
「うちの料理は家庭の延長なんですよ」と、それいゆ2代目店長の廣田桃江さんは朗らかに笑った。
それいゆの名物としてオススメされたチーズカレー。たっぷりとチーズをかけられてオーブンで熱々に焼かれたカレーは、細かく切られた野菜とチーズが溶け合い、まろやかな味わいで、あっという間に平らげてしまう美味しさ。けれど、どこか懐かしい素朴さをも感じられる。食後にいただいたパンプキンパイも、実家で出されたことは一度もないのに、なぜか幼い頃を思い返して優しい気持ちになってしまうのだ。
”家庭の延長”の優しさは、料理だけでなく建物にも滲んでいる。
西荻窪駅の南口を出て高架下沿いに歩いた先、八百屋や飲み屋、サウナつきのパチンコ店が並ぶ賑やかな通りの入り口に、純喫茶「それいゆ」はある。オレンジ色の煉瓦づくりの柱と、深い青みのオーニング、赤茶色いサッシの観音開きの窓が特徴的だ。レトロで落ち着いた雰囲気がありながらも、大きな窓が並んでいるからか開放的で軽やかな印象だ。
それいゆの創業は1965年。トロンボーン奏者であった桃江さんのお父さんがジャズクラシックに馴染みがあったため、開店当初は数多くのレコードが並ぶジャズ喫茶だった。夜遅くまでコーヒーを飲みつつ音楽を楽しめる喫茶店として人気を博していたそうだ。そこから少しずつ今の形へと形態が変わり、約45年前には隣のおでんやさんを買い取って空間を拡張した。元々経営していたのは桃江さんのお母さんだったが、高齢になったことをきっかけに、幼い頃から馴染みあるそれいゆを繋いでいきたいと桃江さんが引き継いだそうだ。
家族で紡いできたお店だからこそ、それいゆには様々な家族の痕跡が残されている。
それいゆの室内は、中央に4つのサイフォンが置かれた楕円形の机があり、それを中心にしてやや奥まったスペースと、窓が面する開放的な空間に緩やかに分けられている。入り口近くのショーケースにはケーキやコーヒーゼリーなどのスイーツが並んでいて、その背後にガラスが嵌め込まれた棚がある。棚の奥をよく眺めてみると、古びた洋風のお人形さんがずらりと並ぶ。このお人形たちは、桃江さんのお母さんと叔母さんが趣味の海外旅行で訪れたヨーロッパの蚤の市で買ってきたものだという。2年に1度はクリーニングをしているそうで、年季が入った印象もあるが清潔感があり、大事にされているのがひしひしと感じられる。
さらに店内を見渡すと、他のものにも家族の物語が刻まれている。例えば、窓側の席に置かれた絵本と、奥まったスペースにある文庫本。
「家に置ききれない本をここに持ってきて棚に置いてみたら、いい感じの仕切りになって。それから絵本も持ってきたんですよ。」
うさぎの耳をつけた女性が印象的な看板もそうだ。これは桃江さんが通っていた保育園のお友達のお母さんがイラストレーターで、当時の桃江さんのお母さんをイメージして描いたものだという。数十年前に描かれたイラストのはずなのにちっとも古さを感じられず、それどころか今っぽい雰囲気すら感じられるのは、そんな思い出があるからだろうか。
桃江さんは、家庭の延長線だからと言った後に、特別なものは出せないんですよと続けた。私はそれこそが特別なのだと思う。どこか馴染み深くて落ち着いた心地になるからこそ、何度も来たいと思えるのだ。ずっとここにいたくなるような、おかえりと言ってくれるような優しさが、この店にはある。
この記事をそれいゆの窓側の席で書きながら、ふと窓の外をぼんやりと眺めてみた。おや? よく見てみると、窓のサッシの端に小さな小さなクマさんのシールが貼ってあるではないか。桃江さんに訊ねてみると全く知らなかったそうなので、これはどこかの子供のささやかなイタズラだろう。そんな小さな痕跡にも、満たされるような温かさを感じられて、涙がにじむほど愛おしいと思ってしまう。きっとこの先も、廣田さん家族だけでなく、様々な人の”手垢”が残ったこの店に、何度も足を運んでしまうのだろう。
純喫茶図解

深紅のソファに煌めくシャンデリア、シェードランプから零れる柔らかな光……。コーヒー1杯およそワンコインで、都会の喧騒を忘れられる純喫茶。好きな本を片手にほっと一息つく瞬間は、なんでもない日常を特別なものにしてくれます。
都心には、建築やインテリア、メニューの隅々にまで店主のこだわりが詰まった魅力あふれる純喫茶がひしめき合っています。
そんな純喫茶の魅力を、『銭湯図解』でおなじみの画家、塩谷歩波さんが建築の図法で描くこの連載。実際に足を運んで食べたメニューや店主へのインタビューなど、写真と共にお届けします。塩谷さんの緻密で温かい絵に思いを巡らせながら、純喫茶に足を運んでみませんか?