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臨終医のないしょ話

2017.07.16 公開 ツイート

第1回

重い意識障害の旦那さんに届いていた奥さんと家族の声 志賀貢 / 医学博士

誰もが避けられない「臨終」の間際、人は実に不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取ってきた医師が、そんな数々の臨終にまつわる奇譚と、50年の経験から導いた幸せに逝く方法を赤裸々に明かしたエッセイ――『臨終医のないしょ話』(志賀貢著)

本日は、雪がちらつく真冬のある日に転院してきたCさんと、それを支えた家族の、胸に沁み入るお話しです。

*   *   *

 伊豆地方では桜の開花が報じられているというのに、この横浜の辺りはまだまだ冬の真っ只中だったある年の2月のことでした。気温は一向に上がらず、雪がちらつくこともあって、とくに夜間の冷え込みは長患いの病棟の患者たちにはこたえているようでした。

 そんな寒い日が続いている最中に、助かる見込みのない意識障害の男性患者を転院させたい、という依頼がありました。

 その患者のCさんは、年は45歳という若さですが、2年ほど前に事故に遭い、頭部外傷が元で症候性てんかんの発作で苦しんでいました。

 その後、治療している最中に大発作に襲われて意識を消失、どのような蘇生処置を施してもまったく意識が回復する見込みがない、という状態の患者でした。

 転院してきたときには、首から下の全身に絶えず痙攣が起きており、意識は完全に消失していて、さらに、目は脳の障害のときによく起こりがちな左方偏移という症状があって、正常な目の状態は消えています。

 その患者を見たときは、スタッフたちは余命幾ばくもないのではないかと判断したものでした。

 付き添ってきた奥さんは、まだ40歳になるかならないかの若さで、子供も小さく、夫の病状にこの2年間、相当経済的にも肉体的にも、介護に疲れ果てているようでした。そして、涙声で語る言葉の端々に、夫の回復は諦めなければならない、と覚悟しているようでした。

 それにしても患者は若すぎます。何をしても反応のない夫に、妻はすっかり落胆している様子でした。その奥さんの姿を見ていると、できることならもう一度意識を取り戻して家族の元に返してあげたいと、私も病棟スタッフのみんなもそう願ったものでした。

意識障害によく使われる判定法とは

 こうした意識障害の患者が入院してくると、その障害の程度を判断するために病棟では、ジャパン・コーマ・スケール(JCSと略される)という方法が用いられています。

 その方法とは次のようなものです。

I . 刺激なしでも覚醒している。
 ・だいたい意識清明だが、今一つはっきりしない(レベル1)
 ・見当識障害(時間・場所・人がわからなくなる)あり(レベル2)
 ・自分の名前・生年月日が言えない(レベル3)

II . 刺激すれば覚醒する。
 ・普通の呼びかけで、容易に開眼(レベル10)
 ・大声、身体の揺さぶりで開眼(レベル20)
 ・痛み刺激でかろうじて開眼(レベル30)

III . 刺激しても覚醒しない。
 ・痛み刺激を払いのける(レベル100)
 ・痛み刺激で手足を動かす、顔をしかめる(レベル200)
 ・痛み刺激に反応しない(レベル300)

 この意識レベルを判定する表を使って、医師や看護師たちは意識レベルがどの程度のところにあるのか、おおよその見当をつけます。

 現代の医学は、コンピュータを駆使して精密に病気の診断をできるところまで進歩してきています。しかし、意識障害に関してはまだまだコンピュータが判定するところまではいかず、熟練した医療スタッフの臨床経験が見極めているのが現状です。

 Cさんの意識レベルはIII の300という状態です。つまり、痛みや刺激にまったく反応せず意識は戻らない、という状態でした。

 反応がないと当然のことですが、家族も医療スタッフも患者への働きかけが少なくなります。しかしこの奥さんは、反応があろうがなかろうが、夫に必死に呼びかけ続けているのです。こちらも何かできないか、と思った私は言いました。

「師長、あの間断なく続いている痙攣だけれども、あれを止めてやらないとターミナルステージ(終末期、狭い意味では臨終)が間もなくやってくると思う。
 今のところは、栄養は経管栄養でなんとか摂取できているし、それに肺炎などの余病も起きていないから、回復の見込みはないとはわかっていても脳の浮腫を取ってあげると、体にとっては少しは苦痛が軽くなるのではないかね」

「そうですね。Aさんの場合とは違って、Cさんはとにかくベッドから今にも落ちるのではないかというくらい、ときどき大きなてんかん発作がきますものね」

 私の、脳の浮腫という言葉に、師長もすでに気がついているようでした。

「よし、GX(脳圧を下げる薬)の点滴を少し使ってみるか」

「でも、あの点滴は急性期以外は保険が通らないんじゃないでしょうか」

「いや、そのとおりだよ。慢性期には適応外ということになっている。しかし、あの痙攣はひと月前の大発作からずっと続いていると言うから、GXはまだ使ってみる価値があるかもしれない。すぐ点滴を開始してみてくれないか」

「わかりました」

 師長は、点滴の指示を病棟スタッフに伝えました。なすすべもなく横たわっていただけのCさんの周辺が、急にあわただしくなりました。

 その翌日でした。Cさんに奇跡が起こりました。

「目が開いてる!」

 当直の看護主任が、インターフォンで私の当直室に知らせてきました。

「先生、さっきぱっちりと目が開いたんです。でも、また閉じてしまって、今度はなかなか開けません。ただの偶然でしょうか」

「よし、GXをもう1本追加してくれ」

 私は横になっていたソファーから飛び上がるようにして起きると、保険適応外のことなど忘れて、点滴の追加を指示していました。

 翌朝、ベッド際に近づいた師長が大きな声で、

「Cさん!」

 と声をかけました。しかし、反応がありません。やはり当直看護師が見たのは、彼女の錯覚だったのでしょうか。

 もう一度師長は大きな声で呼びかけました。すると、再度、奇跡が起きました。ぱっちりと目が開いたCさんが、

「はい」

 と答えたのです。

 それからの回復は目覚ましいものがありました。

 翌日には意識レベルは、JCSのII の20まで回復しました。連絡を受けた若い奥さんと、それに患者の母親や兄弟は歓声をあげ、彼の意識が戻ったことを、涙を流して喜んだことは言うまでもありません。

 ひと月以上も意識レベルがIII の300の状態の患者が、点滴の中でも決して高くはないGXという、ごくありふれた点滴で意識レベルII の20まで回復するとは、常識の範囲ではありえないことです。

 しかし、ここにそのありえないことが起きたのは、まだ若さを惜しまれていた彼の生命力と、ここで死んではいられない、というモチベーション(意欲)が元にあり、そこへ諦めきれずに呼びかけ続ける家族の愛の深さと、それを応援したい医療チームの働きかけが相乗効果となったからに違いないと思われるのです。

人の聴覚の偉大さを見直そう

 意識障害に陥った患者に対し、とにかく耳元で声をかけ続けることが、どれだけ有効な治療法になるかこの例を見てもわかると思います。

 よく、心停止が起こり4分ほど経過して脳細胞が死滅に向かっても、その脳細胞の中で最後まで生き残っている部分がある、と言われます。それが聴覚中枢だと言われています。

 聴覚の働きには、脳の中央部分の奥まったところにある視床下部、それに側頭葉などが関係していると言われています。

 とくに視床下部は、人間の生命を維持するためのいろいろな中枢が集まっている部分であり、ここの生命力が脳の中でも一番強いのではないか、と思われています。

 したがって、脳死状態に陥ってから生き返って臨死体験を語る人は、まず皆無に等しいかもしれませんが、臨終と医師に告げられてから、ベッドを囲んでいる家族が愛する人の名前を呼び続けることは、天国へ召される人への最高の贈り物になるに違いないのです。

 まして、まだ心臓の鼓動が正常に打ち続けられており、ただ意識が戻らないという状態の重篤な患者の場合には、耳元で声を聞かせ、この聴覚中枢を刺激することは、患者の脳を覚醒させるためにどんな薬よりも特効薬になることを覚えておきたいものです。

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誰もが避けられない<臨終>の間際、人は摩訶不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな数々の臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導いた幸せに逝く方法を赤裸々に明かします。

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志賀貢 / 医学博士

北海道生まれ。医学博士、作家。昭和大学医学部大学院博士課程修了。長らく同大学評議員、理事、監事などを歴任し、大学経営、教育に精通している。内科医として約55年にわたり診療を続け、僻地の病院経営に15年従事。また介護施設の運営にも携わり、医療制度に関して造詣が深い。その傍ら執筆活動を行い、数百冊の作品を上梓している。近著には、『臨終医のないしょ話』『孤独は男の勲章だ』『臨終の七不思議』(いずれも幻冬舎)等がある。

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