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猿神

2022.11.09 更新 ツイート

3話 「幽霊? なんですかそれ」―― 自動者関連工場で続く不審死。傑作ホラー 太田忠司

バブル末期、巨大自動車会社の最新モデルの部品製造を下請けした飯野(いいの)電気。工場の全員が連日の深夜残業と休日出勤で心身疲弊の極限に達し、暴行事件が発生。そして聞こえる奇怪な音。事故の連鎖、自殺、突然死、殺人、気づけばいたるところに隈笹(くまざさ)が不気味に繁茂(はんも)し――傑作ホラー『猿神』(太田忠司著)から、一部を抜粋してお届けします(毎週水曜公開/全5回)。

*   *   *

一九八九年 春

4

昭和天皇が崩御(ほうぎょ)して三ヶ月、まだ「平成」という新しい年号にも慣れないでいるうちに、世の中は刻々と移り変わっていった。

前年に発覚したリクルートによる未公開株譲渡事件では政界の大物たちが次々と糾弾(きゅうだん)され、竹下内閣の支持率は二桁を割りそうな体たらくとなっていた。

それでも全体的には楽観的な空気が流れていた。前年末に三万円を突破した日経平均株価が天皇療養中の自粛ムードが収まったせいか更に上昇し、四月に入って三万三千円を超えていたからだ。一部には「このような状況がいつまでも続くとは思えない。いつかしっぺ返しが来るはずだ」と懸念を示す者もいたが、世間に漂う浮かれた気分を払拭するほどではなかった。終戦後、焦土と化した国土を再建し、やっとここまで辿り着いた。GNP(国民総生産)は世界二位。いつかアメリカを抜いて世界一になると、多くの人間が信じていた。

誰も、その先に何が待っているのか知らなかった。

「アスカ仲川(なかがわ)工場の津田(つだ)さんから電話です。3番」

事務員の斎藤恵里(さいとうえり)からそう言われたとき、嫌な予感がした。いや、それは予感ではない。確信だ。これから聞かされるであろうことを暗い気持ちで予測しながら、自分の机に置かれた電話の受話器を取り、3番のボタンを押した。

「はい、お電話替わりました。品質管理の塚田です」

──資材の津田です。おたくのSA2(ツー)のリアランプ、ボルトが傾いてて取り付けできないんだけど。すぐに選別に来てよ。

耳障りな声だった。やはり不良品の報告か。舌打ちしたくなるのを抑えながら、塚田は尋ねた。

「申しわけありません。すぐに伺いますが、発生した不良品は右でしょうか、左でしょうか」

──Lだよ。L。

「製造年月日はわかりますか。SA2なら側面上部に印字されていると思いますが」

──ちょっと待ってよ……0407、四月七日だな。

「不良品はいくつ出てますか」

──そんなのわかんないよ。とにかくすぐに選別してよ。

相手の声が苛ついている。これ以上の情報は教えてもらえそうになかった。

「わかりました。すぐに行きます」

──在庫も全部選別してよ。でないとラインが止まっちまうからさ。

ライン停止。部品メーカーにとって一番恐ろしい(おど)し文句だ。自社の製品の不良で車の製造ラインが停止したとなると、かなり大きな問題になってしまう。しかし塚田はその言葉で逆に冷静になった。「ぐずぐずしてるとラインが止まるぞ」という脅しは、もう何回となく聞かされている。いちいちパニックになってもいられない。

電話を切ると、すぐに中本(なかもと)係長に内容を告げた。

「現在作っているものをチェックしてきます。仲川工場と見田(みた)倉庫にある在庫を選別する人間を頼めますか」

「わかった。製造に言っておく」

中本は苦い顔で、

「この忙しいときに不良を出してくれるとはなあ」

「SB9の試作が昨日で終わっていて幸いでした。重なってたら目も当てられない」

塚田は工場内にある品質管理の事務所を出ると、測定室でSA2の検査治具を取り出して製造ブロックへと向かった。

開発名SA2。市場では「アーチャー」の名前で販売されているセダン車だ。飯野電気ではヘッドランプとリアランプを製造している。生産が始まってそろそろ一年、これまで特に目立った問題もなく製造されてきた製品だった。

生産しているのはP2ブロック。行ってみるとちょうど製造している最中だった。

鶴見(つるみ)さん」

塚田が声をかけると、ブロック長の鶴見が電動ドライバーを持ったまま顔を上げた。

「何だ? トラブルか」

塚田が検査治具を持っていることに気付いたのだろう。渋い顔になった。塚田より四歳年上だが、()に焼けて皺の目立つ顔は四十過ぎくらいに見える。

「四月七日製造のSA2のL側でボルトが傾いて組み付けできないという連絡がありました」

「ボルトが? どうして?」

「それをこれから調べます」

完成して折り畳みコンテナに入れられていたリアランプを取り出し、検査治具に嵌め込んでみる。五個のランプを調べてみると六本ある取付ボルトのうち、一本が傾いていて治具の穴に嵌まらないものが一個見つかった。

結果を見た鶴見がすぐに生産を止め、緊急ボタンを押した。生産技術の宗近(むねちか)がすぐにやってきた。

「金曜日にこのボルトの加熱具合がおかしいって直したよな?」

「あ、はい。高周波加熱コイルが断線してて……直しましたけど」

塚田より若い宗近が少しおどおどとした表情で頷く。

「そのときにボルトの傾き、いじったか」

「いいえ……あ、でも加熱されないままボルトを打ち込んだせいでシャフトが少しずれてたから、調整しました、けど。それが何か」

「ボルトが曲がって組み付けできないとアスカから電話があった」

塚田が答える。

「調整したとき治具でボルトの挿入状態を確認したか」

「しました。はい。その検査治具で」

「でも、今は入らない」

治具に嵌まらない状態を見せつけると、宗近は表情を強張(こわば)らせた。

「そんな……僕がやったときは、ちゃんと入ったのに……」

「とにかく今は、こんな状態だ。すぐに直してくれ。検査治具は出荷した不良品の選別をするために使わなきゃならないから、五分くらいしか貸せない。その間に直すんだ」

「五分で……それは……」

「やるんだよ」

塚田は強い口調を意識して、言った。宗近が泣きそうな顔になる。かすかな罪悪感を覚えたが、押し殺した。

ひとまず工場内の在庫を全品検査した。三十五個のうち五個が不良品だった。

「倉庫には百三十個あります」

管理部の梅田(うめだ)が報告してきた。

「仲川工場のラインサイドには七十個前後」

「トラックで輸送中のものは?」

塚田が訊くと、彼は首を振った。

「ありません。でも三十分後には倉庫から出荷されます」

「それは止めてくれ。今から選別する」

中本が各課に連絡を入れて集めた人員は塚田を入れて六人。五人を倉庫に向かわせ、選別をさせる必要がある。となると仲川工場に向かうのは塚田ひとりになってしまう。

「もうひとり、俺と一緒に工場に行ってくれる人間が欲しいんですが」

塚田が頼み込むと中本は腕組みをして考えていたが、

「とりあえず課長に報告してから車を出せるようにしておけ。誰か行ってもらうようにするから」

と答えた。塚田は品質管理課事務所に一旦戻った。

「それで、原因はなんなんだ?」

報告を受けた高村(たかむら)課長が渋い顔で尋ねてきた。

「金曜日にボルト打ちマシンの修理をして、そのときに軸がずれていたのを修正したそうです。それが甘かったのかもしれません」

「生産技術の担当は誰だ?」

「宗近です」

「あいつか」

高村の表情が更に苦くなる。

「この前も何かでトラブってたよな」

「ツヅキですね。K926」

話を聞いていたツヅキ自動車担当の新島(にいじま)係長が答える。

「ああ、思い出した。ボルトの加熱が甘くて浮いてた件だな。また同じミスか。しようがない奴だな。手を抜いてるのか」

「いや、宗近は真面目な人間ですよ」

援護したのは隣の生産技術から駆り出されてきた等々力(とどろき)だった。

「ちょっと要領は悪いですが、ちゃんと働いてます」

「こんな不良を出してたんじゃ、真面目も何もないだろうが」

高村が声を荒らげる。等々力の表情が硬化した。彼が、新入社員だったときの宗近の指導係だったことを知っている塚田は、(いさか)いになる前に言った。

「とにかく、すぐにも選別して良品を納めなきゃいけません。出ましょう」

車の手配をした後、再びP2ブロックに戻る。宗近がボルト打ち機械に取りついていた。

「どうだ? 直ったか」

尋ねると、彼は暗い表情で、

「それが、どこもおかしくないんです。十三個ボルト打ちをしてみたんですけど、どれもボルトは正しい角度でインサートされてます」

「ばらつきがあるということか。ネジが緩んでるとか、がたつきがあるとか」

「そうじゃないんです。機械は正常なんです。固定もしっかりされてます」

「じゃあ、どうしてボルトが曲がったんだ?」

「わかりません。原因不明なんです」

宗近は断言した。塚田は言い返したかったが、代わりに待機していた鶴見ブロック長に尋ねた。

「今日はあと、何個作るんですか」

「Lを十一個だ」

「じゃあボルトを打ち終わった分で作れますね」

塚田はそう言って検査治具を持ち上げた。

「宗近、組立に立ち会って、工程中にボルトを曲げる要素がないかどうか確認してくれ。俺はこれから選別に出る」

社用車を借り出し、運転席に座る。思わず溜息が出た。中本は安請け合いしていたが、同伴者が見つかったかどうかわからない。しばらく待って誰も来なかったら、ひとりで行くしかない。そう覚悟を決めたとき、サイドウインドウが軽く叩かれた。

「……篠島(しのじま)さん……」

その人物は助手席のドアを開けて乗り込んできた。

「中本係長に言われました。行きましょうか」

「でも……大丈夫ですか。仕事は?」

「みんな仕事を持っている中でイレギュラーな事態にも対処しなきゃならない。ここはそういう会社でしょ? 郷に入れば郷に従えですよ」

そう言って彼──篠島俊行(としゆき)は軽く微笑んだ。

「でも、これは篠島さんの仕事では……」

「ないですね。だから僕の会社には内緒、だそうです。四の五の言ってないで、車を出してください」

篠島に促され、塚田は車を発進させた。

「仕事、忙しくないんですか」

尋ねてから、訊きかたが悪いと気付いた。篠島は苦笑しながら、

「忙しいですよ。飯野電気には遊ばせてくれる余裕はないですから」

「……すみません」

「謝らなくてもいいです。塚田さんのせいじゃない。そもそも正社員だけでは仕事が回らないから僕が派遣されてきたわけですからね」

『労働力の需給の適正な調整を図るため労働者派遣事業の適正な運営の確保に関する措置を講ずるとともに、派遣労働者の保護等を図り、もつて派遣労働者の雇用の安定その他福祉の増進に資することを目的と』した労働者派遣法が成立したのは一九八五年。そこから日本社会においても人材派遣が本格化した。最初はソフトウェア開発や事務用機器操作など十三の業務に限定されて始まり、後に機械設計、放送機器等操作、放送番組等の制作の三業務が追加された。どれも専門的知識などを必要とする特殊な業務であり、派遣労働者は特別の技能を身につけた、いわばエリートだった。篠島も機械設計エンジニアとして「テクニクシー」という派遣会社から喜里工場に派遣されてきたのだった。東京工業大学の機械工学科を出て博士号を取っている。飯野電気側も彼を迎え入れるため工場内に個室を用意するという特別待遇までしていた。

「篠島さん、今は何の仕事をしてたんでしたっけ?」

「塗装ロボットです。塗装工場を建て増ししたら、もう一機増やすので」

「今動いてるヘッドランプレンズの塗装工程も篠島さんの設計ですよね。すごいなあ。あんなのがもう一台増えるのか」

「あれより新しい、最新のものになります。ヘッドランプのレンズがガラス製から樹脂製に変わってきて、形状も従来のものより複雑になってきましたから、トップコートの塗装も三次元的な動きをさせなければならない。リフレクタもただの凹面ではなくマルチリフレクタがこれから主流になっていくでしょう。新しい塗装システムの構築は急務というわけです」

篠島の言葉には淀みがない。まるでニュース番組の解説員のようだった。やはり派遣社員は違うな、と塚田は内心で感服する。

「そんな忙しい中、こんな雑用に引っ張り出してしまってすみません」

「だから謝らなくてもいいですって。さっさと済ませて僕らの本来の仕事に戻りましょう」

本来の仕事、か。俺の本来の仕事って何だろう。塚田はぼんやり考える。品質管理とは要求された品質の製品を作り出すための手段だ。それはわかっている。工場で生産している製品や開発中の新製品が求められている品質を保つように働いているつもりだ。しかしそれが、こんなクレーム対処に終始するだけのものなのだろうか。きりきり舞いするような毎日が、自分の本来の仕事なのだろうか。

塚田は小さく頭を振った。車の運転をしているときにこういうことを考えてはいけない。事故を起こしたら取り返しがつかなくなる。もし事故が起きたら……。

事故が起きたら、この状態から抜け出せるのか。

いっそ入院でもしてしまえば、まさか病院まで仕事が追いかけてくることもないだろうが。

いけない、また雑念だ。塚田は大きく深呼吸して気を紛らせた。

「最近多いですね」

篠島の言葉を聞き逃しそうになった。

「え? 多いって何がですか」

「トラブルですよ。先週も不良品選別に駆り出されました。選別専用の部署を作ったほうがいいくらいですよね」

「イレギュラーなことに対応する人間を常駐させられるほど、会社には余裕はないですからね。でも、そんなに不良が多くなってるんですか」

「なってますね。先週のはヘッドランプのリフレクタが動かなくなったっていうやつだったし、その前はレンズのクラックでした」

自分の仕事で手一杯の塚田より、篠島のほうが工場全体の状況に詳しいようだった。

「それは、よろしくないですね」

「ええ、よろしくない。しかも気持ち悪い」

「気持ち悪い?」

「最近のトラブルは、どれもこれも原因がわからないらしいんです。部品に不良はないし、組立工程を見直しても問題はなかったらしい。おたくの高村課長がこぼしてましたよ」

「そうなんですか……」

──原因不明なんです。

先程の宗近の言葉を思い出した。

「最近、おかしいですね」

篠島が言う。

「不良もですが、工場の中で怪我(けが)とかトラブルとかあったり」

「忙しいですからね。みんな大忙しで働いているから、ミスが出やすいのかも」

塚田自身、日曜の試作でほぼ徹夜状態のまま出勤していて、睡眠不足は自覚していた。車の運転も気を付けなければ。あれこれ無駄なことを考えている場合ではない。

「それだけじゃないような気がします」

篠島はしかし、そう言った。

「知ってますか。工場に幽霊が出るそうです」

「幽霊? 何ですかそれ?」

思わず笑いそうになる。自分より頭の良さそうな篠島の口から出る言葉とは思えなかった。篠島も笑いまじりで、

「そんな噂も出てるって話です。夜勤をしていた誰かが見たとか」

「まさか」

否定しながらも塚田は、先日、工場の窓を横切ったもののことを思い出した。しかしすぐに打ち消した。いや、あれはただの見間違いだ。

だが、最近何度もあれを見ている。本当に見間違いなのだろうか……。

信号が赤になる。うっかり見落としそうになって急ブレーキを踏んだ。駄目だ、落ち着け。気を付けろ。自分を叱咤(しった)した。

しかし頭の中は、窓を横切ったもののことでいっぱいだった。あのとき、一瞬だけ、それの姿が見えた。

それは顔のように見えた。無表情な顔のように。

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太田忠司

1959年、名古屋市生まれ。名古屋工業大学電気工学科卒業。81年「星新一ショート・ショートコンテスト」で「帰郷」が優秀作に選ばれる。「狩野俊介」シリーズ、「新宿少年探偵団」シリーズ、「ミステリなふたり」シリーズなど、著書多数。

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