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2012.06.15

その79

パパ食あたりでダウン

望月 昭/細川 貂々

パパ食あたりでダウン

 ちょっと前に「じつはねえ」を多用し、「まさに」に変化していた息子の口癖だが、それが収まってきたと思ったら「いかにも」というコトバを使っていた。なんとなく聞き流してしまうが、内容の幼稚さに比べて立派な形容なので、微笑ましい。
「ちーとくんの、タオル、いかにも、よごれたんです」
「さようか」
 そんなふうに応対してしまうぞ。
 前回は、息子を強引に佐伯祐三展に連れて行ったというお話をした。この展覧会はいたれり尽くせりで、主催者から別の展覧会(京都駅伊勢丹7階の「美術館えきKYOTO」での「リスベート・ツヴェルガー絵本原画展」)の招待券二枚をいただいてしまったのである。
 「絵に興味を覚えたらママと行ってね」という主旨で用意された券かもわからないが、僕らは「コドモに邪魔されず大人だけでリターンマッチ」というふうに捉え、期間が開催される6月を楽しみに待つことになった。
 いよいよ6月になったので、息子の幼稚園の長い日を選び、僕と相棒だけで京都に向かう。息子抜きではあるが、ヤツの影響で二人とも鉄道に詳しくなっているので、宝塚から阪急で大山崎まで行って、JR山崎まで歩いて乗り換えたりする。烏丸から地下鉄で京都駅に向かうより少し安くなる。えっ? 宝塚駅から京都駅までJRで行けばいいじゃないかって? それをすると山崎経由の路線を使った場合の、ほぼ二倍の運賃がかかってしまう。
 まあ、そんなふうに大山崎で歩いたりしながら、リスベート・ツヴェルガーさんの絵を鑑に行った。リスベート・ツヴェルガーさんは僕が絵を勉強していた頃には「リスベス・ツヴェルガー」として日本国内に紹介されていたのだが、読み方が変わったのかな。ともかく細かい絵を描く人という印象だったが、原画を見たらもっと細かかったので唖然とした。展覧会の会場も空いていて、じっくり絵を鑑ることができたが、ちと疲れた。

 問題は、絵の鑑賞その後。帰ってきて、息子を幼稚園から連れ戻したのだが、夜になるつれどうも腹の調子がおかしい。京都ではいろいろな種類のものを食べたのだが、その中に問題があるものが含まれていたのかもしれない。相棒はなんともない。もちろん僕が弁当を持たせた息子も問題ない。寝る間際になって、どんどんひどくなる。腹が張っている感じ、それから下痢。吐き気。京都の何かに当たったのか? それとも息子にもらった絵画展のチケットを大人だけで堪能したバチでも当たったのか?
 その日の夜半には、僕はノロウィルス症に何度か感染した経験から「これは食中毒だろう」と確信した。熱を測ってみると38℃ある。とはいえ、劇症という感じでもなく、吐き気があっても吐かなかったし、ノロウィルスのときのようには逼迫はしなかった。とはいえ……。
「弱ったなあ、たいへんなことになっちゃったなあ」
 僕は弱音を吐いた。実は次の日から三日間、僕の両親が宝塚に来る予定になっていたのである。あまり大したもてなしはできないが、それなりにどこで外食をして、歌劇も見せてと歓迎のプランを考えていたのである。食中毒になると、たぶんそういうのが全部ダメかもしれない。
 何度目かのトイレ巡業から戻ると、相棒が目を覚ました様子だったので相談してみた。
「食中毒になってしまったみたいなんだ」
「ええっ、またあ?」
 相棒はなんだか寝ぼけた言い草をした。この前食中毒になったのは、震災の一カ月前だ。いや、あれも修繕工事の最中で大変なことになってしまったんだが。
 相棒は「そういえば私もちょっと調子がおかしい」とか「いつもなんだか困ったときにそうなんだから」とかムスムス言ってまた寝てしまった。僕も、とりあえず翌日になってから考えようと思って寝ることにした。しかし、腹痛と三十分おきのトイレ通いは朝まで続いた。非常事態なのには間違いなかった。

 翌朝、息子と相棒は元気そうに起きてきた。もっとも、息子は三カ月ぶりのオネショをしたのだが、これは前の日の晩にバーバとの電話がずいぶん盛り上がってしまい、夜中に寝ぼけて「バーバもういるの?」などと起き上がったりしていたせいかもしれない。
 相棒は「どいつもこいつもどいつもこいつも」と言いながら、それでもテキパキと一人でオネショの処理をし、息子を着替えさせて朝食を食べさせて幼稚園に連れていった。
 僕は両親に携帯電話でメールを打った。宿泊場所は確保してあるし、大まかな予定は相棒と共有しているので問題はないが、僕のほうの状況がピンチになったことを伝えたのだ。
 母親から来たメールには、大丈夫、父と二人でうまくできるから、心配しないで養生しなさいという文面があり、末尾にチクリと「あなたはいつもコドモの頃からそういう子でしたね」と書いてあった。
「そ、そうだったのか?」
 確かに僕がコドモの頃、楽しみにしていた遠足に熱を出すとか、クリスマス会の日の前日にケガをするとか、そういうことは数回あったと思う。相棒と結婚してからも、何かとそんなようなことが、他の人に比べると頻度は多いかもしれない。しかし「いつも」と言われてしまうと、それは違うような気がする。気はするのだが、今まさにそういう状態なので、きっと僕は自分の楽しみなときに挫折するし、イザというときにはダメな男なんだろう、とかなんとか漠然と考えた。
 とはいえ、食中毒でのダウンというのはそういうクヨクヨした気持ち以前に、あまりにも切迫、逼迫、迫力のある困難が自分を襲っている。熱があってグッタリしているが、30分ごとにトイレに行く。脱水状態になるとよろしくないという話なので、少しずつ水を飲む。そのせいか、延々とトイレ通いが続いてしまうのである。そして、そのうちにお尻がハタンする。故障した水洗式便座を使わないからと放置していることを後悔するが、後の祭りだ。

 僕がそんな個人的かつ内面的、いや内臓的な闘いを続けている間に、僕の両親が宝塚に到着した。七十を越す老夫婦。父はパーキンソン症候群を抱えているが、自力歩行が可能ではある。母は体重が超過気味で、それゆえ年数週間、自力歩行が不可能になったりすることもあるが(先日相棒がやったようなことをやるのだ)今はまったく問題なし。父が航空関係の仕事をしていたせいで、現役時代にはほとんど乗ったことのない新幹線でやってきた。なかなか嬉しそうだった。新幹線と聞くと、幼稚園から帰ってきたばかりの息子も大喜びだ。
「じーじ、ばーば、しんかんせん、なにけいに、のってきた?」
「えーとなぁ。700系のぞみ。はやいんだぞ、びゅーん」
「ちーとに言われるから、ちゃんと確認してきたのよ。東京発新大阪行き、のぞみ203号」
 なんか会話になっております。
「ななひゃっけいと、えぬななひゃっけいは、いかにも、ちがうんやね」
「横に書いてある字の色が違うのよね」
 じーじとばーばも孫の影響を受けて世界が違って見えてきているようだ。
 とりあえず初日は、ダウンしている僕を除いて四人で食事に行ってもらったりした。

 翌日も僕の状況は良くならなかった。もっとも吐き気は収まったし、熱も少しは下がった。ただトイレ通いはあいかわらずだ。そして続けて眠れないので、モーローとしてくる。まとめて眠れないのは息子が生まれたばかりの授乳のときみたいだ、なんて思ったりもしたが、自分の体の内側に起こされるので、その点に関してはつらくはない。ノロウィルスのときもこんなだっただろうか? 一日に三十回以上トイレ篭り。お尻のヒリヒリ状況は完全に破綻し、たびたびシャワーを使って軟膏などを塗りつつ耐える。布団に戻って尻の痛みに10分ほど耐え、それが収まる頃になるとまた腹が痛み出す。腹の痛みに耐えていると、それがだんだん、出したいという感触に変わってくる。もうダメだ、とトイレに立つところで30〜40分。
 そんな状況なので、息子の幼稚園の弁当作りも不可能になった。料理をほとんどしない相棒が息子の弁当を作ることになって、どうなることかと思ったが、息子まで相棒と一緒に早起きし、二人で台所にこもって楽しそうにやりとりしながら作り上げたようだ。
「キッチン、たのしいよ。ハハまたいっしょにキッチンやろうよ」
 と息子が言っている。なんだか幼稚園の方針には沿わない「ひとりで食べられないもの」も入れてしまったようだが、なんとかなるだろう。

 そして、その日の昼間の予定。両親と一緒に星組の歌劇を観劇する計画も僕が不参加になった。息子はこの日は午後三時まで幼稚園なので、相棒に両親を託して、歌劇を見に行ってもらう。後半のレビューはシャンソンを替え歌にして使っていたので、シャンソンも好きな僕の父親にはそこそこ受けるだろう、と期待して送り出す。

 歌劇の観劇から戻ってきた両親の感想は、母のそれは「……私は若いときから宝塚歌劇がダメだったのよ」というものだった。母は京都の高校に通う女子高生だったので、クラスメイトに連れられて寿美花代さんの出演する舞台になんどか付き合ったのだそうである。そして、何度もウンザリしたというのだが「あの頃とそういうところは何も変わってないわ」と切り捨てられてしまった。そういうところが何なのか、わかったようなわからないような感じだが、趣味が合わないということなのだろう。それでもトップの背負った羽の数や、ラインダンスの踊り子の人数を正確に覚えていて、それなりの楽しみを見つけてくれていたようでもあった。
 そして、僕の父のほうは「疲れた……」らしい。でも、レビューに引用されたシャンソンを何曲かフランス語で口ずさんでくれて、原題を教えてくれた。
 歌劇の公演終了後、僕の両親と相棒は市内のホテルで食事をし、なんとその場所が、僕の両親が長男誕生後初めて旅行に来て宿泊した場所であるということを語ったのだそうだ。初めての旅行に一歳の僕を伴ってきたら、宿泊したホテルのレストランで大騒ぎをし、若い両親は何も喉を通らなかった……という話は、僕もコドモの頃から聞かされていたが、それが宝塚のホテルだったとは!
「あのあたりには、森ばっかりでなーんにもなかったんだよなあ」
 と、四十年以上前のことを、ついこの間のように話す両親だった。
 そして、相棒と僕の両親は息子の幼稚園に赴き、息子を引き取って帰ってきた。
 両親と相棒、息子の四人がマンションのエレベーターを上がってきただけで、とても楽しそうな声が響いてきて、それはトイレの番人と化している僕にはちょっぴり眩しすぎたのである。

 結局、両親が宝塚を去る日まで、僕は起き上がることができなかった。相棒には大きな貸しを作ってしまった。両親はかなり楽しんで、そして自信もつけて帰っていったようだ。両親が帰った日に、僕はようやくトイレが二時間ごとになり、近所の病院を予約して診察を受け、薬ももらって、症状が回復に向かい出した。
「今回は、本当に助かりました。アリガトウ」
 相棒に深く頭を垂れた。相棒は笑って、なんでもないことだ、と言ってくれた。
「お義父さんが関西に来ることができて、本当に良かった。私たちが楽しく暮らしているところを見てもらって、ちーと君の幼稚園まで見てもらって……。体調に波があるからとても心配してたんだけど、こちらにいる間ずっとお元気そうで、ずっと笑顔だったね」
 そう言ってから涙ぐんだ。
 彼女は自分の母親にも、ここに来てもらいたかったのだ。それが、昨年突然亡くなってしまい、永遠にかなわなくなってしまったことを悔やみつつ、その気持ちを特に弱っている僕の父を気遣うことに発揮してくれたのだろう。

 この文章を書いている今は、軽い食事が摂れるようになり、トイレ通いも一日の回数が二桁を切るようになったものの、出すときの苦しみに悶絶しているような状況である。まだまだ正常とは言いがたい。
「パパおなかのびょうき、なおしてくださいね」
 と息子に言われっぱなしだ。
 大騒動の一週間だったが、僕が臥せっていても世の中はうまく回っていく。大事なときに病気で迷惑をかける無責任で迷惑な僕だ。でも、もしかしたら、僕が病気で何もできなかったことが、僕が病気でなかったことに比べて大きな利益をもたらしたのでは、とも思えてしまう。僕自身はとっても燃焼不足な気分ではあるんだけど、それが僕の星回りなのだろうか。そして母の言った通り、僕はいつもそんな人間なのかもしれない。

 本人的には、本当にトホホな心持ちなんだけど。 

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