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猫だましい

2020.11.07 公開 ポスト

N医大の黄門様

胃がんで逝った、内科医の理想型・O竹先生ハルノ宵子

自身の一筋縄ではいかない闘病と、様々な生命の輝きと終わりを、等価にユーモラスに潔く綴る、ハルノ宵子さんのエッセイ『猫だましい』より、試し読みをお届けします。

*   *   *

N医大の黄門様

おそらく私は、民間人として緊急車両乗車距離、日本一だと思う。もしかしたら、ギネス にも申請できるかもしれない。

別に、救急車をタクシー代わりに呼ぶような、モンスターじゃないからね。父母が(自分も含め)合計7回ほど救急車のお世話になったが、いずれも大腿骨骨折をした母を2階から運び下ろせなかったり、父はどの場合も、ほぼ意識不明だ。私だって(前述したが)大腿骨の頸部を骨折したら、本当に這うことすらできない。救急車は致し方ない。

しかし最も走行距離を稼いでくれたのが、96年父が西伊豆で溺れた時に、西伊豆から東京まで父を搬送してくれた、N医大のドクターカーだ。ドクターカーはN医大の所属といえども、まったく(見た目も)通常の救急車扱いなのだ。つまり交差点ではサイレンを鳴らして赤信号を突破できるし、車が詰まっていれば、反対車線を走行することもできる(この場合のサイレンは、ピーポーからウ~ウ~に切り替える)。

父が溺れた時、意識不明だった父をライフセーバーが、近くのクリニックまで運び、そこで気管挿管などの処置をした後、そのままさらに kmほど南にある、西伊豆としては規模の大きな病院に搬送してくれた。これ以上はない適切な処置だったと思う。私たち家族が病院に到着した頃には、おぼろげながらも父の意識は戻っていた。

その病院は、小規模だが清潔で、ICUや手術室など、一応の設備は整っている。どの位 時間がかかるかは不明だが、父の体力が回復してから、誰かに車を出してもらって、東京ま で帰るしかないだろうなと、当然ながら思っていた。

するとすぐさま、N医大の父の主治医O竹先生から連絡が入った。N医大がドクターカー を出すので、それで早い内に父をN医大まで搬送するという。O竹先生は、「私はその辺の 病院の医療レベルをよく知っていますので」と言う。実はO竹先生は、週に1日東京のN医 大から、この病院まで出張して来ているのだ。

O竹先生が、この病院で診ていた心臓病の娘さんは、N医大で手術を受けた方がいいと判断され入院していたが、その時母と一緒の病室になり、よく知る西伊豆の話で盛り上がった。

それがご縁で毎夏うちが西伊豆土肥を訪れるごとに、彼女のご実家におみやげを持って会い に行ったり、逆に娘さん一家とお母さんが宿を訪れてくれたりして、交流が続いた。 海のそばの国道に近い、田んぼや野っ原に囲まれた病院だが、地域の人たちの拠り所となっていたのだろう(だって周囲20km近く、病院らしい病院は無いし)。そんなにも地方と東 京の医療格差があるのかと、ちょっとショックだった。

西伊豆の病院にドクターカーが到着した。見た目モロ救急車なので、びっくりした。ちょ うどお昼時だったので、東京に出発する前に、まずは腹ごしらえをしようと、海辺に建つホ テルのレストランに入った。O竹先生と母と私と、救急隊員2名だ。正確にはN医大所属な ので、公務員の救急隊員ではないが、まったく救急隊員と同じ資格を持っている。救急隊の 人たちも父の様子を見て、緊急性のある状態ではないと判断して安心したのだろう。カレー を食べている。目の前には青い海と青い夏空が広がっている。救急の人に「どうです、ビー ル1杯飲みますか?」「イヤイヤ、それをやったら帰ると椅子がありませんよ」なんて冗談 を飛ばし、なごやかな雰囲気で、しばしくつろいだ。

病院を出発してからは、サイレン鳴らしっ放しだ(何せ患者搬送中の救急車だもんね)。 平野部を抜け大沢温泉の先からは、山間部の峠道に入る。東伊豆への横断コースの中でも、 バイパスなどが完備されていない、蛇行を繰り返す、かなり過酷な山道だ。

救急車って、患者を優しく運ぶイメージがあるでしょう? でも実はサスペンションゼロに等しいのだ。患者はベルトでストレッチャーに固定されているので落ちることはないが、平行に据え付けてある付き添い人の座席は地獄だ。幅は  ちょい、申し訳程度の厚さのクッション。蛇行するたびに転げ落ちそうになるので、力を入れて耐えねばならない。あまりの振り回されっぷりにゲロを吐きそうになる。サイレンの音がまたそれに拍車をかけてくれる。史上最悪のアトラクションだ。まさか毎回このルートを使っている訳ではなかろうが、週に1度西伊豆まで通われているO竹先生は、本当にタフだなぁ……と感心した。

峠を抜けると、河津桜で有名な河津町辺りに出る。この先は東海岸を北上する訳だ。ハイ シーズンなので東伊豆は、どの海岸も“芋洗い”状態だ。交通の便が悪い西海岸と違い、伊 豆の東海岸には鉄道が通っている。海沿いの国道も、上り下り共に大渋滞だ。ここでこそ緊 急車両は威力を発揮する。サイレンを鳴らし車を脇によけさせ、その間を縫うように進む。 どうしても詰まって動けない所は、ウ~を鳴らし、反対車線を走行する。高速に入ってから も混雑具合によって、高速だろうが一般道だろうが行き来自由で、サイレンを鳴らし赤信号 も逆走も、やりたい放題だ。さほどの重症患者でもないのに申し訳ない気もしたが、これは カイカンだった。正に水戸黄門の印籠だ。

結局N医大までは、ハイシーズンにもかかわらず、3時間ちょいで到着した。夕方には父は病室に落ち着いた。首や肩がバキバキにこって、ひどい頭痛がしたが、得がたい貴重な体験だった。

O竹先生と我家との出会いは、たぶんまだ私が学生で京都にいた頃だと思う。父は 代か ら糖尿病を患っていたが、暴飲暴食(“飲”はジュースやコーラね)があまりにもヒドくな り、困った母が(前回述の)Tさんに相談したのが始まりだと思う。父は駅のホームで新幹 線を待っている間にも、売店で板チョコを買って、1人でバリバリと食べてしまう程だった という。それで母と父は、しょっちゅう壮絶なケンカになっていたようだ(あ~ホントにい なくて良かった)。

Tさんは最初、当時N医大にあった「老人科」を紹介した。しかしそこの先生は、頭ごな しに「あんた、こんなことやってると、数年以内に腎臓透析になって死ぬぞ!」と、やらか してくれたらしい。もちろん父は、「2度と行くもんか!」となる。そこでTさんは、「内科」でも1番優しいO竹先生を紹介してくれた。O竹先生は、「いいですよ。少しずつ努力 していきましょう。血糖値高めの人は、急激に下げるのも良くないんですよ」と、言ってく れた。父はO竹先生を気に入り、信頼するようになった。

O竹先生は笑うと顔中にシワが寄り、東野英治郎さんの水戸黄門のような印象になる。先生の家は、うちから大通りをまたいだすぐ向こう、徒歩数分もかからないので、母が夜呼吸困難になった時などは駆け付けて、照明から気管支拡張剤の袋をぶら下げ、点滴をしてくれた。先生は妹の作家としての活躍も、たいへん喜んでくれていた。ちょっとミーハーっ気もある、チャーミングな先生だった。

O竹先生は、決して患者の前には出ない。父は相変わらず散歩がてらに、コロッケの買い 食いや隠れ天丼なんかやってるので、空腹時血糖値は200mg以上あった(110以下が正 常値だとされる)。血液検査の2、3日前から“にわか節制”をして、ギリギリ200を切 るまでに落としていたが、もちろん先生は、すべてお見通しだっただろう。それでも先生は、「下げられる内はいいんですよ。また頑張っていきましょう」位しか言わなかった。母やT さんは、「O竹先生は甘すぎる」と怒っていたが、父だって悪いコトは百も承知に決まって いる。勉強をサボってばかりいる子供は、いつだって自分を責めているのだ。それを「勉強 しなきゃ、落第だぞ!」と言われれば反発するが、「頑張ってるね。この調子で続けてこうね」と言われれば、罪悪感に火がつく。オトナだって、もうちょっと本気で節制せねばと、 反省する。うまいやり方だったと思う。

西伊豆の件から1年を過ぎた頃だっただろうか。O竹先生に胃がんが見つかった。しかし手術を受けて、完全復帰された。

母と近所の商業施設の中華店で食事中、外をご家族と歩くO竹先生が通った。どこのお店に入ろうか、選択中だったところだろう。母は喘息でCOPDなのに、タバコをスパスパやりながらビールを飲んでいた。さすがにバツが悪く、見付からないよう身を縮めた。その位お元気だったのに、がんはO竹先生の肝臓に転移していたのだ。

それでもO竹先生は、必ず復活すると信じていた。しかしその内、奥様から、腹水が溜ま っているなど、かなり深刻な病状であることは伺っていた。ある日奥様から、もうかなり危 篤状態で、今夜あたりがヤマかもしれないという連絡があった。父母と共に病院に駆け付け、 お目にかかることはできないかと尋ねると、「ちょっとだけなら」と、奥様からOKが出た。

O竹先生は見る影もなく痩せこけ、土気色の顔で横たわっていた。ベッドの周りには、大勢の医師たちが集まっていた。いかにO竹先生が皆に尊敬され、愛されていたかがうかがい知れた。

父が「O竹先生」と呼びかけると、先生は声を振り絞るように「残念です」と、一言おっ しゃった。 翌日O竹先生は亡くなった。奥様から、自宅に戻ったので、お別れに来て欲しいとのことで伺った。O竹先生のお顔を見ると、なんでだか滂沱の涙で、私はしゃくり上げるように泣 いた。これはミロに続いて(スミマセン! 猫と一緒にして)、人生2大不思議だ。お葬式 でも、ハンカチを手放せないほど泣きまくっていた(まぁ、この姿は正しい)。 O竹先生は、父より 歳下なのだから、このワガママな両親のことは、生涯任せられると 信じきって頼りにしていた存在を失ったからかもしれない。亡くした人との距離感やタイミ ングなど、理屈は色々付けられる。

しかし私は、またしても涙を使い果たしてしまった。きっと人生における涙の総量は決まっているのだろう。もう私は完全に涸れ果てた。

O竹先生の死後、たくさんの医師と出会ってきたが、温厚にして患者の“個”を見つめ、判断は迅速にして大胆。

O竹先生のあり方は、ある意味内科医の理想型だと思う。

関連書籍

ハルノ宵子『猫だましい』

歩けない猫は猫じゃない。 自身の様々な闘病、老いた両親の介護と看取り、数多の猫たちとの出会いと別れを、透徹に潔く綴る、「生命」についてのエッセイ。 60を迎える頃、ステージIVの大腸がんを告知された時の第一声は「ああ〜! またやっちまった〜! 」。その1年少し前に、自転車の酔っ払い運転でコケて大腿骨を骨折、人工股関節置換手術で、1ヶ月近く病院のお世話になったばかりだし、5年前には乳がんで、片乳を全摘出している……。吉本隆明の長女であり、漫画家・エッセイスト・愛猫家である著者が、自身の闘病、両親の介護と看取り、数多の猫たちとの出会いと看病・別れを等価に自由に綴る、孤高で野蛮な、揺るぎないエッセイ。

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