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ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病

2020.02.16 公開 ツイート

#1 こんなひどい数値は見たことがない…酒と病の自伝小説 高橋三千綱

不摂生がたたりアルコール性肝炎を発症、γ-GTPの数値、4000台を叩き出した道太郎。1年後、61歳にして肝硬変を宣告される。さらに食道がん、胃がんが身体を襲う。献身的な妻、親思いの娘、美しき女友だち、犬。そんな闘病中、自身の身体が起こす奇跡も知る……。芥川賞作家、高橋三千綱さんの『ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病』は、自身の闘病経験を下敷きにした自伝小説。作品の冒頭部分を、抜粋してお届けします。

*   *   *

1 二〇〇八年(平成二十年)四月二日

村山医院の村山明院長は、厚めの検査報告書を自ら書類棚から引っ張り出した。そこには橋本道太郎の名が書かれている。検査報告書に目を落とした村山明院長は、片肘をデスクについて右手の親指と人さし指の間に顎を乗せた。その顎が右手からすべり落ちたのはほんの数秒後のことだった。

(写真:iStock.com/kazoka30)

村山明院長が虚ろな眼差しを私に向けたとき、これはよくない兆候なのではないかと思った。検査報告書には五日前の三月二十八日に行われた血液検査の結果が並んでいて、そこにはアルブミン、GOT、GPT、ALP、グルコース、中性脂肪、HbA1c、血小板数などの数値がゼロコンマ以下まで細かく示されていた。

グルコースとは血糖値のことであり、病院のロビーにたむろする老人たちから親しまれている血液中にしみ込んだ血糖の単位である。70から109が正常な人の血糖値であり、そのときの私は342であるということも数分後に知ることになった。

デスクの上で顎をズッコケさせた村山医師は少し震える唇から呻き声を洩らし、これはといったきり検査報告書に数秒間目を落としたままでいた。

「これは……ひどい。こんなひどい数字はみたことがない。いや、多分みたことはあるが、何十年も前のことでしょう」

村山明医師は六十代半ばで、顔立ちの整った紳士的な医者であった。循環器系の内科医であるが、小児科もやっているので小児科医の少ない近隣の住民からは重宝がられている。私が村山医院に通うようになったのは橋本道太郎事務所を赤坂七丁目から府中市宮西町に移した四年ほど前からのことだ。ここは町の医院とはいっても人工透析の医療機器が二十台ほどもあり、生前の父が糖尿病の合併症を併発して人工透析を自宅近くの病院で受けるようになって間もなく天寿を全うしたので、その予防にもなるとセコい計略をもって村山医院を訪れたのである。それに村山医師とは同じゴルフ倶楽部の会員同士であり、多少の面識もあった。私は特別待遇を期待していたわけではない。だが、ゼンゼンなかったとも言い難い。

父は昭和天皇の崩御から二ヶ月後の一九八九年(平成元年)三月に天皇の崩御を嗚咽しつつ七十八歳で亡くなっている。つまり父の死から十五年もたって、糖尿病からくる合併症を怖れた私は遅ればせながら村山医院の入り口に佇んだのである。「人工透析をするようになったおれにはもう生きている意味がない」と我慢強い父が呟いていたことが耳の底に残っていた。それからさらに四年の月日が流れたが、模範的な患者とはほど遠い私は、「糖尿病の境界線だから酒はくれぐれも慎むように」とここへくるたびにくどいほどいわれていながら、血糖値を下げる薬をもらうと居酒屋にあたふたと駆け込む始末で、村山医師の診断を忠実に守る気配などさらさらみせなかった。遺言めいた父の嘆きを脳裏に刻みながら、どこかで糖尿病という表面に現れない病を軽く考えていたのである。

「何がそんなにひどいんですか?」

そう訊くと、村山医師はつくづくあきれかえったというように頭を軽く振った。

「γ-GTPですよ。3895ですよ。一体どうしたらこんな数値が出せるんですか」

γ-GTPはタンパク質を分解・合成する働きをするという。肝臓や腎臓でつくられる人体には重要な酵素である。ただし、アルコールを摂取したときは血液中のγ-GTPの数値が如実に増加する。つまり、γ-GTPの数値によって飲酒した量が医者にばれてしまうのである。しかし私は気にもとめなかった。一週間ほど酒量を抑えただけでγ-GTPが劇的に下がったことがあったからである。

γ-GTPの正常値は70~80以下である。4000近いとなると、正常値の五十倍ということになる。馬券なら中アナであるが、健康の数値となると、それは異常といってもいい数値である。さすがに私は少し青ざめた。

「3895ですか。それは多すぎますね」

「多すぎます」

村山医師は断言した。妙に自信に溢れているように窺えた。

「180か、せいぜい200くらいだと思っていたのですが」

いや、そうは思っていなかったはずだ。昨年の夏を境に身体が急にだるくなってきた。朝ご飯を食べるとすぐに横になる習慣が身に付いた。今年の正月には酒があまり飲めなくなった。そういう経験は二十六年振りだったので、最初は随分戸惑った。

三十四歳のときに胃潰瘍と十二指腸潰瘍で胃の四分の三と十二指腸球形部を切除する手術を受ける羽目になった。飲むと吐き気がしたのである。それが三ヶ月続いた。これは尋常ではないなと遅まきながら気付いて千駄ヶ谷にあった外科病院にいくと、七十歳を過ぎた院長が、すぐに切ろうと即断したのである。病院を建て直したばかりで理事長を兼ねていた院長にはお金が必要だった。手術後は肝臓が悪化して結局二ヶ月間特別室に入院させられた。あれは切る必要があったのだろうかと当時のことを思い出すたびに私は深い疑念の霧の中に立たされている。

(写真:iStock.com/OlegEvseev)

「正常値は80以下ですよ。γ-GTPなんてアルコールさえやめればすぐに下がると簡単に考えている呑ン兵衛が多いのですが、これは実はとても危険な兆候なのです。橋本さんは以前γ-GTPは180くらいだと言われていましたがそれはいつ頃のことですか?」

「あれは、たしか……」

休養と検査入院を兼ねて千葉県の鴨川にあった病院に一週間ほどくつろいでいたときであったから、まだ五十歳前のことだった。それ以前に二回、美人看護婦の多い増上寺近くの東京専売病院に検査入院をしていたから、鴨川の病院に移ってからは元気で、入院中も午後になると近くのゴルフ場にでかけてひとりで9ホールをラウンドするのが日課になっていた。

「四十代のけつっぺただったと思うんですが、はっきりした日付は覚えていません」

「けつっぺた?」

「終わり頃ということです」

村山医師は少し考え深げに頷いた。この先生は煙草を吸わない。酒もたしなむ程度でほとんど呑まないとゴルフ倶楽部の仲間の人たちから聞いている。村山医師とは数年前に一度たまたまラウンドしたことがある。ひどく下手くそだったがとても真面目にやっていた。今ではシニア選手権を狙えるほどに上達している。愛妻家で夫婦で「潜り」にいくという。反対に六年前まではシングルさんと呼ばれていた私だったが身体がだるくなり始めた頃からハンディキャップが急激に落ち始め、やがて一年前に16になったという通知を受けてから、ゴルフに対するやる気そのものが急に失せ始めた。

「えーと、今はいくつでしたっけ」

村山医師は首を傾げるようにして斜め下方からこちらを見上げた。年齢を口にするのはなぜか居心地が悪かった。その歳までよく生きてこられたなと言い返されるような気がするのである。

「六十歳と三ヶ月です」

観念して答えた。

「するとγ-GTPが180だったのは十二、三年も前のことになりますか」

「はい。あ、でもうろ覚えでして、180という数値もγ-GTPなのか血糖値だったのかよく覚えていないんです」

村山医師はちょっとこちらに睨みを利かせてから書類に目を落とした。

「うちで以前検査をしたのは、えーと」

といって村山医師は書類をめくった。

「〇七年の五月三十一日ですか。ほぼ一年前ですね。そのときはγ-GTPが1325で、血糖値は正常の三倍値の325、A1cが8・3ですね。しかもGOTは285ですよ。正常値は40以下ですから、この時点ですでに肝臓は破壊されていたんです。どうみてもアルコール性の肝炎ですね」

はい、その通りですとは素直に返事ができなかった。先生には思い出してほしくない出来事が一年前の診察後にあったのである。

村山医師はちらりとこちらをみて、口元をほころばせた。

「私は糖尿病の専門医でないので、あのときたしか府中病院の専門医に紹介状を書いたはずですが」

「はい、紹介して頂きました」

顔をほころばせたのではなく、薄笑いであったのだ、と悟ったときにはもう遅かった。先生はあの出来事を覚えていたのである。

「あちらの専門医の診察を受けているとばかり思っていたのですが、いかなかったのですか?」

「いきました。ですが、いきなりアルコール性肝炎だから禁酒しろといわれて、それはできないと答えたら、んなら、こなくていいということになりまして……はは……」

自分の乾いた笑い声が虚しく感じられた。村山医師は窓にはめ込まれている曇り硝子に視線を向けた。

「橋本さん、γ-GTPが200を超えたら大抵の人はアルコール依存症を疑うものです。300を超えたらアル中です。依存症とはきれいな言葉ですが、数値をみた人は合併症がこわい、失明するんじゃないかといってあわてるものです。入院を勧められる人もいれば、依存症患者用の施設に入れられる人もいる。1000を超えたら間違いなく入院です。しかも肝臓には特効薬はないので日がな一日ぼんやり過ごすことになるのです。γ-GTPが3895というのは天文学的数字で間違いなく入院です。まず肝生検から始められるでしょう」

「肝生検というと肝臓にずぶりと針を刺し込んで肝臓の細胞を採るというあれですか」

「そうです。あれです。検査とはいえ痛いですよ。でもそれで正確な病状が判断できます」

聞いているだけで全身が青ざめてきた。父が人工透析を受けるようになったのも最初は糖尿病が原因だった。しかも父はほとんど酒を飲まなかった。それでも合併症から心筋梗塞を起こして救急車で運ばれ、それきり自宅に戻ることはなかった。

「どうされますか。入院するのならもう一度専門医を紹介しますが」

「いや、入院だけはカンベンしてください」

「ではどうされますか」

「もう一度先生の診断を仰ぎたいと思います」

村山医師はふと遠くに目をやるとちょっと不機嫌そうな表情をしてから、不承不承頷いた。

「分かりました。でも橋本さんの場合、全ての原因はアルコールからきているのですよ」

あのう、と私はしぶとく食い下がった。酒に未練があったのである。

「こういうことはまずないと思いますが、γ-GTPの数値は検査ミスということはありませんか」

村山医師はジロリとこちらをみた。それからすました顔で軽く頷いた。

「ではもう一度、検査をしましょう。一ヶ月間アルコールをやめてそれから採血をしましょう。絶対にお酒はダメですよ」

私は神妙に頷き、生ビールをあきらめて二十分ほど電車に乗って自宅に帰った。35キロのブルドッグがハアハアと荒い息を吐き出して私をいつものように無愛想なツラで迎えてくれた。

関連書籍

高橋三千綱『ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病』

「糖尿病」に始まり、61歳にして「肝硬変」の宣告。 くわえて「食道がん」「胃がん」を発症。 襲いかかる病いを、いかにして強力な生命力にしたか。初書き下ろし自伝小説。 糖尿病からアルコール性肝炎。医師の禁酒勧告もなんのその、毎日四合六合と酒を飲み続けた道太郎。80以下が正常値のγーGTP検査の数値、4000台をたたき出す。それから1年、61歳にして「肝硬変」を宣告される。くわえて「食道がん」「胃がん」が身体を襲う。取り囲む献身的な妻、親思いの娘。美しき女友だち、犬…。そんな闘病中、自身の身体が起こす奇跡も知る。重なる病いにたじろぎながらも、病いをエネルギーに生命を燃やす自伝的小説。

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高橋三千綱

1948年大阪府生まれ。高校卒業後、サンフランシスコ州立大学入学。帰国後『シスコで語ろう』を自費出版。早稲田大学へ入学するが中退し、東京スポーツ新聞社入社。74年「退屈しのぎ」で第17回群像新人文学賞、78年「九月の空」で第79回芥川賞受賞。83年『真夜中のボクサー』映画製作。青春小説、ゴルフ小説、時代小説他、漫画原作等、幅広い作品活動を手掛けている。

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