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2015.01.22

『雨に泣いてる』刊行直前! 真山仁氏のロング・メッセージ(インタビュー)を公開

『雨に泣いてる』刊行直前! 真山仁氏のロング・メッセージ(インタビュー)を公開

新作小説『雨に泣いてる』の発売前に真山仁氏のロング・メッセージ(インタビュー)を公開します。

――まずは新作を待っていたファンの方々に今回の作品を紹介していただけますか?

『雨に泣いてる』1月29日発売

 本作『雨に泣いてる』は、約8年ぶりの書き下ろし小説です。
 テーマは、「人はなぜ過ちを犯すのか」。
 人にはいろいろな種類の過ちがあります。犯罪という過ちだけでなく、あの時こうすれば良かったという“後悔”もその一種です。
 時にその過ちが命に関わることもありますし、多くの人の運命を変える可能性もあるでしょう。そのような過ちは、私たちが生きている中にはたくさん存在します。
 今回の作品では、一人の新聞記者――事件記者としての自負があります――を主人公に据え、舞台は東日本大震災が起きた直後の被災地です。人の営みがことごとく破壊され尽くした発災直後の被災地で、常に難しい選択を強いられながら前に進んでいかなければならない状況のなか、主人公は“悲劇”を被災者から訊き出していきます。
 

――今回の作品も『そして、星の輝く夜がくる』と同様に、被災地を舞台にされていますね。

 被災地を描くことには、理由があります。
 新しい事件や災害は次々に起こりますから、時間が経てば経つほどマスコミが報道しなくなることは、仕方ないことですし、当たり前のことです。
 ただ小説は違います。小説はニュースである必要は決してありません。
 何年も前に刊行された本であっても、読者の方が手にとってページをめくってくれたその瞬間に、その小説は読者にとって“新しい物語”になります。
 だからこそ、時が流れても忘れてはいけないことを刻むことが、小説には可能なのだと思います。
 その意味からも、マスコミが被災地を語らなくなった時こそ、小説で被災地を描くのが重要なのです。

『そして、星の輝く夜がくる』は、被災地の小学校を舞台に設定し、そこに通う小学生と周りの大人たち、そして阪神・淡路大震災を経験した先生を登場させることで、被災者は何に苦しみ、どうやってそれを乗り越えようとしているのかを描こうとしました。
 また、読み方によっては、マスコミ批判ととられるような箇所もあります。しかし、あの作品で最も訴えたかったのは、もっとしっかり被災地と被災者について関心を持ってほしいということでした。
 『雨に泣いてる』は、まず被災地に入った記者の姿を描きたいという思いがありました。
 あの場所でメディアの人間がどれほど葛藤し、苦しみ、それでも報道を続けていたのか、その姿をきちんと伝えたい、という思いが最初にあり、それがこの作品に私を向かわせたきっかけでもあったのです。

 さらに、東日本大震災のマスコミ報道で気になっていたことも描こうと思いました。
 何が気になっていたかというと、それは報道が〝死を消している〟ということです。
 あれほどの大災害が起き、2万人以上の死者・行方不明者がいるにもかかわらず、数字だけが積み重ねられるような報道では、結果として本物の死が遠ざけられているのではないか、と感じていたのです。
 たとえば、ほとんどのマスコミは遺体の写真を報じませんでした。遺体の写真を報じたのは、一部の週刊誌と外国人カメラマンによるものだけだったと思います。それもこの1,2年で出始めたくらいではないでしょうか。
 この風潮は、最近の日本が、死や貧しさ、惨さ、醜さを隠す社会を当たり前のように作っていることの表れではないかと、私は危惧しています。
 その傾向は震災時にもあって、その結果、死を真正面からきちんと見つめていないのではないか。そして、それでは震災の被害や本当の悲しみは、伝わらないんじゃないか、という思いが常々ありました。
 そこで実際に被災地を取材した記者の方々に、私が抱いてきた疑問をぶつけてみました。「なぜ遺体に目を向けなかったのか?」と何人にも聞いてみたのです。
 何より最初に聞いたのは、「遺体の写真は撮ったのか?」ということでした。
 そうすると、ほとんどの人が撮っていないことが分かりました。その理由を聞いてみると、正直な方は、「恐くて撮れなかった」と言い、ほかの方は、「死体は語らないから」とか「生き残った人こそが我々が取材する対象なので」と言いました。
 それでも、ベトナム戦争の報道や、現在でもガザ地区を報道する際には子どもの遺体写真を世界のジャーナリズムは報道します。それをどう思うかを訊ねると、「あれは戦争だから」という答え。
 しかし、戦争で罪のない無辜の人々が死んだことを見せる報道の意味と、その災害がどういうものだったのかを知るための“死の報道”が持つ役割は、変わらないはずです。そもそも、撮影した遺体を実際に掲載するかどうかを記者は判断すべきではない。彼らはそこにある全てを“記録する”ためにいる人です。
 それを世界のジャーナリズムは分かっているので、災害でも遺体を撮って報じているのだと思います。
 そのスタンスが、日本のマスコミにはなさ過ぎる、という思いがどうしても拭いきれません。ビジュアルも、音も、臭いも、いわば漂白して報道しているような気がしてならないのです。
 現場で遺体を撮影しなかった記者だけでなく、取材の指示を出していたサイドでも自主規制があったようです。
 多くのマスコミ関係者が言うには、少しでも遺体の存在が見えていたら、もしくは遺体の存在を感じてしまえば、その写真も映像もボツになるそうです。
 たとえば、津波に追いかけられる車の映像を頭上のヘリから撮っていても、その車が呑み込まれる瞬間になったら絶対にアップにしてはいけない。人が乗っているからです。つまりこれから人が死ぬところを映しているのがいけないという判断です。その鉄則は新人のカメラマンでもたたき込まれていました。
 これは亡くなった方への敬意という配慮なのかも知れませんが、本当に敬意があるのであれば、どうやって亡くなったのか映すべきだと私は思います。
 亡くなった方への敬意とは、目を逸らしたり隠すことではなく、見て感じる、伝えることで表すものではないでしょうか。
 それが抜け落ちていると感じていました。 
できるだけタブーを作らずに小説を書いてきた私のスタンスからしても、見渡す限り瓦礫の山と臭いと遺体がある震災の現場に入っていく記者たちが、何を見て、何を感じたのか、どう行動したのかを克明に伝えなければならない、という思いがありました。
 しかしながら、そう思い至ったと同時に、その表現は読者にとって荷が重すぎるかも知れないという危惧もありました。
 過度な負担とならないように、読み物として配慮したつもりです。
 一方で、初めにお伝えしたように「人はなぜ過ちを犯すのか」ということも大きなテーマです。
 津波による被害が甚大だった東日本大震災の場合の「過ち」として最大のものは、“どこに逃げれば良かったのか”ということでしょう。別の行動を選べばよかったという判断の過ちです。安全な場所に逃げていたのに、仏壇の中にある位牌を取りに戻ったために亡くなった方。 
 お祖母ちゃんを捜しに戻って、結果的にお祖母ちゃんは避難できていたのに、孫が命を落としてしまったケースもあります。 
 災害時の判断の「過ち」は死が絡んでくるので、重大な意味と大きな重みにつながります。
 さらに、死者二万人という数字の大きさではなく、一人の死を突き詰めていったなかで見えてくるものを描き、死の意味についても考えてもらいたい。
 

――『そして、星の輝く夜がくる』の主人公の教師も、今回の主人公も阪神・淡路大震災を経験していますね。

 私自身、95年の阪神・淡路大震災で被災しました。
小説家を目指しながらもまだデビューできていない時期でしたから、地震で揺れているときに、天井が落ちて来ないかベッドから見上げながら、「ああ、これで小説家になれずに死ぬんだ」と悲しく思っていたことをよく覚えています。
 でも、無事でした。
 当時、住んでいたのは7階建てのマンションの1階でした。阪神・淡路大震災は、東日本大震災の場合と違って、活断層が激しく揺れた直下型の地震だったので、活断層の上にいるかどうかが生死の境になっていたのです。我が家の場所は、震源地に近かったにもかかわらず、活断層が淡路島の方面である東側にずれていたので、7階建てのマンションの1階に住んでいたにもかかわらず、奇跡的に植木鉢1個が割れた程度の被害で済んだのです。
 とはいえ、地震直後はライフラインが止まっていましたので、水や食べ物の確保などで手いっぱいでした。でも少し経ち、精神的に落ち着いてきたときにテレビの報道などを見ていると、「なぜ自分が生き残ったのだろう」と思い始めたんです。
 震源地からもっと離れた三宮や西宮など多くの場所で、我が家の周辺よりも甚大な被害が出ている。それを見ていると、このような結果が出た境界線はどこにあるんだろうとも思いました。
 これは東日本大震災にも言えることですが、被災者の生死の境は必ずしも規則的ではないんです。
 だからこそ、被災者の方の中には、生き残ってしまった〝後ろめたさ〟を感じていらっしゃる方が非常に多いようです。私自身もそうでしたから、そのお気持ちはよく分かります。
 私もずっと後ろめたくて、「そんな後ろめたさは感じなくてもいいのでは」と言ってくださる方もいましたが、「なんで生き残ったんだろう」「なんでこんな状況になっているんだろう」と思って、たまらなかったくらいでした。
 それでも、こう思うようにしたのです。神様が小説家として生きるチャンスをくれたのだ、と。
 それからもフリーライターとして仕事をしながらずっと小説家を目指し、阪神・淡路大震災から約10年後に小説家としてデビューできました。その10年間、私の中にあったのは、「生き残ったんだから小説家になれよな、お前」という自分自身への叱咤に近い思いです。


――最後に読者の皆さまにメッセージを。

 ふと自分の人生を考えた時、過去の行動や判断に過ちがあったと、全く思わない人はいないのではないでしょうか。中には「なんで自分が生きているんだろう」とか「なぜ、私はいつも間違った選択をしてしまうのだろう」と、過ちを犯したことに取りつかれている人もいます。
 過ちを犯すことは人間にとって当たり前のことですし、選択をし続けていくことが人生です。
 私は、ライターから小説家に転身したので、「ライターを続けていたらどんな人生でしたか」という質問を受けることがあります。2つの人生を生きていないので比べること自体はできませんし、私は今の人生が幸せなのでもう一つの人生が幸せだったかどうかは考えたくありません。
 人生の選択には過ちはないのです。なぜなら、2つの人生を生きられないからです。
 もし過ちだったと感じるのであれば、それは大切なものを失うからです。誰かを、あるいは自分の何かを失ったから。
 では過ちを犯さないようにするにはどうしたらいいのか。それは、今を一生懸命に生きる、それしかないと思います。
 『雨に泣いてる』は、今生きていることが息苦しいと感じたり、悩んでいる人には是非読んでいただきたい。壮絶な物語ですが、主人公は懸命に生きています。葛藤や失望、苛立ち、安堵など極限状態の中での感情や選択を体感していただきたい。
 そうすれば、あなたの人生に対する否定が肯定に変わるかも知れません。
 そしてあなたがあなたの人生から逃げることなく、懸命に生きる一助になれば、と願っています。

 

『雨に泣いてる』特設サイトはこちら

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