
米の値上がり、野菜・果物の不作、水揚げ量の低下……。歴史的な食糧危機から抜け出すため、私たちが今取り組むべきこととは。
生命誌研究の第一人者である中村桂子さんが、40億年の生命誌の観点から「食」と「農」の未来について語った『日本の「食」が危ない!』(幻冬舎新書)が発売になりました。本書より、試し読みをお届けします。
* * *
「なんだかおかしい」という感じ
「安心して暮らせない」「この先どうなるのかが不安で、落ち着かない」という声をあちこちで聞きます。若い人たちの「未来に希望が持てないので結婚や子どものことを考える気がしない」といった悲しい嘆きも聞きます。
私もなんだか落ち着きません。90歳も近いのでまあ自分のことはよいのですが、若い人、子どもたちが気になります。世界中がつながっている中での、政治や経済のことは難しくて苦手です。でも、お友だちとおしゃべりをしていても、「なんだかおかしいね」という言葉が出てきますので、そのおしゃべりの延長で考える人がいてもいいのではないかと思うのです。
声高にこれが正しいなどと主張するつもりはありません。誰か悪者をつくってその人のせいにするのも意味がないでしょう。普通に生きようとしている一人の人間として、「おかしいね」と思うことを考え、少しでも生きやすい社会にする努力をしたいのです。
2020年に新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まり、世界全体が不安に包まれました。やっとコロナが少し収まったかと思ったら、今度は世界のあちこちで戦争が始まり、核兵器の脅威も高まっています。ここ数年、世界各地で分断が進んでいることも、私たちの心に影を落としています。一日中よいことばかりあって、みんながニコニコしている社会があるとは思いませんが、それにしても「なんだかおかしい」です。
「環境破壊」「異常気象」という言葉が頻繁に聞かれます。世界のあちこちで干ばつや大規模な山火事が起きたり、大洪水の被害のニュースも聞こえてきます。日本も、いまだかつて経験したことのない猛暑に見舞われていますし、2024年のお正月に始まる能登の災害は残酷です。戦争はもちろん、パンデミックも異常気象も原因を探っていくと私たち人間の生き方に問題があることがわかってきていますから、考え直す時です。
物価の高騰、経済格差の拡大と固定化も問題です。大学に進学したものの、卒業後は奨学金の返済で青息吐息。こんな社会では子どもを産むことをためらうのもわかります。生きづらさを抱える若い人が増え、いじめや虐待、差別の問題などが日常化し、クレーマーが増えるなど、社会が不安定になっています。
「なんだかおかしい」が多過ぎて、本来のんびり屋の私も落ち着きません。
経済的な豊かさについてはGDP(国内総生産)という値で比べるなら、日本は世界の中でも豊かと位置づけられます(アメリカ、中国に続いて世界3位だったGDPが4位になりはしましたが)。4位にいるのに生きづらい人がたくさんいるのですから、GDPの値ではなく、豊かさの適切な分配を考えなければなりません。
新自由主義と金融資本主義
生活者の実感として「なんだかおかしい」社会になった原因のひとつが「新自由主義」と「金融資本主義」の組み合わせに思えます。
30年ほど前から、経済や効率が最優先され、自由競争の名の下、金融市場原理で世の中が動くようになりました。なんでも競争、負けたら自己責任というわけで、とくにお金が儲かれば勝ち、という雰囲気になりました。みんなで一緒に力を合わせてやりましょうという、本来生きものである人間が得意なはずの能力が活かされなくなったのです。
個人の能力の差はあります。走るのが得意な子、絵が上手な子……いろいろいますから、運動会では一番、算数の時間に大活躍などそれぞれは評価したうえで、それぞれの能力を発揮して協力するとよい結果につながるでしょう。区別はあるけれど差別はないフラットさが生きものの世界の特徴です。
今やお金と結びついた差別が、社会にも地球環境にもひずみを生じさせているだけでなく、人の心にもひずみを引き起こしました。これが一番大きな問題です。
そのような中で、農林水産業は「儲からない」「効率の悪い」産業とされ、後継者が減りました。私たち人間のいのちに直結する「食」を支える産業が、二の次にされたのです。生きものは食べずには生きられません。「便利さ」と「豊かさ」を追い求めて大量生産・大量消費社会をつくった結果、二酸化炭素の排出量が増え、地球温暖化が進み、最近では沸騰化と言われる異常な気象になっています。これが続けば、自然と直結している農業、畜産業、漁業などが成り立ちません。
身近なところでは秋のサンマがあります。秋の声を聞いたらサンマですし、安くておいしい庶民の味方です。ところが、海水温の異常な上昇が原因で魚の分布が変わったらしく、これまで通りとは行かず、ここ数年脂ののったサンマの塩焼という秋の楽しみが遠くなりました。そもそも秋という季節がどこかへ行ってしまい、猛暑に悩んでいたらいつの間にかセーターが必要になっており、秋服の出番がありません。話はずれましたが、天候が安定しないがゆえの野菜の高騰も頭の痛いことですし、思うように収穫できない生産者にとっては生活のかかった深刻な問題です。
加えて戦争や分断も、食べものに大きな影響を与えます。ロシアとウクライナは、穀物とエネルギーの世界市場におけるシェアが大きい国ですから、ロシアのウクライナ侵攻が始まるとすぐに国際的な穀物価格や飼料、肥料、輸送費などが高騰しました。もっと基本に戻ると、世界人口がこれ以上増えたらそれを支える食べものの生産は難しくなっていきます。こうしたさまざまな要因から、私たちは今、「食」の危機に直面しています。
ところが日本の食料自給率はカロリーベースで約38%。食料の多くを輸入に頼っています。この先、世界情勢や各国の国内事情によって、日本への食料輸出が滞るケースが出てくるはずです。そうなった時、自分たちで食料をつくれない日本人は、いったいどうなるのでしょう。
スーパーマーケットに行けば食べものは簡単に手に入るという安易な考えを捨てて、安心して食べられるものが安定供給できる社会をどのようにしてつくっていくか、一人一人が自分のこととして考えなければならない時が来ていると思うのです。
日本の「食」が危ない!

米の値上がり、野菜の不作、漁獲量の激減……。日本の「食」は今、かつてない危機に直面している。その原因は、私たちが便利さを追い求め、大量のエネルギーを消費してきたことにあるのではないか。生命40億年の歴史が教えてくれる生きものの世界の本質は、格差も分断もない「フラット」で「オープン」であること。人間は特別な存在という思い込みを捨て、この本質に立ち戻ることにこそ、危機を乗り越え、ほんとうの豊かさを取り戻す鍵がある。持続可能な「食」と「農」の実現のため、人類の生き方を問う1冊。