はじめの強制指名日のお客になってくれたのは知り合いの母親。黒い扉の向こうで何が起きるのか――。
#7下町ホスト
時計は0時近くを指し示し、下町の繁華街は、日曜日らしく賑わう
駅の方へ真新しい息を吐きながら走る人々と泥酔した人が阻み狭い路地が渋滞している
その隙間を君と手を絡ませながら、ネオンに溶け込んでゆく
冷たく湿った香りとすれ違う人の体臭が混ざり合い私の体に沈む
時折、落ちている昨日の雨で奇妙に変形した嘔吐物を避け、ホストクラブへ向かう
店の前に到着すると、君は絡んでいた指を解いて、光沢のあるエナメルのバックを持ち直した
先ほどまで柔らかかった瞳は、きりっと再度出逢った日の君に戻る
私の目の前にあるホストクラブの扉は、しっとりとした質感の黒い塗装をされ、所々、金色の金属で控えめな装飾が施されている
扉の取っ手は、重たそうに取り付けられていて、磨きすぎてしまったのか、金色が少し薄まって、白く禿げている
扉をゆっくり開けると、隙間から前衛的なユーロビートが漏れ出し、ウルトラマリンをココナッツで薄めたような香りが漂う
入り口で待機していたホスト達がBGMに負けぬ声量で、いらっしゃいませと揃える気がなさそうに怒号を飛ばす
内勤者が予め決めていたであろう席の場所を私に告げ、君を案内する
ショートボブが座っていたのが遥か昔に感じる席の真向かいの席に座った
君は煙草に火をつけて、ほぼ真っさらなテーブルに二つ重なっている灰皿を一つ取り手前に置く
器用にくるんと煙草の先端を回転させ、綺麗に灰を落としてから喋り出す
これから源氏名で呼ぶからね
はい
あと、敬語禁止
、、、うん
何飲む?
、、、ビールかな
ホストになって、何を目指しているんだっけ?
、、、No. 1
メニュー持ってきてよ
わかった
あなたが行くんじゃないの
誰か呼びなさい
うん
お願いします
BGMに掻き消され虚空を彷徨う私の声がたまたま近くにいたらしい美しい青年の耳に届いた
いらっしゃいませ お呼びでしょうか?
美しい青年は、君に挨拶をして、ドリンクメニューを持ってくる
一瞬、美しい青年の目が泳いだように見えたが、気のせいという言葉に括り付けた
君は美しい青年をじっと見て、少し笑ったように見えたが、霞のような嫉妬心をまた気のせいと書かれた棚にしまった
君は美しい青年が去った後、ドリンクメニューを広げて、私に渡す
0が下に向かって増えてゆく数字の羅列に目が廻る
あなたが選びなさい
少しだけ冷たそうに聞こえたその言葉から、随分間を取って、ドンペリニヨンと名称を告げた
君は終わりかけの煙草の火種だけ取り、赤いリップの付着した吸い殻を捨ててから唇を開く
誰かにとって完璧な男って言ったよね
私にとって完璧な男になれる?
うん
じゃあ、飲もうかドンペリ
そう言って、君は太ももが触れる距離まで近づいた
暫くして、スキンヘッドがやってきて、シャンパンコールの有無など、私抜きで話し合いが始まり、あっという間に卓上に冷たそうなシャンパンクーラーに突き刺さった黒いドンペリニヨンが運ばれてきた
その数秒後、店内のBGMが消え、各スピーカーから一斉に私がドンペリニヨンを入れた事実が告げられ、巨大な拍手を贈られる
どうやらシャンパンコールはしないらしい
卓飲みというのだろうか、私が抜栓を任された
冷たいシャンパンクーラーからドンペリニヨンを引き抜き、栓を覆っている黒いシールを親指で剥がそうとするが、ぽろぽろと破れてゆく
ようやく金色の針金の全貌が見え、コルクを固定しているであろう捻れた箇所をくるくると解く
弱まった針金と共に思いっきりコルクを右回転に抜いた
破裂音と同時に美しい泡が溢れ、スーツが濡れる
ボトルをシャンパンクーラーに付属していた赤いトーションで拭く
背の揃った細いグラスに半分程度注いで、君の目の前にコースターは置かずに静かに着地させた
私は膝を光沢のあるフロアに付着させながら君よりグラスを一段下げ、乾杯の姿勢を取る
君はグラスの根元の方で軽く私のグラスに触れ、一気に飲み干してからグラスに付着した紅色を拭って話し始める
あなたじゃなくて、ちゃんと源氏名で呼ぶね
シュン、No. 1あとで着けてもらっていい?
えっ、なんで?
ちょっと話してみたくて
その間、ヘルプ回ってきなさい
印象良くなるよ
うん、、
ベッタリ居てほしいけど、No. 1目指すなら、しっかり席周りして、顔を売ってきなさい
わかった
店長に、このことを告げ、私は店長の席のヘルプに着くことになった
君の席から程よく離れていて、会話はもちろん、姿は全く見えない
店長のお客様から、入店すぐにドンペリなんて凄いねぇなどと言われ少しばかり浮かれていたが会話が赤貝のひもほど短くなった頃に、また前衛的なユーロビートが消える
咳払いを二回したスピーカーが私の席で、ドンペリニヨン二本目が注文されたことを告げた
すぐに席に戻ろうとしたが、店長に止められ、そのまま三人で、現在の健康についてなど、どうでもいい会話で時間が過ぎた
しばらくして、店長から席を抜けるよう指示を受ける
頂いていた水割りを飲み干して、凡庸に席を抜けた
立ち上がると膀胱が膨れ上がり、トイレへ駆け込む
背の高い小蝿のようなホストが先にいたが、ドンペリ効果なのか、ムスッとした表情で私に順番を譲った
愛想良く軽く会釈をしてから、勢いよくほとんど透明の放尿をした
席に戻ると美しい青年は、ありがとうございましたとだけ君に言い、フロアに膝を付けて乾杯をし席を抜けて、スタッフルームの方へゆっくり歩いて行った
そそくさと金髪リーゼントが席にやってきて、不安定な身の上話を始めた
私は美しい青年が気になって、スタッフルームへ向かう
ああ、シュンか
何かあったんですか?
お前何も聞いてない?
はい
そっか
いつか時が来たら話すよ
そういって、美しい青年は私の顔をあまり見ずに、薄れゆく香水の影を残して自分の席へ戻っていった
渇きゆく広大無辺の舌苔をひやり劈く霞んだ酸味
勇敢に返事をしてる深夜四時ようやく君は放尿をする
乏月の白子のような肉体をそっと支える誰かのベッド
水蛸の滑りのように囁いて渇きを知らぬ狭い口内
開花して未来へ向かうあの人と桜を知らぬ蝉の抜け殻