明治以降、欧米追随だった日本の美術界から、独自の作風で世界的評価を得る作家が登場する時代になりました。その立役者の一人がミヅマアートギャラリーの創設者、三潴末雄氏です。3月5日発売になった文庫『アートにとって価値とは何か』は第一線のギャラリストの奮戦記であり、価値創造の舞台裏です。現代美術がさらにおもしろくなる本書より、「第三章 アートマーケット激動の中で」の一部を抜粋してお届けします。

ギャラリー開廊と日本のアートシーンへの苛立ち
最初に西麻布で開廊してからしばらくの間は、他のギャラリーや展覧会などを見様見真似で参考にしながら、自分なりのやり方を模索する時期が続いた。
この時期に影響を受けたのが、1990年にアキライケダギャラリーが幕張メッセを借りて開いた大規模な展覧会「ファルマコン」だった。アキライケダギャラリーは、神野公男が勤めたギャラリーたかぎと並んで名古屋の現代アートシーンを牽けん引いんした双璧の一方で、この時期には京橋やニューヨークでも開廊していた。
幕張の展覧会では、アキライケダ所属の日本人作家の他、ロイ・リキテンシュタイン、ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホルなどを世に出したことで知られるニューヨークのレオ・キャステリ・ギャラリーのかなりの作家を日本に紹介していた。例えばリチャード・セラの巨大な鉄の壁の作品を日本で見ることができたのは、このときがほぼ初めてに近かったと思う。この展覧会を機に、多くの海外作家が日本の美術館に収蔵されることになる。
確かにすごい展覧会だった。わたしも将来、こんなことがやれたらいいなと思ったほどだった。ただ、そのとき出品された日本作家たちの何人がレオ・キャステリ・ギャラリーで個展を開いているのかが気になった。調べてみたら、誰もいなかった。圧倒的な輸入超過の状態だったのだ。せめて「こちらがこれだけ買ったんだから、うちの作家の個展をやってよ」という最低限のバーターすら実現できないのかという、日本アートの立ち位置に対して失望を感じたことを覚えている。
自分のギャラリーでは、この輸入超過の状況に対して、それをぶち破る可能性を持った日本の作家をきちんと探して、彼らを発信していこうという信念を強く持つに至った。わたしは94年、東京・青山に真に自立した自分のギャラリーとして「ミヅマアートギャラリー」を開廊した。最初の展覧会は黒田アキで、2月14日のバレンタインデーがオープン日だった。
青山にギャラリーを開いた理由は、銀座を中心に展開していた、当時の貸しギャラリー文化がつくり出す現代アートの流れに対する批判が強くあったからだ。
銀座には、東京画廊や南天子画廊をはじめとして、その系譜を踏んだ佐谷画廊や西村画廊があり、さらにその周辺にたくさんの小さな貸しギャラリーがあった。銀座に来るアートファンたちには、その小さなスペースをグルグル回っていくという文化が確立されていた。そうした中、現代アートでデビューするなら、その銀座のローカルな世界に適応しなければ、という空気が東京には存在していた。
そういうシーンが、わたしには不毛に感じられてならなかった。それぞれの個々のギャラリーでデビューする作家や展覧会の企画が、必ずしも不毛だと言いたいのではない。そうではなく、銀座に象徴されるマーケット全体の釣堀みたいな構造では、世界に向けてオリジナリティのある作家を輩出できるようになっていないのではないかということだ。
バブルに至る美術シーン全体を見渡せば、80年代の好況期までに、最初に一県一美術館運動のようなかたちで、ほとんどの都道府県に近代美術館が生まれ、さらに県庁所在地には市の美術館ができるという、文化を標榜したハコモノ公共事業の流れがあった。そうなると各美術館には作品購入予算がつくので、そこに銀座あたりのギャラリーを中心に、みんなが群がり、自分たちの作家を売り込むという構造があったのだ。こういう公共事業予算頼みの擬似マーケットの中で「○○先生は○○美術館がコレクションしたよ」という話が公然と銀座のギャラリーでは語られていて、その評価軸で値付けがなされるという、マーケットとして非常に歪んだ形態になっていた。
もっとひどい状態になると、美術館の公共工事で、ハコモノを建てると、判で押したようにその予算のうちの1%程度は野外彫刻のようなモニュメントに充てられた。それに過剰適応してパブリックアート専門の作家が生まれるようになる。そんな擬似マーケットが、バブル期にはまかり通っていたのだ。これでは世界のマーケットで評価される作家が育つはずがない。
実際、2000年代になってから、バブル期に高い値段で日本の現代アート作品を買っていたある医者の方が亡くなり、その相続時にコレクションを売りたいという相談を受けた。しかし、蒐集された作家たちは、ほとんどが学校の先生になっていたりして現役感を失い、作品はオークションに出しても値段がつかないようなものばかりだった。まさに、バブル時代のつわものどもが夢の跡、といった無残な有り様だった。
その一方では、先述のセゾンを中心とした流通・広告資本と密接に結びついた、もっとカジュアルな民間メセナによるアートマーケットの世界が、新興勢力として勃興していた。PRの世界からアート入りしたわたし自身の出自も、こちらに近いと言えば近いだろう。しかし、セゾン文化圏の欧米に対するコンプレックスが丸出しになった雰囲気には、どうにも肌にあわないものがあった。
そうなると、銀座的で官におもねる擬似マーケットではない、池袋や渋谷で展開されたセゾン的な大企業主導のコンプレックス・マーケットでもない、わが道をゆくしかなかった。既存の国内マーケットには背を向けることになるが、簡単には売れなくとも、とにかくわたし自身が面白いと思える作家や作品ありき、で勝負したかった。そんな思いで、わたしは青山でギャラリーを開いたのである。
最初に西麻布で開廊してからしばらくの間は、他のギャラリーや展覧会などを見様見真似で参考にしながら、自分なりのやり方を模索する時期が続いた。
この時期に影響を受けたのが、1990年にアキライケダギャラリーが幕張メッセを借りて開いた大規模な展覧会「ファルマコン」だった。アキライケダギャラリーは、神野公男が勤めたギャラリーたかぎと並んで名古屋の現代アートシーンを牽引した双璧の一方で、この時期には京橋やニューヨークでも開廊していた。
幕張の展覧会では、アキライケダ所属の日本人作家の他、ロイ・リキテンシュタイン、ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホルなどを世に出したことで知られるニューヨークのレオ・キャステリ・ギャラリーのかなりの作家を日本に紹介していた。例えばリチャード・セラの巨大な鉄の壁の作品を日本で見ることができたのは、このときがほぼ初めてに近かったと思う。この展覧会を機に、多くの海外作家が日本の美術館に収蔵されることになる。
確かにすごい展覧会だった。わたしも将来、こんなことがやれたらいいなと思ったほどだった。ただ、そのとき出品された日本作家たちの何人がレオ・キャステリ・ギャラリーで個展を開いているのかが気になった。調べてみたら、誰もいなかった。圧倒的な輸入超過の状態だったのだ。せめて「こちらがこれだけ買ったんだから、うちの作家の個展をやってよ」という最低限のバーターすら実現できないのかという、日本アートの立ち位置に対して失望を感じたことを覚えている。
自分のギャラリーでは、この輸入超過の状況に対して、それをぶち破る可能性を持った日本の作家をきちんと探して、彼らを発信していこうという信念を強く持つに至った。わたしは94年、東京・青山に真に自立した自分のギャラリーとして「ミヅマアートギャラリー」を開廊した。最初の展覧会は黒田アキで、2月14日のバレンタインデーがオープン日だった。
青山にギャラリーを開いた理由は、銀座を中心に展開していた、当時の貸しギャラリー文化がつくり出す現代アートの流れに対する批判が強くあったからだ。
銀座には、東京画廊や南天子画廊をはじめとして、その系譜を踏んだ佐谷画廊や西村画廊があり、さらにその周辺にたくさんの小さな貸しギャラリーがあった。銀座に来るアートファンたちには、その小さなスペースをグルグル回っていくという文化が確立されていた。そうした中、現代アートでデビューするなら、その銀座のローカルな世界に適応しなければ、という空気が東京には存在していた。
そういうシーンが、わたしには不毛に感じられてならなかった。それぞれの個々のギャラリーでデビューする作家や展覧会の企画が、必ずしも不毛だと言いたいのではない。そうではなく、銀座に象徴されるマーケット全体の釣堀みたいな構造では、世界に向けてオリジナリティのある作家を輩出できるようになっていないのではないかということだ。
バブルに至る美術シーン全体を見渡せば、80年代の好況期までに、最初に一県一美術館運動のようなかたちで、ほとんどの都道府県に近代美術館が生まれ、さらに県庁所在地には市の美術館ができるという、文化を標榜ひようぼうしたハコモノ公共事業の流れがあった。そうなると各美術館には作品購入予算がつくので、そこに銀座あたりのギャラリーを中心に、みんなが群がり、自分たちの作家を売り込むという構造があったのだ。こういう公共事業予算頼みの擬似マーケットの中で「○○先生は○○美術館がコレクションしたよ」という話が公然と銀座のギャラリーでは語られていて、その評価軸で値付けがなされるという、マーケットとして非常に歪んだ形態になっていた。
もっとひどい状態になると、美術館の公共工事で、ハコモノを建てると、判で押したようにその予算のうちの1%程度は野外彫刻のようなモニュメントに充てられた。それに過剰適応してパブリックアート専門の作家が生まれるようになる。そんな擬似マーケットが、バブル期にはまかり通っていたのだ。これでは世界のマーケットで評価される作家が育つはずがない。
実際、2000年代になってから、バブル期に高い値段で日本の現代アート作品を買っていたある医者の方が亡くなり、その相続時にコレクションを売りたいという相談を受けた。しかし、蒐集された作家たちは、ほとんどが学校の先生になっていたりして現役感を失い、作品はオークションに出しても値段がつかないようなものばかりだった。まさに、バブル時代のつわものどもが夢の跡、といった無残な有り様だった。
その一方では、先述のセゾンを中心とした流通・広告資本と密接に結びついた、もっとカジュアルな民間メセナによるアートマーケットの世界が、新興勢力として勃興していた。PRの世界からアート入りしたわたし自身の出自も、こちらに近いと言えば近いだろう。しかし、セゾン文化圏の欧米に対するコンプレックスが丸出しになった雰囲気には、どうにも肌にあわないものがあった。
そうなると、銀座的で官におもねる擬似マーケットではない、池袋や渋谷で展開されたセゾン的な大企業主導のコンプレックス・マーケットでもない、わが道をゆくしかなかった。既存の国内マーケットには背を向けることになるが、簡単には売れなくとも、とにかくわたし自身が面白いと思える作家や作品ありき、で勝負したかった。そんな思いで、わたしは青山でギャラリーを開いたのである。
アートにとって価値とは何か

2026年3月5日発売の文庫『アートにとって価値とは何か』について。
カバー作品:
宮永愛子《夜に降る景色 ー時計ー》2010
ナフタリン、ミクストメディア 22.4 × 30.5 × 19 cm 撮影:宮島径
©︎ MIYANAGA Aiko
Courtesy of Mizuma Art Gallery











