
この夏、品川区に引っ越してきた。
妻と娘と離れ、二拠点生活をスタートするためだ。仕事の大半が東京にある私は都内に残り、妻は家業で働くため、娘と京都へ戻っていった。私は月に数回、家族に会いに行く。「子どもは、お互いが育った関西で育てたいな。」「うどんは、関西の出汁を食べて育って欲しいわ。」「近所の人とも気さくに笑って話せる世界を知って欲しいな。」食文化、人情、お笑い……夫婦が生まれた場所だということも大きな理由だが、関西に優る子育ての場所はないと勝手に思っている。その思いが二人とも強かったので、喜んでこの生活をスタートさせた。
新しく選んだ品川区の部屋は、テレビ局や新幹線駅に近く、利便性が非常に高い。「住めば都」という言葉通り……とはいかず、まだまだ馴染めずにいるのが本音だ。
“上野毛”という街
東京に来てもう10年が経つが、これまで代々木→西麻布→上野毛と、三つの街を転々としてきた。中でも、先月まで住んでいた“上野毛”に住み始めてからは、“人間らしい生活”を送れるようになった。世田谷区の住みやすさは前々から小耳に挟んでいたものの、その力をまじまじと見せつけられた。
引っ越して最初に部屋の窓を開けたとき、“空の広さ”に驚愕した。私が育った土地・滋賀には、広い青空がいつもあった。上京してから常にコンクリートジャングルの中に身を置いていたので、大きく伸びをして空気を吸い込むことがほとんどなかった。無作為に青空をスマホでパシャパシャと撮り、インスタのストーリーにアップした。
当時は、世の中がコロナと二人三脚をしはじめた時期だったので、自宅でのリモートワークが中心になった。一日中部屋の中にいると、体も鈍ってくる。そんなときに散歩をする楽しさも、“上野毛”という街が教えてくれた。
駅の交差点から下ると、傾斜の激しい一本の太い坂道がある。左手には公園があり、桜の季節になると、むせかえる新緑の匂いがたまらない。
その坂道を少し下っていくと……『吉行』という表札の一軒家が右手に見えてくる。小説家の吉行淳之介氏が宮城まり子氏と住んでいた家である。吉行氏はこの坂のことを“みどり色の坂の道”と称した作品を、『やややのはなし』にのこしている。エッセイに出てくる坂の上のタバコ屋さんを探してみたが、残念ながら無くなっていた。
あの、“美空ひばり&小林旭夫妻”が新婚当時、自宅を構えていたのもこの坂だったといわれている。確かに、この坂一体には酸素が溢れているというのか……開放的な気持ちにさせる何かがある気がしてならない。さらに調べてみると、岡本太郎氏が若い頃にアトリエを構えていたり、高倉健氏の贔屓にしていたパン屋さんがあったり、掘れば掘るほど、多くの著名人に愛された街だということが分かってきた。
先人が選んだ場所には“理由”があるのだ。
さらに坂を下りていくと、みどり一面が広がる二子玉公園が顔を出す。この道を妻とチワワのテンと散歩する時間は、時間に忙殺され疲れきっていた心を綺麗に洗い流してくれた。


プロポーズをしたのも、冬の二子玉公園。妻の誕生日だった。慣れない銀座まで指輪を買いに行って、慣れない花屋さんで花束を見繕ってもらって、スーツに着替え、仕事終わりの妻を呼び出して、大好きなこの場所で伝えた。恥ずかしさを笑いで隠しながら「結婚してください」と言っている私の姿を、妻は爆笑しながらスマホで撮影していた。
その翌年、新しい命を授かった。深夜に破水した妻をタクシーに乗せ、一緒に二子玉の病院まで飛ばした。予定よりも早く、娘は誕生した。分娩室の中から赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。胸の垢がゴッソリとれるような、ツルッとした、はじめての感情を覚えた。当時はまだ面会が厳しく、ガラス越しに水梨ほどの小さな顔を見つめることしかできなかった。
大井町線は東京に来て唯一好きになった路線だ。特に、二子玉川駅から上野毛駅までの車窓から見えるみどりの景色が何よりも好きだ。(都心部の路線の多くは地下を走っており、車窓から日光が差し込む電車はそう多くはない)上野毛駅から散歩をしながら、みどり色の坂を下って二子玉公園から二子玉川駅まで散歩をして、大井町線に乗って、その景色を眺める。これがルーティーンになった。この街は私を、余白の空間にいざなってくれた。
関西にいる妻から「この前まで住んでいた部屋が、早速”SUUMO”に掲載されているよ」と連絡がきた。ホームページに飛んで写真をスライドしてみると、スッカラカンになったリビングが、寝室が、台所が……。写真の中に、妻、娘、テンと一緒にご飯を食べている姿がぼやっと浮かび上がって見えた。
もうそこには戻れないのかと少し寂しくなった。


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放送作家・澤井直人の「今日も書く。」

バラエティ番組を中心に“第7世代放送作家”として活躍する澤井直人氏が、作家の日常のリアルな裏側を綴ります。