花の季節を待ちわびて
2024年の桜は、ゆっくりゆっくりやってきた。当初予測されていた開花日になってもまだまだ蕾は硬く締まっており、曇天の日は肌寒さを感じるほどだった。桜は最高気温の累積が一定の数値を超えると花開くという話を、どこかで聞いたことがある。花もニンゲンも「あとちょっとなんだけどな!」とじりじりしていたのかもしれない。
もう10年も前だろうか、桜の名所からほど近い場所にある宿の主人と話をしたことがある。海外にも熱心なファンがいるその鄙びた宿はなかなか予約が取りづらく、春は特に人気なのだという。
「チェックアウトをするとき、1年後の予約をしていく方もいらっしゃいます」という主人の言葉に、毎年1年前からレストランを予約する知人の話を思い出した。ガラス張りのそのレストランの前は見事な桜並木で、知人は親しい友人を集めてパーティーをするのだ。しかし桜は一斉に咲き、一斉に散る。早咲き、遅咲きの品種はあれど、紅葉のように「南のほうがダメなら北に移動」作戦もとりにくい。
「見頃に当たらなかったら、残念でしょうね」と主人に問うと、彼は朗らかに笑って言った。「早くても、遅くても思い出になるとおっしゃっていましたね」
京都の桜と元彼の椅子
我が家に一脚の椅子がある。ずっと前に別れた恋人が当時、私が住んでいた家に持ち込んだもので、2度の引っ越しを経てまだ私の手元にある。夫もまるで気にしておらず「元彼の椅子」と呼んでいるくらいなので特に思うところはないのだが、ときどき奇妙な気分になる。
桜が好きな人だった。桜の開花予想が出ると毎年、車を駆って京都に出向く。今は無人となった彼の実家に数日逗留し、あちこちを巡るのだ。清水寺に円山公園、平安神宮。「花は御室か嵐山」と言いつつ渡月橋を渡ったこともあった。とりわけ思い出に残っているのは常照寺、何度も足を運んだ龍安寺。それ以外の季節は雨の日も多かったのに、春は不思議と晴天に恵まれていた。そして6回目の花見を終えた年の秋、私は彼に別れを告げた。「別れるくらいなら結婚してもいい」と彼は言ったが、そうじゃないと私は言った。
当然ながら、椅子は何度となく「引き取って欲しい」と連絡を取った。「車で取りに行く」と元彼は言うが、待てど暮らせどやって来ない。ではこちらから配送を依頼すると言うと「それでは申し訳ない。こちらから引き取りに行く」と言う。そこで話が終わる。次の引っ越しの際も、まったく同じやり取りが繰り返された。
彼は、私を愛していなかったわけではないのだろう。鷹揚かつ善良で、聡明でユーモアに富み、そしてとても怖がりな人だった。「もうこれ以上は引き延ばせない」という期限が見え、確実だと思ってから、動く。桜もそうで、元彼が連れて行ってくれた京都はいつも必ず満開だった。ほんとうに、見事なまでに。降り注ぐ花びらの下、幸福は確かにそこにあった。
しかし一時が万事そうなので、畢竟すべての予定は緊急になる。断れない飲み会。動かせない仕事。どうしてもやらなければいけない趣味。私は「いつでもいる存在」だから後回しになる。そうした日々に、私は疲弊してしまったのだった。
散々元彼の悪口を書いたが、今にして思えば私も同類である。椅子がまだ手元にあるのは、「どうしても返さなければいけない期限」がなかったからだ。夫は「椅子に罪はない」と何ら問題視していないし、私も何の遺恨もない。だからまだ家にある。そうやってズルズルと先延ばしした物事に見切りをつけるタイミングは、私のほうが元彼よりも少しだけ早かった。お互いがお互いに、人生のいろいろな問題を先延ばしにしていた。そんなふたりが、未来の何かを決めようとすることなど、どだい無理だったのだろう。
早すぎる桜も思い出になる
開花予想の日が過ぎてもほころびもしない桜の枝の下、客をいっぱいに乗せた船が目黒川をゆく。チケットは争奪戦だっただろうに、気の毒でならないとこぼすと夫は言った。「それもまた思い出になるよ」と。そういえば1年前からレストランを予約するパリピの知人も、桜が咲いていても散っていても、SNSに上げる写真は最高の笑顔だ。幸せな未来を願って選んだことだから、幸せに「する」のだ。
若い日の愚かな自分を思い出す。怖がりな元彼のために私がすべきだったのは、確実な未来が欲しいと強く迫ることではなかった。泣いて決められない彼をなじることでもなかった。何がどうなっても、楽しかったと思える日々にしようよと、未来を明るく照らしてあげることだったのだ。世の中はいつだって不確実だし、人の心は変わるものだ。それでもきっと、私たちはいい思い出を作れるよと。
いつか椅子を返させてくれ……と思っていたら桜が咲いた。そんな春だった。
●エッセイのおまけとして、「桜が出てくる本」を3冊ご紹介します。桜といえば『桜の森の満開の下』(坂口安吾)や『桜の園』(チェーホフ)、あるいは『古今集』などをご紹介したくなりますが、敢えて私が最近読んだ作品を。
藤田宜永『金色の雨』幻冬舎文庫
大人の恋愛模様を描いた短編集です。このなかの「散りゆく花」という作品に山桜と登場人物の心境を重ねるような描写が出てきます。思い出は思い出のままが、一番きれいだったりするのかもしれませんね。
三浦しをん『政と源』集英社オレンジ文庫
桜は最後のほうにちらりと出てくるだけなのですが、登場人物の軽妙なやり取りが大好きなのでこの作品をご紹介します。なんというか、多幸感があふれる作品なのです。こんな年の取り方も素敵だなと思ったりするのでした。
池井戸潤『ハヤブサ消防団』集英社
終始不穏な雰囲気が漂う本作ですが、主人公の作家が住むのが見事な桜の木がある「桜屋敷」。こんな環境で執筆に取り組んでみたいと思いつつ、主人公がよく執筆と消防団を兼任できるなと余計なことに思いを馳せつつ一気読みしました。