
薬に頼らない独自の精神療法で、数多くのクライアントと対峙してきた精神科医の泉谷閑示氏。最新刊『「自分が嫌い」という病』は、昨今たくさんの人が悩んでいる「自分を好きになれない」「自分に自信が持てない」という問題に真正面から向き合った1冊です。親子関係のゆがみからロゴスなき人間の問題、愛と欲望の違いなどを紐解きながら、「自分を愛する」ことを取り戻す道筋を示しています。本書から抜粋してご紹介していきます。
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「いや」を禁じられて育つことの弊害とは
近年では親の教育熱がかなりエスカレートしていて、子どもたちは幼少時からたくさんの習い事や塾通いなどを強いられていることも少なくありません。
それが、たとえ無邪気に「やってみたい」と本人が言い出したものであっても、子どもですから、途中でイヤになって「やめたい」と言い出すことも決して珍しくないでしょう。これをやみくもに親が禁じてしまうことも、子どもが歪む大きな原因になります。
もちろん、「何でもすぐに放り出してしまう子になって欲しくない」という親の教育方針で、すぐにはやめさせないという考え方もあるでしょう。しかし、本当に向かないものを無理に続けさせてしまうと、いらぬ劣等感を植え付けてしまったり、かえってそれ自体が嫌いになる原因を作ってしまうことにもなりかねないので、見極めは慎重に行なわれなければなりません。
また、親の意向で誘導して始めさせてしまったものに関して、子どもが「やめたい」と言い出したとすれば、それはごく自然な反応だと言えるでしょう。なぜなら、それは「自分の意思を無視して押し付けられた」こと、つまり主体性を侵害されたことに対する正当な反発であるからです。
わが子に豊かな人間に育ってほしいという親の思いは理解できるとしても、結果的に子どもの主体性を奪ってしまったのでは本末転倒です。いかにスキルや学力を身につけたとしても、本人の中に主体性が育っていなければ、決して豊かな人生を送ることなどできはしないからです。
いずれにせよ、親の押し付けによって「やめたい」や「いや」を禁じられてしまうと、子どもは「いや」を言わないようになり、ついには「いや」を感じないように適応していきます。その結果、子どもが忍耐強く物事を行なえる人間に成長したかのように見えるかもしれません。しかし、このような適応の内実は、単に苦痛を感じないような麻痺が子どもの精神に生じたということなのです。
押し付けられたことを「いや」と思わないように精神的に麻痺した子どもは、自分という主体が育つどころかむしろ弱体化し、受動的人間になってしまいます。そして、自然な感情の働きや好奇心全体が麻痺してしまうのです。そして、自分の「いや」が親から否定され禁じられたことによって、「きっと自分の感じ方や考え方自体がおかしいのだろう」という自己不信が子どもの内部に形成されてしまうのです。
私の臨床経験からも、近年、「自分のしたいことが分からない」「何が好きか嫌いか分からない」という悩みを抱える若い世代の人たちが顕著に増えてきていると感じていますが、そういう人たちの成育史をうかがってみると、幼少期からぎっしりとさまざまな習い事や塾通いを強いられてきていることが多いようです。「いや」を禁じられたことによって、心が動かなくなり、もはや自分の気持ちというものがつかめなくなってしまっているのです。
人間は、反抗の行為によって進化を続けてきた。良心や信仰の名において権力者にあえて〈ノー〉と言った人びとがあったからこそ、人間の精神的発達がありえたのだが、そればかりでなく、人間の知的発達も、反抗の能力にかかっていた──新しい思想を抑圧しようとする当局者や、昔ながらの考え方を守り、変化をナンセンスときめつける権威者への反抗の能力に。
エーリッヒ・フロム『反抗と自由』佐野哲郎訳(紀伊國屋書店)より
このフロムの指摘にもあるように、人間の精神的発達には「いや」を言える反抗の経験が欠かせないものです。人間の成長過程において、通常は二度の反抗期があると言われていますが、私はこれが三度あると考えます。まずは2~3歳頃のイヤイヤ期、次に思春期のいわゆる反抗期、そして、これはあまり認識されていないことが多いのですが、成人してからある時期に乗り越えるべき「第三の反抗期」というものがあると私は考えています。
第一のイヤイヤ期は、初めての自我の表明であって、親が「食べなさい」と言っても「イヤ!」と言う。「じゃあ、食べなくていい!」と親が叱ると、これにも「イヤ!」と反発する。ヒステリックになった親が「じゃあ、どうしたいの!?」と言っても「イヤ!」と言って泣き出す始末。しかしこれは、子どもの「指図しないで」という意思表明なのです。つまり、食べるも食べないも、自分で決めたいということなのです。
次の思春期の反抗は、無邪気に信じてきた親や教師などの大人たちや社会に対して、本人が成長してきたがゆえに、その言動不一致や理不尽さなどが見えてきて、いわば裏切られたように思ってしまい、嚙みつきたくなることを指します。これは、やみくもに言われることを信じていた受動的状態からの脱皮であり成長の証なのです。
しかし、この思春期の反抗は、その後自分が社会に出ていくところで、社会適応のために頓挫します。社会に受け入れてもらうためには、ただナイフのように鋭い批判的な自分ではダメだと考えるようになるのです。これは、社会性の獲得という意味において欠かせないプロセスではあるのですが、しかしここで挫折した「自分」というものが、このままで終わるわけにはいかない──そういうくすぶった心の熾火を本格的に燃やすのが、大人になってから生ずる「第三の反抗期」です。
真の人生の幕開けとなる「第三の反抗期」とは
この「第三の反抗期」とは、受動的に産み落とされ、選ぶこともなく、ある成育環境の中で育てられ生きてこなければならなかった「受動的生」から独立して「能動的生」に抜け出すための実存的で深い闘いです。しかし実際には、多くの人たちはこれを経ることなく一生を終えるので、あまり語られることがなく、もっぱら宗教やスピリチュアルな文脈でしか触れられないものになっています。
この「第三の反抗期」を経た代表的人物としては、かのガウタマ・シッダールタ、つまり仏教の開祖である釈迦、そしてキリスト教の開祖となったイエス・キリストの二人を挙げることができるでしょう。いずれも歴史的な一次史料が残ってはいないので、彼らの生涯については、あくまで伝承として知ることができるに過ぎません。
しかし、両者ともに30歳前後に、それまでの安穏とした生を離脱し、人間の真実に目覚め、そこから宗教者として「第二の人生」を始めているという共通点があります。そして、解脱や覚醒と呼ばれている彼らのダイナミックな内的変革は、釈迦であれば出家から始まる苦行などの修行遍歴、イエスであれば洗礼の後の「荒野の誘惑」と言われる悪魔の試練を経ることによって生じています。これこそが、「第三の反抗期」において生ずる苦悩や闘いの内容を表しています。
これらあまりに偉大な宗教者の例を引いてしまうと、自分には関係のないことだと思ってしまうかもしれませんが、自分で選ぶことのできなかった「受動的生」から、本当の自分に目覚めて「能動的生」に抜け出ることは、「第三の反抗期」によって十分に実現可能なことであると私は考えています。もちろん簡単ではないし、適切なガイドも必要ではあるものの、内的な苦悩から始まる「内省」という一連の作業によって、このプロセスは宗教者でなくとも進み得るものなのです。
「自分が嫌い」という病

「自分嫌い」こそ不幸の最大の原因。「自分を好きになれない」と悩むすべての人に贈る、自身を持って生きられるヒントが詰まった1冊。