることをお勧めしました。電話は、受付にいるホテルマンに直接繫がるようになっています。
コールは三回鳴るとピタリと止まります。二回でも、四回でもない。ギリギリ十秒に満たない、三回というタイミングが肝だったのです。
電話口の我々からは何も申し上げません。
何も応答がないのが、応答の合図です。電話が繫がったら、遠慮なくご注文ください。お客様が理想とするお部屋をお教えください。
我々は「イエス」とも「ノー」とも応えません。
なぜお客様と口を利かないよう細心の注意を払っていたのか。それは、顔見知りのホテルマンに、アダルトグッズや、避妊具を持って来いとは、お客様も言いづらいからです。ましてや田舎のホテルでは、どこで誰と繫がっているか分かりません。プライバシーを軽んじるホテルからは、客足は遠のいていくものです。
お客様からのご注文はそれぞれでした。
何も声が聞こえないから、お客様は壁と話しているように感じるかもしれません。しかし、その間にもご注文頂きましたお部屋を再現するべく、ルームメイキングは手際よく始まっています。
用件を言い終わったら、一度受話器を戻してその場で少々お待ちください。
しばらくすると、カウンターの上にある部屋番号が点滅します。お部屋の準備が整った合図です。受付カウンター向かって右側のエレベーターより、上階へお進み下さい。
余談になりますが、お客様は内装が気にいらなかったらすぐにチェックアウトしてかまいません。もちろんお代は要りません。お客様のご要望に応えられないのは、我々の落ち度であるからです。
『ピシナム』のホテルマンはお客様のご要望に応えることに自信と誇りを持っていました。特にルームメイキングは、スタッフの技量が問われます。ただの空室を、お客様の求める理想の空間に近づけなければなりません。
スタッフは二人一組で業務を行っていました。
ベッドのシーツや、時計、ハンガー、照明からスリッパの色まで。必要とあれば壁紙も変える。バスやトラックの車体に使う宣伝広告用のプリントシールを張り付けます。受付室の片隅に置いてある段ボール箱には、それこそ大きな花束のようにビニールロールが何本も挿されていました。
これは『ピシナム』ならではですが、部屋を選ぶ際に飼育している魚で指定するお客様もいらっしゃいました。
エントランスだけではなく、それぞれの部屋にも水槽があり、そこで飼われている魚も異なっていました。
201号室は金魚、202号室はグッピー、203号室はネオンテトラなど。三階からは海水魚のいるお部屋もございます。
ホテルで何をしたのか、されたのか。世の中は、そんなことばかりを気にしているように思います。私たちにとって、そんなことに価値はありません。我々が目の当たりにするのは、いつも抜け殻なのでございます。
お帰りの際のお支払いは、「気送管ポスト」でいただいておりました。
郵便受けのような小さな箱が、各部屋の洗面所の傍にある壁にはまっています。蓋を開けると、筒状のカプセルが管のなかに入っていて、そのカプセルにお金をいれて精算します。
お金をいれたカプセルを管に戻して、すぐ横の赤いボタンを押します。管は一階の受付まで繫がっていて、そこで精算をいたします。一階に降りてくる際に鍵を受付までお持ちください。
鍵をひったくるように取っていったお客様も、行為が終われば憑き物が落ちたみたいにそっと鍵をトレイに置いて帰っていかれます。
お客様には失礼なのかもしれませんが、可愛らしいなと思う瞬間もあります。そういったお客様の方が、リピーターになってもらえることが多いですから。
あくまで個人的な考えになりますが、お客様にとって行きつけのホテルなんてものはないと思っています。
同じようなホテルが二軒あったとして、お客様は距離が近いホテルを選びます。誰かと二人きりになりたいと思ったとき、価格や内装は重要ではありません。ラブホテルのような休憩場所を探すのであれば、なおのこと。
我々が心掛けるべきことは、このホテルになら大切なパートナーを誘ってもいい。そう、思ってもらえること。ただ、それだけでいいと考えています。
お客様の顔も見えません。言葉を交わしたこともありません。それでも、ベッドシーツを剝がすとき、浴室の水滴を拭き取るとき、あなたのためだと言えるように。
……今もまだ、『ピシナム』の看板がギラギラと光っているんじゃないかと、思うときがあるのです。女々しいかもしれませんが、ひょっとしたらって。
夜に光るファッションホテルのネオンが、火傷の痕みたいに瞼の裏に残っています。
最近はまた、梶栗郷もゴーストタウンのようになってしまいましたが、私が勤め始めたばかりの頃は少し違ったんです。
当時は繁華街も多少は賑わっていて、深夜の『ピシナム』は常に満室でした。
梶栗郷駅の線路沿いに、まだ新しい市営住宅のアパートがあります。黄色の壁面と、ベランダには烏除けのグリーンネットがかかっている小奇麗なアパート群です。
あのアパート群には被災割というのがあり、当時は県外からの移住者が大勢いたんです。被災割とは、罹災証明書を持って移住してきた方の移動費や引越し費用、敷金などの一部を市が負担するというものです。
そのなかには親縁や知人を頼りに、裸足同然で逃れてきた方もいらっしゃいました。移住してきた人の大半が、そこで新しい職を探しました。
疎開してきた方々が、シフトに融通が利く夜職へ就くことも決して珍しいことではありませんでした。とりわけ、多くの女性が水商売や風俗に流れました。
彼女らのおかげで、というのはあまりに配慮の欠けた言葉だと、私は思います。しかしながら梶栗郷の繁華街がほんの一時、息を吹き返したのも事実です。
一方で、あのアパートには近づいちゃいけないなどといった、心無い噂を流す人も後を絶ちませんでした。ほとんどが根拠もない妄想に過ぎない。だが何の寄る辺もない彼女らに、どれほどの重荷となったかは想像に難くありません。
風評や体面をないがしろにするわけではありません。ですが、性産業への偏見は我々が考えるより遥かに根深いものです。どれほど教育や福祉が図られたところで、人々が隠し持つ無意識下の偏見を取り払うことはできないでしょう。
だからこそ我々ホテルマンはその偏見の内側にも外側にもいません。隔てるように引かれた線上を、いまも粛々と歩いています。だからこそ、『ピシナム』で働けたことを誇りに思っているんです。
人は心に感じる痛みを、寂しさと呼ぶ生き物なのではないか。そんな話を津留崎さんがしてくれたことを覚えています。
すべての人に当てはまるような、素晴らしい比喩ではないかもしれません。それでも私は、あの人の言葉が好きでした。
痛み止めを飲み込むように、部屋に入っていくお客様をこの目で見てきました。あの人らが帰ったお部屋を見ると、どうしようもなく、胸を締め付けられるような気持ちになります。
提供するキャストも、消費するゲストも、そこに大きな違いはありません。我々はこの痛みをもって経済を回していました。
誰もが最愛のパートナーがいるわけではありません。将来を誓い合った相手が、必ずしもあなたの傷に寄り添ってくれるとは限りません。どうしようもなくなる日は、必ず訪れます。
『ピシナム』もまた、そういったお客様方のために居場所を提供できていたのなら、これほど報われたと思うことはありませんでした。
風俗業と比べるわけではありませんが、ホテルの業務もなかなか一筋縄ではいかないことばかりでした。ルームメイキング一つとっても、同じことの繰り返しだったことは一度もありません。
女子会でご利用のお客様で、枕の羽毛を部屋中に散らかして帰られたこともありました。アメニティの盗難などは珍しいことではありませんし、使用済みコンドームが天井にくっついて、ぶら下がっていたこともありました。アレを皆はてるてる坊主と呼んでいたことを覚えていますが、『ピシナム』特有の呼び方だったかもしれません。
力仕事も多かったですし、大変なこともたくさんありましたが、我々ホテルマンは『ピシナム』の仕事を誇りに思っていました。
……『ピシナム』はすでに廃業したホテルです。だからこれは、まったくしょうがない話になるのかもしれません。それでも一点、お客様にはお伝えしたいことがありました。
それは、ホテルにお忘れ物のないようにということです。
『ピシナム』には様々な責任者がいました。清掃責任者や、受付カウンター責任者、熱帯魚責任者まで。
私は遺失物管理責任者でした。お部屋にある忘れ物は一旦すべて私へ届けられます。本来、遺失物は法律で三カ月間の保管が規定されておりますが、『ピシナム』は六カ月間、ホテルでお預かりしておりました。
忘れ物で一番多いのはアクセサリーでした。
ピアスやネックレス、指輪は外すお客様が多いからなのかもしれません。眼鏡を忘れる男性もいました。たまに下着が届けられることもありますが、あれは忘れたのではなく置いていったのだと思います。
特に女性のお客様は、よくお部屋に『何か』を残してお帰りになられてしまうときがありました。
部屋にお客様の私物が落ちているわけではありません。ただ、別人のようになって部屋から出てくる女性を何人も見てきました。
たくさんの女性が、部屋に『何か』を忘れて帰られてしまいました。お問い合わせが来ることもありませんし、部屋を掃除しても忘れ物が見つかることはありません。だいたいはそのままです。
お忘れ物をしたお客様のことはできるだけ覚えているように努めておりました。いつの日にか、私のもとへと取りに来てくれることを願っていました。
ですが、半年が経ったら、形あるものも、ないものも、すべて忘れなければなりません。忘れ物をホテルでお預かりできる期間は、六カ月だけと決まっているからです。
『ピシナム』には或る種、そういう残酷さもあったのかもしれません。
第三話 息をする、白
閉じた瞼の隙間から、店内照明のチカチカとした白い光が差し込んでくる。
長い潜水を終え、海面に顔を出したような冷たい解放感が僕を支配していた。
「……磯辺さん、お疲れ様です」
声に導かれるまま目を開くと、テーブルの上に置かれた女性の白い手が見えた。段々と視界がはっきりしていくにつれ、なぜここにいるのかが明瞭になっていく。
遺失物管理責任者としての最後の仕事──忘れ物についての話が終わったあとも、秋山さんとの取材は続いていた。
とめどなく溢れ出るファッションホテルの幻影を、彼女は一つでも遺そうと根気強く問いを重ねた。僕もまた、言葉を介すことで『ピシナム』がわずかに息を吹き返すのを感じていた。
しかし正午から始まった取材は、十四時を過ぎたあたりで中断を余儀なくされた。
ホテルマンとしての語り部に徹するほどに、蓋をしていた記憶に指がかかる。目の前に座る秋山さんが、誰かの面影と重なりそうになった。その度に激しい動悸と眩暈に襲われ、放心状態に陥ってしまった。
「……すみません、秋山さん」
不出来な妄想を晒してしまったんじゃないかと、申し訳ない気持ちになる。
あれほど精巧に作り上げた『ピシナム』の姿は、すでに跡形もない。僕のカラダと脳は、カフェの店内に連れ戻されていた。
「大丈夫ですよ。きっと、まだ言葉がつかえているんです。もう少し、目を閉じていてください」
しばらく彼女に言われた通りに、目を瞑っていた。
すると脳裏に過るのは、やはり『ピシナム』のことだった。
紛れもなくあのホテルは、僕の人生の中核を担っていた。取材で秋山さんに答えていたことは『ピシナム』のことでありながらも、自分自身のことでもあった。
だからこそ、空っぽになってしまった水槽たちは墓石のように映った。所詮は雇われの身に過ぎないと頭では理解していながら、胸が締め付けられるほどに苦しかった。譫言のように、口の中で生まれてくる言葉を垂れ流していた。
「磯辺さんは、いまでもホテルマンなんですね」
秋山さんの声と、食器がぶつかる音が重なる。
店内には数組の客が座っていた。周囲のテーブルから漏れる談笑は、当初の静けさを奪い去っていく。
「もう『ピシナム』のホテルマンでは、ありませんが」
そうでしょうか、と。彼女は目を細めて、問いかけてくる。
「磯辺さんの話すホテルマンというのは、職業ではなく生き方なのではないでしょうか」
「生き方なんて、立派なものではありません」
「それでも、執着と呼ぶにはあまりに美しいと思ったので」
澱み歪んだ心に残る、綺麗な部分だけを掬うスプーンみたいな言葉だった。
椅子に預けていた背中がじわりと伸びて、カラダを覆っていた倦怠感は薄れていく。
単純な人間だと思われるだろうか。空いてしまった間を誤魔化すため、温くなったコーヒーに口をつける。
「秋山さんに、一つ質問をしてもいいでしょうか」
「もちろんですよ。今度は、わたしにインタビューですね」
彼女が残り一口だった紅茶を、こくりと飲みほした。
「さきほど、ウェブライターと仰っていましたが、普通の記者とは違うのでしょうか」
自ら話題を振るなんて久しぶりで、気が急いていたのかもしれない。秋山さんが何か言い淀んだ顔をしたことに気付くのが一瞬遅れた。
「磯辺さんの言う記者というのは、会社に勤めているライターさんのことですよ」
「会社に勤めていない方も、いるんですか」
彼女が、力のない笑みを向けた。
「わたしがそうです。SNSで記事を書いて広告収入を得たり、出版社と個人契約をして雑誌の記事を書かせてもらったりって感じですかね。フリーランスってやつです」
秋山さんはそこまで話すと、一呼吸の間が空く。
「でも、ウェブライターの仕事はこれで最後なんです」
「それは……どうしてですか」
訊かなければならない雰囲気に従って、口を動かす。
「一週間くらい前に、契約していた週刊誌に切られちゃいまして。この業界では珍しいことじゃないんですけど、一番大口の出版社だったので」
姿見を、置いていったのは誰なのか。
目の前で光を失って俯く表情が、恐ろしいほどに僕だった。
「新しく契約を取ることは」
軽率な発言だと気付いたときには、すでに半分以上が声に出ていた。
「できないことは、ないかもしれません。でも、もう心が付いていかなくて。あはは」
秋山さんは、オレンジブラウンの唇をやわらかく結ぶ。自分のかたい唇を舌で触って、彼女の方が年下なのだと、漠然とした後ろめたさを覚える。
どんな慰めも、真摯な感情ではない気がした。
「似た者同士なのかもしれませんね、わたしたち」
空っぽになった胸の内で、思いのほか彼女の言葉が重く響いていた。
窓際に、置いていた右手はすっかり冷えていた。外を覗くと、大きな牡丹雪が頼りなさげに降っている。
「……こっちの雪は、なんだかべちょってしてますよね」
同意を求めようと振られた会話にも、何も答えられなかった。
雪と言われれば、梶栗郷に降るこの不格好に膨れた結晶が頭に浮かぶ。それ以外の雪を知らなかった。
冷めきったコーヒーを残したまま、『ピシナム』の取材は再開する。
絶え間なく響く周囲の雑音は、取材の妨げになった。どれが自分の声なのか分からない。先ほどまでの語り口調をなぞっても、椅子に座っているのは別人だった。
より詳細な『ピシナム』を語るほど、僕の中にあるファッションホテルとはかけ離れた代物に成り果てていく。伝わらないことはひどく怖いことだから。この焦燥感を知られまいと、貝のようにカラダを小さくしていた。
窓の外では雪が降り続いており、『ピシナム』はますます塗り潰されていった。
「磯辺さん、少し歩きませんか」
取材中は決して口を開くことのなかった秋山さんが、僕の独りよがりな声を遮る。
彼女から提案された内容の意図を汲み取れず、戸惑いが先行した。
「理由を、訊いてもいいですか」
拗ねた顔をして、秋山さんがわざとらしく唇を尖らせる。
「あなたが、お外ばかりを見てるから」
喉元が凍りつく。
どうしてこの人には、分かってしまうんだろうか。気付かれたことに少し怯え、置いていかれてないことが救いでもあった。
「取材の続きは、場所を移しましょう」
「雪、降っていますよ」
「大丈夫ですよ。これくらいの雪なら、降ってるうちに入りません」
さあ、いきましょう。と秋山さんに声をかけられ、のそのそと席を立った。
椅子にかけていたコートに腕を通したとき、すでに身支度を済ませてじっと待っている秋山さんと視線が重なった。その目を受け止めきれずに、逃げるように言葉を探す。
「むかし読んだ小説で、あなたみたいな人がいました」
「どんな、小説でしたか」
「……記憶が三年しか持たない人たちが集まる町で暮らす、女性記者の話です」
女性記者の仕事は町の住民一人ひとりの思い出を取材し、記録を取ることだった。
しかし町の人々は最初、彼女の仕事を馬鹿にしていた。誰もが忘れることが自然な世界では、みんな過去の話をしない。だから「記録する」という彼女の仕事は最も軽視される仕事だった。
「でも本に登場する彼女は、自分の仕事に誇りをもっていた」
何かを遺そうと奔走する女性記者の姿が、秋山さんに重なった。
「わたしも、読んでみたいな」
タイトルを思い出せないあの小説は、いったいどこで出会ったのだろうか。何度も読み返していたはずの物語は、心の中にある本棚からは抜け落ちてしまっていた。
会計を終えて扉を開けると、外は水気の多い雪が降っていた。まだ積もってはいないものの、風が吹くとアスファルトの上を白い粒が滑っている。
「どこまで歩くんですか」
波打ち際で弾けていく気泡たちが、潮騒となって響いていた。
「車を少し離れたところに停めちゃったので、駐車場まで付き合ってください」
秋山さんは照れ隠しのように笑い、背中を向けて歩き出す。彼女を追うため、僕も足を動かした。
冬の海の身を切るような空気の冷たさを、全身に浴びながら堤防に沿って歩いていく。
「やっぱり、梶栗郷って海が近い」
声が震えていたのは、向かい風が吹いているからだろうか。
「港町なのに、どこにも船が見えませんよね」
「もう昼を過ぎてますし、梶栗郷はそんなに魚が獲れませんから」
この町に住む高齢の漁師たちは、近くを流れる綾羅木川にかご網を設置し、そこにかかるモクズガニを食べることで食費を節約している。
何かが足りないまま、気付かないふりをして、不自由を許容しながら生活を送っている。
「わたしの生まれた町の景色に、梶栗郷はよく似ています」
「港町、だったんですか」
「そうですよ。岩手の、港町で育ちました」
その後、彼女の口から出た地名を、僕はよく知っていた。
ずいぶん遠くからいらしたんですね、と声に出した気でいたが、ふと気付くと何も口に出せていなかった。
前を歩く秋山さんが、振り返る。こちらの様子を窺う目が、何かを言いたげに瞬きした。
「ここへは取材というより、最初は一人旅で来る予定でした」
後ろ手を組んで歩く彼女に、一歩半の距離を保ったままついていく。
「梶栗郷まで来たのは、仕事ではないのですか」
「半分は、仕事ですよ。ルポルタージュ記事を書くための。でも、すべてが仕事かと訊かれたらイエスとは言いづらいですね」
「誰かからの、依頼ではないのですか」
彼女は揺れるように、首を振る。
背中からでは、否定とも肯定とも取れる曖昧な仕草に見えた。
「じゃあ、もう半分は」
続けて問いただそうとしたとき、潮風が吹いて声が遮られる。
「……自分を忘れないための旅って言ったら、笑いますか?」
他人の旅を笑えるほど、自身の歩みが洗練されているとも思えない。
むしろ、強く追い求める秋山さんの姿こそが高潔で、自分とはかけ離れた存在に映った。
「いまは、過去の自分を探している最中なのかもしれません」
「自分探しですか」
「その表現、なんだか青春っぽくていいですね」
「見つかりましたか」
秋山さんはくるりとステップを踏んで、後ろに向き直る。
「ふふ、どうでしょう。まだ、遠いみたいです」
秋山さんはどこか愁いを帯びた瞳のまま、海を見据える。
「見つからなくたっていいんです。わたし、探したかったから。だったらこれは、わたしの心を優先させた結果です」
あっ、と。短く声を上げて、秋山さんが指差した反対車線の道沿いに駐車場があった。彼女はきょろきょろと周りを確認し、僕を置いて走り出してしまう。
「見つからなくていいなんて、孤独を知らない人の言葉ですよ」
彼女に聞こえないように呟いた。
渡り切った彼女は、僕が隣にいないことに少し驚いていた。
遅れて渡った先にあったのは、駐車場とは名ばかりのフェンスで囲っただけの空き地だった。
錆びついて塗装のはげた車が、数台並んでいる。もう何年も置きっぱなしなのではないだろうか。そのなかで一台だけ、赤い光沢のある軽自動車が入口付近に停まっていた。
「車、動かせそうですか」
丸みを帯びた車のルーフからフロントガラスまで、雪が積もっていた。
「大丈夫ですよ。年中スタッドレスタイヤ履いたままですから」
小さく笑う彼女の口から、白い息が漏れる。
「戻るんですか」
車に積もった雪を、手で払う秋山さんの背中に投げかける。
「はい。あの町で、育ちましたので」
遠い星を眺める瞳のまま、彼女は答える。
「そう、ですか」
相槌は何を肯定するわけでもない。
擦り減った靴底から、容赦なくカラダは冷えていく。固まっていく足を無理に引きはがそうと、踵を返す。
「待って」
呼び止められて、振り返る。
そんな当たり前の動作を、ずっと練習していたような気がした。
「連絡先、よかったら交換しませんか」
「どうしてですか」
「また、取材の続きをしたいと思って」
「自分探しなら、他を当たった方が良い」
苛立ちを、隠しもせずに吐き捨てる。
「でも、ベッドの下に隠れているかもしれません」
ぐわん、と。胸をひっくり返すほどの感情が沸き起こる。
それは泥の付いた靴で、フロントの赤い絨毯を踏まれたときの怒りに似ていた。
「あのホテルに、あなたは、いませんよ」
ドロドロに溶けたホテルマンとしての僕が、ほんの一瞬だけ、驚くほど鮮明に甦る。
「あそこには、誰もいないんだ」
もう、僕の勤めるホテルからは海も見えない。
探すことすらできない虚しさで誰を責めても、この吐き気を催すほどの現実からは逃れることはできなかった。
「……すみません。踏み込んだことを、言い過ぎましたね」
謝罪を受けて救われたものなど一つもない。
秋山さんの口元は悲しそうに、あるいは僕を労わるように笑っていた。
「わたしはいいと思います。磯辺さんの、大切なことは絶対に口にしないところ」
見守るように微笑んで、秋山さんは続ける。
「磯辺さんは、車ですか?」
「……いえ、歩いて駅まで」
「よかったら、駅まで送りましょうか?」
噓みたいな善意が痛くて、目を背けた。
「近いですから、自分で、歩いて帰ります」
秋山さんの声を聞くと、何かに追いつかれそうになる。
僕はそれを頑なに遠ざけた。
「磯辺さん」
見送りの言葉を待たず、足はすでに歩き始めていた。
砂利を踏む音は、終わりを感じさせる。それなのに、僕を呼ぶ声は背中を押していった。
「いってらっしゃい」
声は耳の後ろをかすめていく。なんと別れの挨拶を返したのか記憶にない。
駐車場を出て、歩いて、歩いている分だけ秋山さんとの距離が離れていった。
時折、小さくなる秋山さんの姿を確認した。振り返ると、彼女は雪の中で小さく手を振ってくれた。女々しくも、それに僕は形容し難い安堵を覚えた。おそらくこの人とは二度と会うことはないのだろうと思って、襟に顎を埋める。
こんなに苦しい気持ちになったのはどうしてなんだろう。僕は、秋山さんに『ピシナム』の話をしたことを明確に後悔していた。ずっと大事にしていたワインを、我慢できずに開けてしまったあとのようだった。
線路沿いに出ると、たらこ色の電車がレールに落ちた雪粒をすり潰しながら走っていた。車輪がレールの繫ぎ目を跳ねる音が、耳の内側でくぐもったまま鳴り続けている。あんなに大きな乗り物を使っても、きっと僕はどこにも帰ることはできないのだろう。
次に振り返ったとき、街を包む白色に紛れて秋山さんの姿は見えなくなっていた。自然と足は線路沿いを下っていた。
一つの足音もない雪道は、その上を歩く僕をどうしようもなく不安にさせる。
追い越す人影がいくつかはあった。僕はそれを数えて、一人ひとり覚えていった。そのほとんどが高校生だった。誰もが家に帰るなか、自分だけが別の場所へと歩いている。
不意に、セーラー服に厚手のカーディガンを羽織った女子高生が脇をすり抜けた。その女子高生だけは走って僕を追い越した。金魚の尾ひれのような赤いスカーフが、視界の隅を綺麗に泳いだ。
左の頰を、つうーと指でなぞるみたいに線が通る。雪だろうと思った。けれど頰を伝っているその一線だけが熱い。
手で顔を拭ったときにはもう乾いていた。だから、本当はそれが何だったのかは分からない。
どっちつかずの僕を置き去りにして、カラダだけは『ピシナム』に行こうと足を動かしていた。
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