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2010.05.15

第五十二回

「ママと煙草と男と女」の巻

堀越 英美

「ママと煙草と男と女」の巻

 昨年末、愛煙家という設定のおじいちゃんのが子どもたちにパイプの煙を吹きかけている姿が繰り返し描かれているというので、児童向け月刊誌の販売が中止された件がネットを賑わせた。発端は、購読者である小児科医によるクレーム。フィクションの喫煙にまでケチをつけるとはあまりにも過剰反応ではないかと、ちょっとした騒ぎになったものである。当然、件の小児科医のブログは炎上。無理もない。もしも私が“社会の木鐸ジャンジャカ鳴らし隊”だったら、こう言うだろう。子どもを守るというお題目のもとに煙草を嗜むというささやかな大人の権利を奪うばかりか、表現の自由まで侵すとはいかがなものか。

 まったくですよねえ。ただ、こうも思うのである。食事中の子供達に向かって煙草を吹かしているのが妊婦だったら。あるいは母親だったら。不適切であるとして回収されても、さほど批判は浴びないような気がするのだ。というかそもそも、そんなシーンを不用意に描く絵本作家は存在しないんじゃないか。それぐらい、「母親」という存在と煙草は切り離されている。アニメ『サザエさん』のフネを演じている大正生まれの声優・麻生美代子さんはヘビースモーカーらしいが、フネが煙草を吸っている姿はちょっと想像がつかない。煙草を吸う母親がフィクションに絶無というわけではないものの、たいてい夜の仕事をしているとかヤンキー上がりとかネグレクト気味のキャリアウーマンとか、“カタギのお母さんじゃありませんよ”という記号としての煙草だ。煙草を吸うカタギのお母さんを描けない以上、すでに表現の自由なんかない、というのは言い過ぎだろうか。

 もちろん、妊娠中の喫煙は早産や低出生体重、乳幼児突然死症候群のリスクを高めるのは、よく知られた事実である。私は妊娠報告時に1冊の禁煙パンフレットを手渡されたが、両親共に喫煙者の家庭では子どもの肺炎・気管支炎罹患率もはね上がるとあり、母親本人のみならず同居の家族の禁煙も求められているようだった。自治体によっては、CGアニメの胎児や乳児が「ニコチンが苦しいよ~」と訴える受動喫煙防止啓発用DVDを見せるところもあるらしい。

 ところで私が20歳になる頃まで、女が人前で煙草を吸うこと自体、一種のタブーだったと記憶している。とあるパーティで女子トイレに入ったとたん、男たちの副流煙を吸い込みながら笑顔を作っていた女たちが一斉にしかめ面で煙草を吹かす姿を見て面食らったことがある。思えばビルとビルの隙間で事務服を着たOLがウンコ座りしてこっそり煙草を吸っている姿も、自由律俳句に仕立てたくなるくらい侘びしい風景だった。昔のサラリーマン映画を観ると男性社員はそろってスパスパやっているが、女性社員は誰も吸っていない。昔の会社は喫煙天国だったというが、それは男性社員だけの話と見える。今でも当時の名残なのか、喫煙禁止の張り紙が貼られている女子トイレは多い。嗜好品を享受する場としてわざわざトイレを選ぶ人はいないだろうから、カタギ女性の喫煙を目の敵にする男性がそれだけ多かったということなのだろう。嫌煙ファシズムが進んだ近未来を舞台に、トイレでこっそり煙草を吸った男を襲う悲喜劇を描いたフランスの小説『幼女と煙草』(ブノワ・デュトゥールトゥル)を最近読んだが、そのディストピア、日本の喫煙女性たちがすでに通った道だよ、と思ったものだ。

 女と煙草、で思い出すのが、1983年に人気絶頂の3人組アイドルの1人が寝たばこ写真を写真週刊誌に掲載されて脱退を余儀なくされた「ニャンニャン事件」。「なんだよニャンニャンて…」と脱力する小学生の私をよそに、大の大人たちが大騒ぎしていたことを覚えている。ハメ撮りしていたわけでもなく、ただベッドで煙草を吸う姿が不純異性交遊を感じさせる、というのが大々的にスキャンダル報道された理由。彼女は主演予定の映画から降ろされ、何度か復帰に挑戦したものの鳴かず飛ばずのまま芸能界から消えていった。さらに1985年には、ブレイク前夜のおニャン子クラブ初期メンバー5人が、週刊誌に喫煙写真を隠し撮りされたことがきっかけで解雇される事件も起きている。確かに未成年者の喫煙は法律で禁じられているが、男性アイドルだったら同様の事態となったかどうか。探してみたが、某男性アイドルが中学1年生のときに喫煙写真をフライデーされたという記事が見つかったものの、現在の彼はそんな過去などなかったかのように押しも押されぬアイドル俳優である。

 この喫煙の扱いの男女格差を、単なる男尊女卑、と片付ければ簡単だ。実際、女性の地位が向上するにつれて女性の喫煙率が上がり、男性の喫煙率が下がっている。2007年のOECD諸国の男女別喫煙率を見ると、男女平等のイメージがあるノルウェーの喫煙率は男女ともに24%。スウェーデンはなんと、女性のほうが喫煙率が高い(男性13.9%、女性18%)。喫煙率の男女格差が大きいのは、韓国と日本(韓国男性46.6%、女性4.6%、日本男性41.3%、女性12.4%)。ああ、なるほどねえ、という数字だ。

 しかし性別年齢別喫煙率の推移を見ると、この推論は裏切られる。1965年の20代~50代男性の喫煙率はいずれも80%以上。病人以外全員吸っていたんじゃないかという驚異的な喫煙率だ。一方、20代女性の喫煙率は6.6%とすこぶる低い。しかし戦前に成人を迎えた世代である50代、60歳以上は23.0%と、むしろ昔の女性のほうが喫煙率が高いのだ。そういえば昔、親戚の集まりがあると母の世代は誰も煙草を吸っていないのに、祖母を含め何人かの老女は男たちとともに煙草を吹かせていた。選挙権もなかった戦前生まれの女性は、こと煙草においては現代のノルウェー女性並みの権利を獲得していたようだ。

 当連載で取りあげた鳩山首相の曾祖母、鳩山春子の自伝で印象深かった記述がある。結婚後に煙草を覚えたことで、煙草のみの姑と打ち解けられるようになったというエピソードだ。春子は厳格な武士の家庭で生まれ育ち、教育書をものすような真面目女性、その姑も武士の妻。そんなカタギ母さんが喫煙癖で庶民に親しみをもたれ、選挙応援活動がやりやすくなったというのも面白い。麻生元首相のマンガ好き、に近いニュアンスだったのかも。明治時代に禁酒運動で活動した東京キリスト教婦人矯風会初代会長の矢嶋楫子も、ぼや騒ぎを起こすまではヘビースモーカーだったらしい。そういえば江戸時代の浮世絵なんて、煙管をくわえた女性がたんまり出てくるではないか。

 女の煙草が本格的にタブー視されたのは、やはり戦争がきっかけなのだろうか。しかし1937年初出の宮本百合子「祭日ならざる日々 ――日本女性の覚悟――」には、「酒、煙草、絹を遠慮無く使えって、戦時下で節約中の主婦に言われても困る!」といった主旨でお上を批判する一文がある。軍部はむしろ、煙草を積極的に消費してもらいたがっていたようだ。そうこうしているうちに戦争の激化で煙草も配給制となり、男も女も自由には吸えない時代に。となると、戦争はあまり関係ない?

 それで思い出したのが、1989年に刊行された色川武大の遺稿集『ばれてもともと』の一節だ。

 近頃、もっとも不愉快なのは、嫌煙権をふりまわす連中のことだ。四人家族で、そのうち三人までが煙草を吸わないから、一人のために三人が迷惑することはない、家計の無駄だ、そういって所帯主の喫煙を禁じたという家庭の話をきいた。女房は、これでせいせいしたといい、息子はその分を自分の小遣いに廻して貰うと喜び、所帯主は、家庭の幸福のためになんとかがんばってみると誓っているらしい。
(略)
 こういう女子供の発想がだんだん世の中を仕切るようになって、勇ましい生き方、大きな生き方、誇らしい生き方というものが、失われていく。人生というものが女子供のものになりつつある。ただ糞をたれて長生きするだけだ。そうして、ただおとなしい生き方を良識として後押しする権力者が居るから始末がわるい。
 昔は男というものは、戦争で死ぬものだった。その戦争がなくなっているから、男の生き方というものが、徳川三百年の間の浪人のようなもので宙に浮いている。病気にならず、事故を避けていれば、皆、永遠に生きられるかのような錯覚におちいっている。


 なんとなく見えてきた。色川武大は中学在学中に終戦を迎えた人だ。煙草は、敗戦で損なわれた「男らしさ」を回復するアイテムだったんじゃないか。健全な小国民を育成するという大義名分のもと子供を殴りつけていた大人たちが一転、自信なげに米兵にペコペコしだす。一方で、映画館に行けばたくましいハリウッド俳優たちがさっそうと煙草を吹かしている(当時、煙草産業は宣伝費としてゲイリー・クーパーらハリウッド俳優、および映画会社に大金を支払い、煙草=男らしさを印象づけるイメージ演出をしていたらしい)。不健康で不道徳、死をも厭わない男らしさ。健全さばかりを押しつけてきた大人への反抗心や、宙に浮いた「戦争で死ぬ男の美学への憧れ」を表現するのにこれほどうってつけのアイテムはない。当時の男性たちの「男らしさ」への執着がどれほどすごかったか。井上ひさし、野坂昭如、石原慎太郎ら小中学生時に終戦を迎えた文筆家の古い小説やエッセイを読めばわかる。男が女に比べて優れた性であることを繰り返し強調していて、差別に怒るよりもその必死さにびっくりするほどだ。

 愛煙家が語る煙草エッセイもすごい。「緩慢な自殺」とか「悪との共存」とか、単なる嗜好品とは思えない仰々しさだ。おやつ中毒者の私が、「私がおまんじゅうを食べ続けるのは…そうですね、糖尿病になってもいい、というタナトス願望を小出しにする手段かな」「おやつを食べ過ぎたらメタボになるという後ろめたさ、これこそが言語によって反社会的価値を生みだす原動力になっているんです」「電車の中でカレーまんを食べるなかれという社会を憂える。嫌カレーまん者は他者をカレーまんの臭いをまき散らすだけの存在として抽象化しているのではないか。カレーまんの臭いという悪と共存できない不寛容さが現代社会を覆っている」「じゃがりこを食べる快楽とは、ブランショ的な無為の時間を作り出すことなのだ。じゃがりこは、いわば細分化され管理される日常生活に穴を穿つ非-行為なのである」などと語っても、誰も見向きもしてくれまい。いつの間にか煙草は大変な文脈を背負わされていたのである。そりゃ少女アイドルがエロスだかタナトスだか反社会的悪だかを吸い込んでたら世間はびっくりですわ。誰でも吸える煙草を男らしさの象徴に仕立てるためには、女に吸ってもらっては困るのだろう。私が若い頃よく聞いたのは、こんな理屈だった。「自分が煙草を吸っていても、彼女には吸ってほしくない。これは男女差別じゃなくて区別だよ。だって女の人には子どもを生み育てる大事な役割があるんだから」。

 ここでもやはり、「子ども」なのだった。夫婦別姓反対の人も、働く母親を批判したい人も、ブログで自己主張する専業主婦を好ましく思わない人も、皆さんおっしゃる。「子どもがかわいそう」と。私なんかはつい「生意気な女が嫌いってストレートに言えばいいのに」と思うのだが、「子どもがかわいそう」は今だに猛威をふるっている。「いたいけな子ども」を盾に差別対象を加害者に仕立て上げ、自分は差別主義者のそしりを免れるどころか同情心の深い善人として振る舞えるのだから、便利な言葉である。

 でも、どうなんだろうか。そうやって「いたいけな子ども」「清純な少女」「自己犠牲的な聖母」とかいう幻想をどんどん神様みたいに祭り上げて他人の自由を縛っていたら、その鎖はいずれ自分にも絡みつくと思うのだけど。現に厚生労働省が2月に出した通知の影響で飲食店や公共施設が全面禁煙になりつつあるし、子どもの健全育成のためにまかりならんとアニメやマンガの性表現規制が実際に検討されている。「食育なんて母親が努力すればいい話だろ?子どものために頑張れ頑張れ」なんてノンキに構えていたら、誰しもが不健康な生活をしただけで「不用意に医療費を膨張させて未来の子供達に迷惑をかけた」罪でしょっ引かれるような時代がやってくるかもしれない。そのときになってファシズムを言い立てても、遅いと思うんだけどなあ。 

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