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無縁仏でいい、という選択

2026.01.06 公開 ポスト

「葬式は、要らない」が加速―“人の死”にまつわる不合理な伝統島田裕巳(作家、宗教学者)

昨今、家族葬が増え、孤独死・無縁死、無縁墓の増加や墓じまいの高額な離断料が問題になり、人々は葬式と墓と遺骨を持て余していることを明らかにする、宗教学者・島田裕巳氏による『無縁仏でいい、という選択 も、墓じまいも、遺骨も要らない』が話題です。長寿が変えた日本人の死生観――その最前線とは? まず、「はじめに」をお届けします。

日本人の生き方が変わったから死生観も変わった

私は、2010年1月に、幻冬舎新書の一冊として『葬式は、要らない』という本を出した。この本はよく売れ、大きな話題にもなった。その後起こる、葬式の簡略化に影響を与えたとも言われる。

著者としては、その影響がどの程度のものなのかを判断するのは難しいが、それを推測するいくつかの材料はある。

本が出た直後、仏教宗派のシンポジウムに呼ばれて、つるし上げにあったことがあった。それ以降、それまでは呼ばれていた各仏教宗派の研修会などに講師として招かれることはいっさいなくなった。

葬儀業者の団体からは、二度にわたって抗議文が送られてきた。提訴する意思も示されていたが、結局、そうしたことにはならなかった。

その後、「自然葬」(遺骨を墓地ではなく海や山などの自然に還す葬法)を推し進めてきたNPO法人「葬送の自由をすすめる会」の第2代会長をつとめていた時代に、私は『0葬──あっさり死ぬ』(現在、集英社文庫)を出版して「0葬」を提唱した。0葬とは、火葬された遺骨をいっさい引き取らないやり方をさす。そうすれば、墓を建てる必要もなくなる。

この本を出したのは2014年のことだったが、『朝日新聞』の書評で取り上げられたこともあって話題になり、よく売れた。書評委員会では、何人かの委員が手をあげたらしいが、結局はイラストルポライターの内澤旬子氏が書いてくれた。その後、0葬という用語は定着し、NHKのテレビ番組でも紹介されるようになった。

本書は、こうしたことを踏まえ、さらにその先を考えることを課題としている。葬式や墓など、私たちの死後の扱われ方は、近年大きく変わってきた。死に方、あるいは死生観が変貌してきたとも言える。

死生観が変わったということは、死を迎えるまでの私たちの生き方が変わったということでもある。私たちは今、自分たちの生と死をどのように考えればよいのか。それを探ることが、本書の目的である。

おそらく、これから示していくことが、日本人の生と死の最前線ということになるだろう。さらにその先があるかと問われれば、「それより先はない」。私自身としては、そのように考えている。

「伝統」を守らねばならぬ理由は「それが伝統だから」

葬式や墓のことは、伝統に根差すもので、これまではそう簡単に変わらないと考えられてきた。

実際、私もそのように考えてきた。したがって、『葬式は、要らない』の「おわりに」の部分では、次のように述べていた。

しばらくのあいだは、人口構成の関係で死者の数が増えていく時代が続く。そのために、急速にその事態が顕在化していくことはないかもしれないが、死者の数が減少するような時代になれば、一気に事態は変わるかもしれない。

ここで言う「その事態」とは、葬式無用の流れのことをさしている。本を執筆していたのは2009年の年末ということになるが、その時点で、私は、これほど葬式をめぐるしきたりが変わってしまうとは、予測していなかったのである。

2023年における死者の数は157万5936人だった。この数は、ここのところ年々増えており、今から15年後の2040年には168万人でピークに達すると推定されている。私は、2009年末の時点で、その時期に至らなければ、葬式無用の流れは加速されないと考えていたわけである。

私の予測は見事に外れた。

伝統は、意外にもろいものなのである。

辞書で「伝統」という言葉の意味を調べてみると、「ある民族・社会・集団の中で、思想・風俗・習慣・様式・技術・しきたりなど、規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。また、それらを受け伝えること」(『デジタル大辞泉』)と出てくる。

ポイントは、「古くから受け継がれてきた」というところにある。

この辞書では用例として、「歌舞伎の伝統を守る」と「伝統芸能」があげられている。歌舞伎は江戸時代の初期にはじまるものだから、400年以上の伝統がある。

伝統芸能全般ともなれば、雅楽や能楽も含まれるわけで、そちらの歴史は歌舞伎よりもさらに長い。

何かの習慣やしきたりがあったとき、なぜそれを守らなければならないのかと疑問を呈すると、「それが伝統だから」だという答えが返ってきたりする。

尋ねた側は、そんな答えでは納得できないと思いつつも、伝統を持ち出されると、さらなる反論が難しくなってくる。それだけ、伝統という言葉には重みがあるわけである。

しかし、伝統が本当に古くから受け継がれてきたものかどうかは、かなり怪しいところがある。

世界一高い日本の火葬率99・97%

まず伝統のもろさを示す良い例がある。それは、西日本のある町で起こった出来事である。

今では、日本全体に火葬が普及している。火葬率は99・97パーセントに達した。これだけ火葬率が高い国は他にない。日本は世界随一の「火葬大国」である。

ところが、それほど昔とは言えない時代には、土葬が珍しくなかった。私は、1980年代初頭に、山梨県内の山村の調査に携わったことがあるが、その村は土葬で、火葬はまったく行われていなかった。

現在でも、土葬が法律で禁じられているわけではない。ただ、自治体の条例で制限されている。また、土葬をしようにも、その土地を確保することが難しい。それでも、ごく一部、火葬場が遠い山村部で土葬は行われており、それが残りの0・03パーセントという数字に結びついている。そのなかには、船員法で認められた水葬も含まれるが、大半は土葬である。

ここで問題にする西日本のある町では、平成の時代になってもまだ土葬が続けられていた。しかも、土葬一色だったのだ。

その町のある住民が、他の地域ではとっくに火葬になっているということで、父親が亡くなったとき、火葬を選択した。町には火葬場がなかったので、少し離れた町にある火葬場で荼毘に付したのである。

すると、住んでいる町の住民から、「火葬なんてとんでもない。それは地域のしきたりに反している」「おじいさんが火にあぶられるなんて、なんて残酷なことをするのだ」「さぞかし熱かったろう」と、激しく非難されることになった。火葬したことで、今風に言えば、文字通り「炎上」したわけである。

その後も、その家はとんでもない、おじいさんにひどく可哀相なことをしたと、ことあるごとに非難されていた。

ところがである。

土葬の伝統があっけなく崩れ去った瞬間

20世紀の終わりに起こった平成の大合併で、周辺の4つの町が合併して市になった。その直後に、新しい市に火葬場が新設された。

すると、土葬がしきたりだと強く主張していた町の住民も、死者が出れば、火葬するようになった。火葬した家を非難したことなど、すっかり忘れてしまったのだ。

そして、その町の住民だった年寄りは、今では、「土葬はきつかった」「遺体を埋めるための穴掘りが大変だった」などと言い合っているらしい。

伝統とはそのようなものである。

数十年前には、土葬が当たり前で、特に地方ではその割合が高かった。ところが、私が調査に携わった山村でも、今ではすべて火葬になっている。土葬から火葬への切り替えは、急速に進んだ。あっけないほど簡単に、伝統は崩れ去ったのだ。

今では、「土葬なんて恐ろしい」「衛生上問題があるのではないか」と言う人も増えてきた。

最近では、日本でもイスラム教徒が増え、日本で亡くなる人もいる。ところが、イスラム教徒は、火葬を嫌う。聖典であるコーランに「地獄では火に焼かれる」といった描写があり、それが連想されるからだ。そこで、土葬を望むのだが、その用地を確保することが難しくなっている。事情は複雑だが、周辺住民が土葬を好まなくなっていることも一因になっている(そのあたりのことについては、鈴木貫太郎『ルポ 日本の土葬 増補版』〈合同会社宗教問題〉で詳しくふれられている)。

6世紀、日本に正式に仏教が伝えられてから、徐々に火葬が増えていくのだが、戦後になるまで、それが増加するスピードは緩やかだった。私たち日本人は、それこそ何千年にもわたって土葬してきたにもかかわらず、現代になってあっさりとその伝統を手離してしまったのだ。

変化もするが、不合理な伝統はまだまだある

伝統とはそういうもので、どこかで「ころっと変わってしまう」のである。

変わってしまうと、すぐに昔のことはわからなくなってしまう。なぜそれが伝統として守られていたのか、その理由を説明するのも難しくなってしまうのである。

人を葬るということについては、さまざまなしきたりや慣習があり、それが伝統であり、日本の葬送文化だと言われる。

だが、それぞれのしきたりや慣習について調べていくと、それらが実は、さほど昔から受け継がれてきたものではないことがわかってくる。

もちろん、難しいのは、「昔から」ということが、いったいいつからのことなのか、それを定めることである。10年前からであれば、昔とは言えないかもしれないが、では、50年前からならどうなのだろうか。昔という言葉は、基本的に定義なしに使われる。100年前も昔なら、1000年前も昔なのだ。

時間的な定義なしに使われるところに、昔からという言葉の曖昧さがある。曖昧ではあるものの、いや、曖昧であるがゆえに、それは時に強制力を持ち、私たちの行動を縛るのだ。

これから本書で述べていくことは、そうしたことが深く関係する。私たちは、次第に伝統に縛られなくなってきたようには見えるが、まだまだ、完全にそこから解き放たれたわけではないのだ。

不合理な伝統は、今でも生きている。

いったい何が不合理な伝統なのか。

人の死と、その後の扱い方について、必要なものと不要なものを見定めることが、この本の目的である。

そうした伝統の変化は、私たち自身が望んできたことでもある。そこを見極めることで、私たちは、自分たちの生き方そのものを新たな視点から眺めることができるようになるはずなのである。

*   *   *

続きは、『無縁仏でいい、という選択 墓も、墓じまいも、遺骨も要らない』をご覧ください。

関連書籍

島田裕巳『無縁仏でいい、という選択 墓も、墓じまいも、遺骨も要らない』

バチは誰にも当たらない。我々はもう気づいている ――子供や孫が、自分や先祖を供養する必要などない、と。 平均寿命が延伸し、多くの日本人が天寿を全うする。 ゆえに死は必ずしも惜しむべきものではなくなる。人生の時間は圧倒的に増え、生き方も変わり、死に方、死後の扱われ方も大きく変化した。 そして、そもそも現在の葬式や墓の在り方はそれほど長い伝統を持たない。 昨今、家族葬が増え、孤独死・無縁死、無縁墓の増加や墓じまいの高額な離断料が問題になり、人々は葬式と墓と遺骨を持て余している。これまでのような供養を必要としていないのだ。 これは無責任ではなく自然の道理だ。長寿が変えた日本人の死生観――その最前線を考察する。

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無縁仏でいい、という選択

長寿が変えた日本人の死生観――その最前線の考察。

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島田裕巳 作家、宗教学者

1953年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。主な著作に『日本の10大新宗教』『平成宗教20年史』『葬式は、要らない』『戒名は、自分で決める』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『靖国神社』『八紘一宇』『もう親を捨てるしかない』『葬式格差』『二十二社』(すべて幻冬舎新書)、『世界はこのままイスラーム化するのか』(中田考氏との共著、幻冬舎新書)等がある。

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