
映画『シュリ』ほか韓国エンタメではおなじみの存在ながら、秘密のベールに包まれた組織・国家情報院。韓国の政治・社会問題に精通する佐藤大介さんが、その予算・組織・活動の実態、そして韓国現代史における暗躍の歴史を明らかにした『韓国・国家情報院 巨大インテリジェンス組織と権力』から「はじめに」をお届けします。
その男の「仕事」とは何か?
ある国のレストランで、個室のテーブルに私と向かい合って座った男性が、うまそうにビールを飲みほした。男性はグラスを置くと、おもむろにカバンからタブレットを取り出し、保存してあった画像を開いて私に渡した。画面に映し出されたのは、カンボジアの内戦やアフリカでの民族紛争、そして北朝鮮の軍事パレードの模様や、軍を指揮する朝鮮労働党総書記だった故・金正日(キムジョンイル)氏の姿だった。
それを見ながら、私が「日本や韓国がこうした状況の国ではなく、本当によかったと思います」と話すと、その男性は私をじっと見つめて、こう言った。
「そういった国にならないようにするため、私たちは仕事をしているんです」
韓国が他国との戦争に巻き込まれたり、内戦状態になったりすることを防ぐ。そして、独裁国家にならないようにする。つまりは、北朝鮮という「敵国」の脅威や浸透を韓国から排除する。それが自分たちの任務であると言うために、その画像を見せたのだった。
タブレットを男性に戻しながら「いつもこうやって仕事の説明をしているのですか」と聞くと、男性は笑みを浮かべるだけで、否定も肯定もしなかった。
そもそも、男性の言う「仕事」とは何なのだろうか。男性は、その国にある韓国大使館の職員だった。名刺の肩書もそうなっている。だが、生粋の外交官ではなく、本来の所属は、韓国の国家情報機関である「国家情報院」(以下、国情院)だ。その国の内情を調査し、本国に報告する任務を帯びて、外交官として派遣されてきたのだった。
もちろん、男性が自ら情報機関の人間であると話すことはない。それは規則によって厳しく禁じられているからだ。ただ、こうして出会うまでの過程で、情報機関に属しているかどうかの判別はつく。先方も私の認識を承知の上で会っており、あえて口にすることはないが、互いに「阿吽(あうん)の呼吸」で話を進めていく。そうした中で、私が「あなたの『会社』が存在する目的とは何なのか」と尋ねたことの答えが、先ほどの説明だったのだ。
国情院の職員は、韓国の安全を守ることを最優先にしている。そう男性は言いたかったのだろう。確かに、そうした面は十分にある。そのために、国情院は国内外で膨大な情報を収集し、蓄積してきた。同時に、その巨大組織が集めた情報は、国民の安全ではなく、政権の安定のために使われてきたというのも、否定できない歴史の事実だ。
そうした国情院とは、いったいどういった組織なのだろうか。
韓国エンタメではおなじみの存在
「コクジョウイン」という単語を聞いて、「国家情報院」を連想する日本人がいれば、よほどの韓国マニアかスパイ映画のファンだろう。韓国の国家情報機関である「国家情報院」は、一般に「国情院」と略され、日本の情報機関など関係者の間では「コクジョウ」と呼ばれることも多い。
一方で、韓国の人にとって「国情院」を意味する「クッジョンウォン」という言葉は広く知られている。情報機関として独立した政府機関なだけに、その動向や人事などは韓国メディアによって逐一報じられているためであるが、韓国の現代史と情報機関の存在を切り離すことはできず、1980年代の民主化運動を経験した世代にとっては忌まわしき記憶として刻まれているからだ。
日本にも警察の公安部門や公安調査庁などの情報機関があるが、韓国の情報機関が持ってきた権限や政治性は日本よりも格段に大きく、韓国政治に深く関わってきた。中央情報部(以下、KCIA)を発祥とする韓国の国家情報機関は、時に大統領と肩を並べるほどの権力を持ち、民主化運動の時代には市民に徹底的な弾圧を加えた。
そうした情報機関の動きはドラマ性もあり、韓国ではこれまで多くの映画やドラマのテーマにもなってきた。その代表作とも言える作品が、1999年に韓国で製作された映画『シュリ』だろう。
韓国の秘密情報機関に所属するユ・ジュンウォン(ハン・ソッキュ)とイ・ジャンギル(ソン・ガンホ)が、要人暗殺を謀る北朝鮮の特殊工作部隊との戦いに挑む内容で、アクションとロマンスの要素を取り入れて空前の大ヒットとなり、2000年に日本で公開された際も話題を呼び「韓流の原点」とも言われている。秘密情報機関のモデルとなっているのは、もちろん国情院だ。
情報機関をテーマにしたテレビドラマでは、2009年10月から12月にかけて韓国KBSで放送された『IRIS―アイリス』が有名だ。「大韓民国国家安全局」という非公式な情報機関が存在し、情報収集活動のほかに要人暗殺も任務とし、局長は国情院のトップが兼任するという大胆な設定になっていた。
主人公は国家安全局のテロ対策要員のキム・ヒョンジュンで、人気俳優のイ・ビョンホンが演じ、平均視聴率が30%を超える人気となった。ソウル中心部の光化門で(クアンファムン)の銃撃戦シーンは、ソウル市の協力によって一帯の交通を規制して撮影されたことも話題となった。ドラマの人気によって、国情院への就職希望者が増えたとも言われている。
このほかにも国家安全企画部(以下、安企部)時代の野党政治家に対する監視を描いた映画『偽りの隣人―ある諜報員の告白』(2020年)や、国情院のエージェントだった主人公が任務の遂行中に記憶喪失となり、記憶をなくしたまま復帰した後、自分を陥れた組織内の裏切り者を探すというドラマ『黒い太陽』(2021年)、パートで国家安全保障局に入った女性が潜入捜査官になるというコメディ映画『パートタイム・スパイ』(2017年)など、情報機関をテーマにした作品は多数ある。
日本では、外事警察をテーマにしたエンタメ作品はあるが、警察の公安部門などを正面から扱っているものは少ない。なぜこうした差があるのかを考えると、韓国では情報機関の力が大きく、その存在が注目されることが多いため、テーマとして扱いやすいことが挙げられるだろう。
その扱われ方は、コメディタッチで描いたり、ハードボイルドな内容で展開したりするものもあるが、むき出しの暴力で民主化運動を弾圧した史実をテーマにした社会派のものも少なくない。映画に社会派の作品が目立つのは、韓国の映画界に革新系の監督や俳優が多いことにも関係している。
このように、韓国では情報機関の存在が一般の人に広く知られ、時に娯楽作品のテーマにもなっている。一方で、KCIAの時代から情報機関は政治と深く関わり、保守と革新で揺れる韓国政治とともに、その性格を大きく変化させてきた。民主化によって国情院に名前を変えた後も、政治との距離は常に社会問題となっている。
政治介入と人権弾圧の「暗黒の歴史」
韓国にとって国家情報機関の歴史は「暗黒の歴史」でもある。
国情院と、その前身である過去の韓国の情報機関は、本来の任務に忠実であることよりも、政権の安定化と政治介入に熱心だという批判を受け続けてきた。情報機関が政治に介入するようになった理由は、大統領が情報機関を国内政治に利用したからであり、情報機関はそうした大統領の意思を忖度(そんたく)して、情報収集活動を行ってきた。
国情院の前身は、KCIAと安企部だ。大統領直属の情報機関であり、秘密警察でもある。安全保障維持と危機管理の目的で、38度線を挟んで「休戦状態」にある北朝鮮の動向を注視しつつ、国内外の情勢について情報収集と分析を行っている。
軍事独裁から民主化を経て名称や役割を変えてきたが、その活動の多くが秘密のベールに包まれているという点はいまだ変わらない。
後に詳しく触れるが、朴正煕(パクチヨンヒ)氏が権力を握っていた時代(1961年~1979年)のKCIAでは、政治や選挙への介入が公然と行われ、安企部は全斗煥(チョンドゥファン)、盧泰愚(ノテウ)、金泳三(キムヨンサム)の各政権下で選挙工作を行った。金大中(キムデジュン)政権まで国情院による違法査察が続いていたことが廬武鉉(ノムヒョン)政権で明らかになったが、廬武鉉政権の次の李明博(イミョンバク)政権でも、国情院によるサイバー空間での世論操作工作が発覚した。
時代や政権によって、その程度や技術に違いはあっても、国情院と過去の情報機関には、常に政治介入の疑惑がつきまとっていた。
こうした歴史の中で、KCIAや安企部の時代には、情報機関が国家暴力や人権侵害の担い手となった。その被害を受けた在日コリアンを含む多くの韓国人が長年にわたる心的外傷(トラウマ)を背負ったことは、現代史の暗い記憶として韓国社会に刻まれている。国民の安全よりも政権の安定に重点を置き、政治的中立を保ってこなかった事実により、国情院が韓国国民の支持を得られず、忌避の対象とすらなってきたことは否めない。
一方で、韓国と休戦状態にある北朝鮮は、核実験のほかICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験を繰り返し、核・ミサイル能力を着実に向上させてきている。北朝鮮の動向は韓国のみならず、日本を含めた北東アジアの安定に大きな影響を与え、国際的な安全保障上の課題となっている。また、国家をまたいだ人やモノ、情報の流れは飛躍的に増大し、それに伴って国際テロやサイバー攻撃といった脅威も懸念されている。
国家の安全のため、そうした脅威に能動的な対処ができる情報機関が必要なことは、論を俟(ま)たない。過去の反省と現状の課題を踏まえながら、ハイレベルな情報収集と分析を行う責務を求められているのが国情院の現状と言えるだろう。
そもそも情報機関とは何か
国家情報機関は、その国の安全と安定を守るための組織だ。国家の利益にとって脅威と判断される国内外の情報を探知し、収集・分析した後、内容を厳選して政治指導者の許(もと)に届ける。
そうした任務を帯びる一方で、秘密組織という側面も持つ。相手が隠そうとしている秘密を盗み出すと同時に、相手が見つけようとしているこちらの秘密を徹底的に隠すゲームをするのが、国家情報機関の役割でもある。そのため、組織や活動などに関わる情報は秘密とされ、一般国民からのアクセスは制限されている。韓国の国家情報機関である国情院も、そうした色彩を帯びた組織だ。
各国の対外情報機関は、外国の政治・軍事・外交・経済情報などを収集している。一方で、防諜機関は外国の情報網をつぶしたり、スパイを摘発したりするのが任務となる。こうした矛と盾の関係が、国家情報機関の組織にはある。
日本では、公的に存在の認められている国の情報機関は、大きく5つある。内閣官房内にある内閣情報調査室、法務省の外局である公安調査庁、警察庁警備局が統括する公安・外事警察、防衛省・自衛隊の情報本部、外務省の国際情報統括官組織だ。
米国では対外情報機関として中央情報局(CIA)があり、防諜機関として連邦捜査局(FBI)を持っている。英国の対外情報機関は秘密情報部(MI6)で、防諜機関は内務省保安局(MI5)だ。ロシアは、対外情報機関の役割を対外情報庁(SVR)が担い、防諜機関として連邦保安庁(FSB)があり、中国の国家安全部と公安部(警察組織)も同様の関係だ。
これに対し、国情院は対外情報機関と諜報機関の2つの役割を担った巨大組織である。
秘密のベールに包まれた存在
民主主義国家の組織である以上、国情院の活動は法の枠の中で行われる。だが、それは建前で、職員は「国家安保」という大義名分の下、違法活動を秘密裏に行う場合もある。例えば、一般国民が偽造パスポートを使用すれば旅券法違反で処罰されるが、国情院の職員が工作のために海外へ出張する際、身分を偽造したパスポートを使用することは珍しくない。このような超法規的措置が、国情院の仕事に対しては認められているのだ。
そのような特権が与えられている一方で、工作が無事に成功してもその功績が国民に知られることはなく、失敗した場合にだけ知られて叩かれるという情報機関の悲しい宿命もまた、背負っている。
韓国で人々の関心を集める国情院だが、同時に情報機関としてその存在の詳細は秘密のベールに包まれている。秘密であるからこそ人々は知りたいと思い、映画やドラマの題材になりやすいと言えるが、北朝鮮という安全保障上の脅威と向き合いながらの活動の実態は、ほとんど知られていない。
韓国の情報機関の歴史は、日本にとっても関係が深い。KCIAの時代には野党指導者だった金大中氏の拉致事件を日本で起こしたことがある。さらに、北朝鮮情報の収集にとって日本は重要な拠点となっている。国情院がどういった存在で、日本でどのような活動を行っているのか、その一端を知ることは、韓国という国を理解する上でも必要なことだろう。
本書の目的は、そうした国情院の全体像をつかむことにある。もちろん、公開されている情報には限りがあり、韓国や日本での報道、出版物、そして独自の取材を基に、その姿を描いていくしかない。韓国現代史の裏面をのぞく気持ちで、国情院という存在をひもといていきたいと思う。
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