1. Home
  2. 暮らし術
  3. 暮らすホテル
  4. 江ノ島を独り占めできる青い部屋 HOTE...

暮らすホテル

2025.07.02 公開 ポスト

江ノ島を独り占めできる青い部屋 HOTEL AO KAMAKURA越智月子(作家)

このところ、都会から港町へと移り住む女の物語を書いている。舞台は鎌倉のはずれにある町。最寄りでいうと江ノ電の腰越。由比ガ浜や七里ヶ浜に比べると、観光客も少なくどこか控えめ。商店街では江ノ電が路面を走り、昭和の暮らしの匂いがそのまま残る。浜辺に立てば江ノ島がぽつんと浮かんで見えるそんな町。ここで暮らすってどんな感じなんだろう。朝と晩の海の表情はどういう違いがあるんだろう。風の匂い、町の灯り、行き交う人たちの足どり――主人公と同じ視線で眺めてみたく、泊りがけで訪れることにした。

 

宿は腰越海岸のすぐそば。打ちっぱなしのコンクリートに木目のハーモニーが効いている「HOTEL AO KAMAKURA」。食い意地の張った私は、以前からこの建物が気になっていた。一階のガラス張りの店にかかっている群青色のタペストリーには白抜きで「蕎麦 酒 料理 鎌倉 松原庵 青」。……松原庵! 大好きな由比ガ浜のお蕎麦屋さんである。「ここに泊まったら朝ご飯はやっぱり……」そう思ってググってみる。大正解! しらす、三浦野菜、小田原の梅やかまぼこ……湘南の海を感じる豆皿料理プラス出汁巻き玉子の朝定食ですって。暮らすように泊まりたい私にとって朝ごはんは大きなウエイトを占める。迷いなく予約サイトをポチッと。

雨のあとの紫陽花が出迎えてくれた
江ノ電が路面を走る街、腰越。タイルがツボすぎる♡

宿泊当日。野暮用があって予定時間より遅れて宿についた。しかも、途中で雨に降られ……。そんな中、フロントで濃紺の作務衣風制服を着た女性スタッフが出してくれたのは、そば茶。乾いた喉を炒ったそばの実の香ばしさが潤していく。くぅ~。ホスピタリティを感じながらのチェックイン。渡されたカードキーはとても好みの薄青色。クラフト紙のカードケースには部屋番号とともに「藍錆」と書かれている。なんでも全16室の海辺のこのホテルでは、浅葱(あさぎ)、縹(はなだ)色(いろ)、勿忘(わすれな)草(ぐさ)、紺青(こんじょう)……と各部屋に青の伝統色の名がつけられているそうで。エレベーターで2階へ。自然光が差し込むフリースペースを抜ける。アート、家具、ファブリック、花。随所に青が散りばめられている。さらに潮風が通り抜けるパティオを渡り、本日のマイルームへ。

フリースペースに散りばめられた青
風と空を感じるパティオを通りぬけ部屋へ

木目のドアを開ける。淡い海松色のレースのカーテン越しにテラスが♡。向かって右へ。少し赤みがにじんだ藍錆色の壁紙が飛び込んでくる。なんという海感! 壁の下の大きなベッドに吸い寄せられるようにダイブ。そして大の字になって足をパタパタ。清潔なシーツの匂い、肌になじむ洗いざらしの風合い。やわらかすぎず硬すぎない優しい弾力。う~ん、完璧。今宵のよい夢が確約できたところで、テラスへ。お~絶景かな。江ノ島がすぐそこに浮かんでいる。しばし、テラスに佇む。潮風が髪をなでていく。車の音に交じって寄せては返す波の音。海は刻々と表情を変え、何層にもなった茜色と青が境界を曖昧にしたまま溶けあっていく。やがて濃紺の闇がひと筋。昼でも夜でもない。この時間にだけ許されたグラデーション。空と海が重なっていく様子をただただ眺める。頭の中に碧い余白が生まれていく。

江ノ島を独り占め
ダイブせずにはいられないベッド

どのくらいテラスにいたのだろう。部屋に戻ると間接照明に照らされた壁が心なしか深さを増したように見えた。ミニバーの緑茶を手に取り、電気ポットのスイッチをオン。シュッシュッと湯が沸く音が心地よい。ティーバッグを波模様の湯飲みに落とす。注いだ湯は青磁色から薄黄緑色、そして若葉色へ濃さを増していく。ティーバッグの中からにじみ出た小さな葉の粉がふわりと舞っては沈み、底の方に海松色のかげりがたまっていく。緑茶が色づいていく様子をこんなにも見つめていたのはいつ以来だろう。窓際の群青色の椅子に腰をおろす。窓枠で切り取られた海は一幅の絵のようだ。濃紺に沈み、街の灯りがところどころ浮かんでかすかな彩りになっていた。ここからは波の音は聴こえない。それでも部屋の中にまで海の気配が漂う。

緑茶好きにはたまらないおもてなし
藍色のソファから眺める景色もまたよし
藍錆色に染まった夜の江ノ島

……翌朝。寝心地が良すぎて目が覚めたときにはすでに日が昇っていた。朝焼けを見られなかったのを悔やみながら、一階の松原庵へ。スタッフが窓際の特等席に案内してくれた。窓の外には白みを含んだ朝の空、その下に穏やかな海が広がり、江ノ島が浮かんでいる。犬の散歩をする人、ジョギングを楽しむ人、浜辺に降りていく人――暮らしの中に海がある人々。海辺の町の朝。テーブルに運ばれてきた朝食も暮らしの中のメニュー。ふわっふわっのだし巻き卵、磯の香りが広がる釜揚げしらすや海苔の佃煮。白がゆに乗せてほおばると海、空、風、土……湘南のエッセンスがしみていく。

夢にまで見た朝ごはん
だし香るふわふわたまご焼き

朝食を食べ終わるころには体の芯まですっかり目覚めていた。そのままエレベーターで屋上テラスへ。ここでは360度、湘南の街並みが見渡せる。うん? あの水平性の向こうにうっすら見える淡い群青色の影は……富士山じゃないですか。青の語源は「仰ぐ」からきている。そんな話が思い出された。仰がずにはいられない、天井の青。思えば、このホテルに滞在している間、いろいろな青に出会った。目に耳に肌に心に沁みたAOの効用。深く長く息を吸い込んだ。

……数時間後、都内の家に戻ってまっさきに向かったのは、ベランダ。落ち葉やら砂ぼこりやらがたまりにたまった空間を時間をかけて片づけた。ここから見えるのは残念ながら海ではない。日々、再開発が進む駅前、でーんと鎮座している重機。腰越が青なら、ここは灰色の世界。それでも空は腰越からつながっている。ときおり通る青い電車とベランダの緑もたしかな彩りを添えてくれる。海のそばで暮らせはしないけれど、海辺のホテルで得た豊かさを土産のように持ち帰って生かすことができれば……。テラスから眺めた海の表情、ひと品ひと品丁寧に作られた朝ごはん、そして屋上テラスで仰ぎ見た空……すべての思い出が暮らしのエッセンスになっていく。

屋上テラスからの光景

{ この記事をシェアする }

暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。

バックナンバー

越智月子 作家

1965年、福岡県生まれ。2006年に『きょうの私は、どうかしている』でデビュー。他に『モンスターU子の嘘』『帰ってきたエンジェルス』『咲ク・ララ・ファミリア』『片をつける』『鎌倉駅徒歩8分、空室あり』『鎌倉駅徒歩8分、また明日』など。

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP