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臨終医のないしょ話

2017.07.23 公開 ツイート

第2回

朝の4時。それはナースステーションが最もせわしくなる時間 志賀貢 / 医学博士

誰もが避けられない”臨終“の間際、人は実に不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導き出した幸せに逝く方法を赤裸々に明かしたエッセイ――『臨終医のないしょ話』(志賀貢著)

お迎えのときは誰にもあります。本日は、そんな不思議な時間のお話です。

 看護師の山下さんは、入院患者たちの間では、パトロールおばさんと呼ばれています。そのあだ名の由来は、彼女の当直の夜は病棟からナースシューズの足音が絶えることはない、ということからきています。

 とにかく彼女が当直の夜は、病棟の見回りをマメにすることでは、患者だけでなくスタッフの間でも有名になっています。

 ナースステーションに10分と椅子に座っていることはなく、常に病棟の中を歩き回り、入院患者のベッドを懐中電灯を使って、一人一人容態に変化がないかを確認しているのです。とても他のスタッフたちには彼女の真似はできません。

 とくに睡眠中に喉に痰たんがからまって、呼吸困難に陥るようなことがあると、命にかかわりますから、喀かく痰たん戦争は、患者にとっても看護師にとっても命がけの戦いなのです。

 彼女は伊豆大島の出身で、同僚との会食などの後のカラオケでは、よく『波は浮ぶの港』という歌を歌うそうです。島を離れてからずいぶん経たつようですが、今でも故郷の島と三原山には、強い愛着を持っているようです。

 その彼女に、悲劇が襲いかかりました。島に住んでいた妹夫妻が三原山の山崩れの濁流に飲み込まれて命を失ったのです。今でも妹のご主人は海に流されたまま行方不明になっています。

 このことがあってから、山下さんはめっきり気弱になりました。

 あるとき、師長を通してそろそろ引退をしたい、と申し出てきました。うちの診療所だけではなくて、彼女が働きに行っている病院では、どこでも彼女の人気が高く、ある病院の総師長などは自分が引退するまでは、絶対にあなたのことは辞めさせません、と言って今でも引き留めているくらいです。

 私もその師長と同じ気持ちです。すぐ山下さんを呼び、私は彼女の顔を見据えて宣告をしました。

「私も年です。失礼だけど、あなたも若くはありません。どうか私が死ぬまで共にこの診療所で働いてください。どんなことがあっても、今後二度と身を引くなんて言葉を口にしないでください」

 彼女は涙ぐんで何度も何度も頭を下げ、それ以来今でも病棟で夜の見回りのパトロールを続けています。

高齢者の喀痰ほど怖いものはない

 1年ほど前になりますが、85歳になる脳梗塞の後遺症で苦しんでいる男性患者が入院してきました。食事はまったく摂とれず、鼻腔栄養でカロリーを補給していました。

 その他、とくに目立った症状も入院したときの検査では見受けられなかったのですが、先方の病院から送られてきた情報提供書には、飲み込みが著しく悪く、しばしばそれが元で誤嚥性の肺炎を繰り返してきた、と書いてありました。

 その患者さんが入院すると、ひととおりレントゲンや血液検査など行いましたが、古い肺炎の影は残っているものの、今すぐ治療を開始しなければならないような所見は見当たりませんでした。

 体に炎症があるかどうかを確かめるためには、CRP(C反応性タンパク)という血液成分を調べるのですが、その数値も正常範囲で心配はない、と私は見ていました。

 ただ、病棟師長の話では喀痰が多く、痰が絡まって取れにくいいわゆる喀痰喀出困難という状態では、吸引を昼も夜もマメに行わないと、それが元でまた肺炎を再発しかねない、と心配しているのです。

 そのことについては、病棟スタッフ全員に注意を促し、高齢であることもあって夜間は心肺機能を監視する装置を胸につけて、またいつでもいざというときのために酸素吸入が行えるように、用意をしてありました。

 こうした喀痰の多い患者の場合には、先ほども述べたように命の危険にさらされますので、絶えず容態を観察することが必要になります。この男性患者の場合も、できればナースステーションの隣にある重患室のベッドに寝かせたほうがいいのです。

 しかし、家族の希望で、できるだけ部屋代などの経費がかからないほうがいい、ということなので、やむを得ず4人部屋に寝かせることにしました。

 入院したその日から、パトロールおばさん、山下さんの夜の見回りがさらに頻回になったことは言うまでもありません。

 看護記録には、喀痰を喀出するための吸引がどれほど頻回に行われていたか、また夜間になって多少血液中の酸素濃度が低下するために、酸素吸入を続けなければならなかったことなどが克明に記載されていました。

 こうした目が離せない新患が入ると、彼女のナースシューズの音はさらに病室に響きわたることになります。患者の中には、その足音が気になるらしく毛布を頭まで引いて、顔をすっぽりと埋うずめて嫌がる人もいるようですが、大半の患者はペンライトの明かりを当てられると手を振って、

「おやすみ」

 と、目で感謝を示す人がほとんどでした。

 ところが朝の4時の魔の時間がやってきました。この時間帯は、おむつ交換や朝の点滴や処置の準備などで、ナースステーションがてんてこ舞いになる時刻なのです。

 パトロールおばさんも、病棟に神経をとがらせながら、おむつ交換に追われていました。

 そして、4時半ごろでした。入院したばかりのこの男性患者さんのベッドに近づいて、喀痰の様子を見ようと顔を覗き込むと、すでに呼吸が停止していました。

 緊急事態です。

 病棟のスタッフは無論のこと、私にも連絡が入り、ただちに蘇生処置をしましたが、患者は息を吹き返すことはありませんでした。

 こうした一瞬の魔の時間帯が、高齢者の多い病棟では発生することが多いのです。もちろん、パトロールおばさんを責めることはできません。老人は病と闘っているうちに力が尽きたのだと思います。

 こうした息の引き取り方を見ていると、「老衰」という言葉が頭をよぎります。どんなに手当てをしても、助けることができない状態に患者が陥ることがあります。

 ともかくこの高齢化社会においては、毎日病棟のスタッフは、この命を左右する喀痰戦争に駆り出されている現状が、これからも続いていくに違いないのです。

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臨終医のないしょ話

誰もが避けられない<臨終>の間際、人は摩訶不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな数々の臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導いた幸せに逝く方法を赤裸々に明かします。

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志賀貢 / 医学博士

北海道生まれ。医学博士、作家。昭和大学医学部大学院博士課程修了。長らく同大学評議員、理事、監事などを歴任し、大学経営、教育に精通している。内科医として約55年にわたり診療を続け、僻地の病院経営に15年従事。また介護施設の運営にも携わり、医療制度に関して造詣が深い。その傍ら執筆活動を行い、数百冊の作品を上梓している。近著には、『臨終医のないしょ話』『孤独は男の勲章だ』『臨終の七不思議』(いずれも幻冬舎)等がある。

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