野球少年だった早見和真さん。

十四歳のとき、高橋由伸さん(現・読売ジャイアンツ監督)のバッティング練習を見て、「絶対にかなわない」と人生に絶望したといいます。

そんな早見さんが、人生を変えるきっかけになった一冊とは?

宗教とは、家族とは――。難しいテーマに挑んだ新刊『神さまたちのいた街で』の発売を記念して、小説家になるきっかけから今の思いまでをお聞きしました。


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小説家・早見和真。クールな語り口とは裏腹に、熱い男である。時代の先端を歩いているようでいながら、実は古風な男である。かつては甲子園出場を目指して白球を追った高校球児。体育会系とも言えるような過去を持ちながら、「言葉」と「物語」の力を信じて自分の人生を切り拓いてきたこの男が書く小説は、日本推理作家協会賞を受賞するなど評価が高い。そんな彼が、最新刊となる『神さまたちのいた街で』(四月二十日発売/小社刊)で向き合ったのは、「宗教」「家族」「自分の言葉」。この時代に宗教と対峙する意味とは? 家族のあるべき形とは? 自分の言葉はどうすれば獲得できる?

インタビュー・文:編集部

──野球少年だった早見さんは、十四歳の時に自分の人生に絶望したんですよね?

早見 高橋由伸さん(現・読売ジャイアンツ監督)を見てね。僕は子供の頃から野球をやっていて、幸いなことに結果も出ていて。で、当時はプロ野球選手になることが夢とかじゃなくて、決定事項だと思っていたんですよ。自信もあったし、「野球が自分を幸せにしてくれる」って本気で信じていた。そんな僕が桐蔭学園中学の二年生の時、高橋さんが高等部に入学してきたので、バッティング練習を見に行ったんです。

──やっぱりすごかった?

早見 一目見て「絶対にかなわない」って思いました。「こういう人がプロに行くんだ」ってはっきりとわかってしまったんです。その後、高三まで野球は続けましたけど、あの日から僕の中で野球がすべてではなくなりました。大げさかもしれないけど、野球しかなかった当時の僕にとってそれはまぎれもなく挫折だった。野球に裏切られた気分というか。

──でも、そういう経験があったからこそ、高校野球のリアルを描いたデビュー作『ひゃくはち』が書けたわけですよね?

早見 結果としてそうなりましたけど、紆余曲折ですよ。十四歳で絶望して十八歳で野球をやめた時は、「あ、俺、からっぽだ」って思いましたし。野球ばっかやってきたから、他にできることがなかった。「夢を持て」とかそういう言葉もすごく白々しく聞こえました。「言われて持てたら苦労しねえよ」って思いましたし。言葉に対して敏感な時期だったのですが、そうなるきっかけになった出来事が十七歳の時にあったんです。

──言葉に対して敏感になるきっかけ?

早見 僕を変えるきっかけとなった一冊の本と十七歳の時に出会ったんです。

──いわゆる「人生を変えた一冊」というやつですね。なんの本だったのですか?

早見 沢木耕太郎さんの『テロルの決算』です。とは言っても、当時はそれが自分にとっての「人生を変えた一冊」になるなんて思っていなかったんです。だから僕は、一冊の本がその人に及ぼす影響って、時を経て意味合いがはっきりしてくることがあると思っていて。十七歳の頃の僕は野球ばっかやっていて、ほとんど本を読んでいなかったのですが、ある日たまたま僕の好きな先輩が寮に遊びに来てて、本を読んでいたんですよ。野球選手が本を読んでいるのが新鮮で、何の本かを聞いたら、「早見、お前もいつまでも野球やっていられるわけじゃないんだから、本くらい読まなきゃダメだぞ」って言われて、その本を手渡されたんです。それが『テロルの決算』でした。十七歳でテロを決行した山口二矢の物語ですからね。同じ年齢の僕には突き刺さるわけです。借りたその日に読み始めて、一晩で読み終えました。

──小説家・早見和真の原点ですね。

早見 というのともちょっと違うんですけどね。『テロルの決算』は大傑作だし、一晩で読み切るほど夢中になったけど、自分が何かを書くなんていうことは想像もできなかった。ただ、「文章ってすげえな」って強く感動したんです。それまで文章に感動なんてしたことのなかった僕が、「文章って、人の気持ちをこんなふうに動かすものなんだ!」って。「自分も将来は文章を書く人間になりたいな」ってはっきり思ったことを今でも覚えています。

──甲子園を目指す高校球児が一冊の本を読んで「将来は文章を書く人間になりたいと思った」というのは強烈ですね。でも、文章を書く人間=小説家ではなかったんですか?

早見 当時の僕が置かれた環境で「文章を書く人間」って言ったら、新聞記者しかいなかったんですよ。

──桐蔭高校の野球部であれば新聞記者が取材に来ますもんね。

早見 彼らはやっぱりエースとか四番打者の話を聞きたがるんです。でも、エースとか四番打者っていうのは、野球の天才だから言葉で語る必要がないんです。体で表現できてしまうというか。記者たちがしきりに彼らから言葉を引き出そうとしてるのを見て、僕は「俺に聞きにくれば、彼らの考えを言葉にしてあげるのに」って思ってたんです。「使えないな」って(笑)。

──随分と生意気な高校生ですね(笑)。

早見 レギュラーではない自分は色々と考えながら野球をやっている。思考を言葉にすることもできる。エリートじゃないから、そうしないと生きていけないんです。それこそ「どうしたら打てるだろう」から始まって、「どうしたら監督の目に留まるだろう」とか「背番号をもらうためには自分の中の何を磨けばいいだろう」とか。そういう「補欠の目線」とか「補欠の思考」こそが自分の武器だと気付いたんです。「これがあれば、俺は大人たちに負けないんじゃないか」って思いました。確かに生意気ですよね(笑)。

 

「物語の力」を信じているからなんだと思います

──十七歳にして「文章を書く人間になりたい」と決意し、そして「補欠の目線こそ自分の武器である」と気付いたわけですね。

早見 そう。そして十八歳で野球をやめてから、濫読期が始まったんです。小説だろうとノンフィクションだろうと、マンガでも何でもいいから一日三冊読むことをノルマにして。難解で頭に入らない本があったとしても、そのうち読めるようになるだろうと信じて手当たり次第に読みまくりました。そういう日々の中で、僕は「言葉」と「物語」をどんどん吸収していった。本を通じて新しい価値観に触れて、新しい景色を見て、すごく良い時期でした。

──当たり前ですけど、やっぱり早見さんも「読む」ことから始めたんですね。

早見 そうですね。「書く人間になる」ことを目標にした時に、やっぱりたくさん読んでいたほうがいいよな、と思って。

──「読む」という行為は楽しかったですか? 苦しかったですか?

早見 楽しかったですね。ノルマっていうと堅苦しく感じるかもしれないけど、知らない本を読むこと自体が僕には刺激的で面白かったから全然苦しくはなかった。文芸作品を読むことの醍醐味って、他人の人生を追体験できることだと思うんです。読めば読むほど、たくさんの人生に触れることができるし、たくさんの感情を味わうことができるじゃないですか。僕には十八歳から数年間の濫読期がありましたが、いまだにあの時期の貯金は尽きていないという感覚がありますよ。あの頃に読んだ本って不思議とよく覚えている。

──それまでに「書いた文章を褒められた」とか、そういう経験はあったのですか?

早見 ないです(笑)。書いたものを褒められたこともないし、読書感想文とかもすごく嫌いだった。そんな僕が「文章を書く人間になりたい」ってはっきりと思ったんだから、不思議と言えば不思議ですよね。運命というと聞こえがいいかもしれないけど、高校野球をやっていた仲間たちと対等であり続けるには野球以外の何かで胸を張れるようにならないといけないっていうのはずっと思い続けていた気がします。卒業して何年か経って再会した時に、「あの頃はどうだった」ではなく「今こういうことをしている」で語り合える関係でいたかったというか。

──早見さんって実はストイックなんですよね。

早見 小説に対してだけですけどね(笑)。さっき「十四歳で絶望した」って言いましたけど、やっぱり野球に対して心のどこかで「もうちょっとやれたんじゃないか」って思っているところがあるんですよ。

──後悔ということですか?

早見 そうですね。そういう思いを二度としたくないから、「小説を書く」ということに対してだけは自分に厳しくなるし、真面目に取り組む。貪欲でもいられる。わざわざ難しいテーマに取り組もうとするのも、野球では残してしまった悔いを、小説には絶対に持ち込みたくないからなんだと思います。どの作品も「やれることは全部やった」と思える状態で本にしたい。

──新刊『神さまたちのいた街で』でも、難しいテーマに挑んでいますよね。この時代に「宗教」と向き合うなんて、早見さん、勇気あるなと思いました。

早見 今の時代って、「自分は正しい」とみんな信じ過ぎてると思うんです。僕は、それを一度否定しなきゃいけない時期に来てるんじゃないかなと感じていて。数年前から宗教が世界を騒がせていますけど、それも単純化すると「自分が正しい」のぶつかり合いじゃないですか。「他者」の声を聞く回路がないように感じるんです。「今」を取り巻くそういう状況を突き詰めて考えていったら、今回の作品になりました。

──そうか。宗教を取り巻く世界の状況を「家族」というサイズで再現したのが、『神さまたちのいた街で』なんですね。

早見 そうですね。僕はやっぱり「物語の力」を信じているんです。「宗教とはこういうものである」と大上段に構えることはしたくないんだけど、物語を通じてであれば、読者と問題意識を共有することができると思っているんです。宗教の話って何となくタブー視されているじゃないですか。それがそもそもおかしいと思うんですよ。現代社会で宗教を無視することなんてできないはずだし。人の心を救うはずの宗教が対立を生んでいる世界の現状、宗教によって苦しむ人が実際にいる社会の状況……そういう、本末転倒とも言える側面を書いてみようという思いがありました。

──主人公は十歳と八歳の兄妹。少年少女の目線で家族を捉えようとする野心作だとも思いました。しかも、彼らの父母は、それぞれ異なる宗教を信奉しているという厄介な状況で……。

早見 子供って経済力がないという点でいうと、「弱き存在」じゃないですか。でも、変な偏見がないぶん、「強き存在」でもあると思うんです。そんな彼らにとっての絶対の存在であるはずの「家族」の中に、宗教という別軸の「絶対」が持ち込まれたらどうなるか……それをやれたら小説として面白いものになるなというのは漠然と思っていました。

──早見作品にとって「家族」は大きなテーマですよね。

早見 そうですね。特に「父親」なのかもしれないですけど。家族って「血の繋がり」とかそういうので語られがちじゃないですか。もちろんそれはそれで大きな要素だと思うんですけど、僕は「共有した時間の積み重ね」が家族の絆を強めていくと考えています。なので、主人公の征人が一人で頑張るのではなく、大きな問題に「家族」で向き合っていく構図にもしたいなと思っていました。書き上げるのはすごく大変そうだけど、主人公の少年が苦しさの中で成長していくというイメージは書く前から明確にありました。まぁ、予想通りというか苦労しまして、連載終了から書籍にするまでに三年もかかってしまいましたけど。

──なぜ、連載終了後すぐに本にしなかったのですか?

早見 連載時のゲラを読んだ時に、主人公の征人が自分の意思で自分の人生を選択しきれていないように感じたんです。もちろん、連載時にも全力を尽くしてはいるのですが、少し時間をおいて読み返してみたら、「これは最終形ではない。まだできることがあるはず」と感じてしまって。もちろん、「子供だから」とかそういう安易な方向に逃げたくはなかった。安っぽいバッドエンドも、白々しいハッピーエンドも描きたくなかった。大好きな両親がそれぞれ違う宗教を信奉しているという難しい状況で、それこそ安心の象徴としての家族が崩壊していくような状況で、十歳の少年が思い描く「こうであってほしい未来」ってなんだろう? ということをもう一度最初から考え直したんです。そうしたら、ほとんど全部書き直しって言ってもいいくらいに改稿する羽目になりました(苦笑)。

──そういう過程を経て、あのラストシーンに至ったんですね。読後の余韻が深まる美しいエンディングだと思いました。

早見 あれが書けた時に、「この小説を通じて読者と対話できる」って思いました。僕、本を読んでもらうことって読者と対話することだと思っていて。対話するためには自分の問題意識とか考えとかを提示しないといけないじゃないですか。それを提示したうえで、読者が自分の言葉でこの物語を捉えてくれるのであれば、たとえそれが批判であっても構わないと思っているんです。もちろん、賞賛のほうが嬉しいですけど(笑)。

(後編に続く)

※このインタビューは、小説幻冬5月号に掲載されたものです。

                  ★★★

●『神さまたちのいた街で』あらすじ

「ぼくだけはしっかりしていなければ」
父が交通事故に巻き込まれたことをきっかけに、
父と母は違う神さまを信じはじめ、ぼくの家族には“当たり前”がなくなった。
ぼくは担任の先生に助けを求めたが、どうやら先生にも自分の正義があるらしい。
大人たちが信じられなくなったいま、ぼくの「正しい」の基準は、親友の龍之介だけ。
妹のミッコを守ることでなんとか心のバランスを取りながら、ぼくは自分の武器を探すことにした。
いつか、後悔だからけの大人にならないために――。

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