「水深100メートル……200メートル……」
昼夜問わず煌々とした明かりで照らされる商店街から、下へ下へと延びる薄暗い階段を降りる時、私はそんなセリフを思い浮かべる。明るい地上から海に飛び込み、暗く果てしない深海に向けて潜る潜水艦。その乗組員になった気分で、柔らかなカーブを描く階段を一歩一歩重々しく下っていく。覗き穴が設けられた鉄のドアを通ると、そこにあるのは長細い洞窟のような空間だ。
幅は3.5メートル、奥行きは13メートル。窓はなく、人の拳大の凹みが模様のように広がる壁にぐるりと囲まれている。船舶照明(船に使われる防水の照明器具)に照らされる室内は、その明かりがなければ闇に沈んでしまいそうなほど暗い。その薄暗さに紛れるように、至るところに小物が置かれている。タイプライター、船の碇、樽、潜水艦の窓のような金縁の丸ガラス。まるで海から漂流してきたような品々に、やはりここは海の底なのだと実感する。深く暗い海を潜り、その底でぽっかり口を開けた洞窟。吉祥寺の純喫茶「くぐつ草」に、私はそんなイメージを重ねる。
くぐつ草を立ち上げたのは、吉祥寺を活動拠点としていた人形劇団の「結城座」。国と都の無形文化財である「江戸糸あやつり人形」を扱い、寛永十二年という気が遠くなる以前から継承を続ける由緒正しい劇団だ。くぐつ草の店名は、このあやつり人形の”傀儡(くぐつ)”からきている。1979年、公演期間以外にも劇団員が働ける場所を作りたいというオーナーの思いから、くぐつ草は開店した。看板メニューであるカレーは劇団員が稽古場でレシピを開発し、壁面の特徴的な凹みは土が柔らかいうちに劇団員が痕をつけたそうだ。薄暗く一見妖しさも感じられるくぐつ草の空間に、同時に温かさも感じられるのはまさに劇団員の”手垢”が残るアットホームさがあるからだろう。
くぐつ草でいつも注文するのは、ココアとカレーセット。くぐつ草のココアはとても特徴的だ。煮詰めたような色のココアの上に、半分とろけたホイップが乗っているのだが、これが驚くほど濃厚。まずカップを傾けてから口の中に流れるまで少し時間がかかり、舌に届いた途端にココアの凝縮した香りがフワッと広がる。舌に絡みつくようにねっとりとしていて、飲み下す感触を喉で感じてしまうほどだ。ココアというより、湯煎したチョコレートを飲んでいるような濃密で脳が痺れる甘い味わいは、一度飲めば夏でも恋しくなってしまうほどの中毒性があるのだ。
小ぶりの深皿に盛られたカレーのルー、レーズンが乗ったご飯、ゆで卵ときゅうりとマカロニが盛り付けられたミニサラダ、甘酢生姜などの漬物。これらがお盆の上に美しく並んでいる姿を見るだけで心が踊る。素材がとろけあい一見すると何が入っているのか分からないルーをご飯にかけ、ルー:ご飯=1:1の割合で口に運ぶ。ピリリとしたスパイシーな辛み、その後にじっくり炒めた玉ねぎの甘みが口を包む。煮込んですっかりくたくたになった素材の柔らかさが心地よく、噛むたびに弾けるレーズンのジューシーな旨みがアクセントになっていて、何皿でも食べられそうだ。
約10種類ものスパイスが使用されているくぐつ草カレーは、山椒のような舌が痺れる辛さが魅力の”大人”な逸品。辛さが苦手な方にはオムカレーがオススメだ。こちらはルーにココナッツミルクが入れられていて、付け合わせのスクランブルエッグと合わせるとまろやかで優しいカレーの美味しさを楽しむことができる。2人以上で行くなら2種類のカレーを注文してシェアするのもいいかもしれない。辛さと甘みのカレーの応酬に、皿が綺麗になるまで夢中で食べ尽くしてしまうだろう。
海の底の世界のように感じていた店内のデザインや小物は、実は特別なコンセプトはないそうだ。開店に差し当たり、当時の座長の奥様にあたる方が中心になってお店のテイストを決めたという。くぐつ草はあらゆるメディアで紹介されてきたが、「洞窟喫茶」や「隠れ家」など十人十色の言葉で称されている。しかし、私にとってはやはり“海底の洞窟”というイメージがすんなり心に馴染む。薄暗い階段をくだり、潜水艦のような重い扉を開き、船舶照明にやさしく照らされた細長い空間に出会う。海を潜った先のこの空間に、地上に残してきた日常の瑣末な物事は忘れてしまえと許されるような気持ちになるのだ。やがて地上に戻り、大人としてさまざまな面倒ごとに向き合わなければならない。そのためにもこのくぐつ草にいる時間だけは、海の底に住まう生き物のように、暗く優しいこの空間に身を委ねていたい。
純喫茶図解
深紅のソファに煌めくシャンデリア、シェードランプから零れる柔らかな光……。コーヒー1杯およそワンコインで、都会の喧騒を忘れられる純喫茶。好きな本を片手にほっと一息つく瞬間は、なんでもない日常を特別なものにしてくれます。
都心には、建築やインテリア、メニューの隅々にまで店主のこだわりが詰まった魅力あふれる純喫茶がひしめき合っています。
そんな純喫茶の魅力を、『銭湯図解』でおなじみの画家、塩谷歩波さんが建築の図法で描くこの連載。実際に足を運んで食べたメニューや店主へのインタビューなど、写真と共にお届けします。塩谷さんの緻密で温かい絵に思いを巡らせながら、純喫茶に足を運んでみませんか?