新型コロナウイルス感染症が8日、感染症法上の「5類」に引き下げられた。
5月8日付「朝日新聞」
いつ終わるとも知れない、この〈いま〉が延々続くかと思われた三年だった。
今年に入ると、新型コロナウイルスの「5類」移行がさかんにニュースで報じられるようになった。だが現実はもう少し先に進んでいたから、最初それを聞いても特に感慨にふけるということはなく、実感としては、ようやく法も追いついたのかといったくらいの軽い気持ち。
しかしそれも一つの区切り・儀式であることには違いがなく、いざその時を迎えてみると意外に安堵している自分がいた。どれだけマスク、ソーシャルディスタンスといった習慣には慣れても、行動制限されているという事実は残ったままだから、それが自主判断になることにより、少し肩の荷が下りたような気になったのかもしれない。
二〇二〇年春、最初の緊急事態宣言が七都府県に出され、社会が一斉に止まったとき、わたしは心の底ではほっとしていた。社会のスピードは制御する人もいないまま加速度的に早くなる一方だったから、強制的に止まってよかったくらいに思っていたのだ。
とにかく一度、そこから降りたかった。
だがそれは、異常な時期でもあったのだろう。
店という店は閉まり、街からは一時人の姿が消えた。わたしは毎日、がらんとした街を誰にも見られないように自転車で走り抜け、お客さんがいなくなった店に滑り込んだ。そして様々な手段により届いていた本の注文を作り、16時過ぎにやって来るヤマトの人に、密書を託すようにしてその本を引き渡すのである。まったくインターネットと運送屋だけが、当時は他の誰かとつながることのできる、限られたライフラインだったのだ。
それからしばらくすると、店は時短をしながら営業を再開したが、レジカウンターの前にはビニールが垂らされ、お客さんとの会話はそのビニール越しに限られた。テレビで言われていた通りカフェの座席数を減らし、店の入口には消毒液を常備する。自分が感染することも怖かったが、店をやっているものとしてはそれ以上に、なんとしてもこの店から感染者を出してはならないという覚悟でずっと気が張っていた。感染者を出してしまったら最後、この街ではもう商売が出来なくなるのではないかと思わせる空気が、二〇二〇年にはあったから……。
いまならそんなこともあったよねと済ませられる話も、たった三年前はみな真剣だったのだ。
それはやはり「異常な時期」としか言えないだろう。二〇二一年・二二年と進むにつれ、感染したという話も少しずつ周りの人から聞くようになり、わたしはその状況にも慣れていったが、慣れていくに従いまた何かを失いもした。
わたしはなぜこんな「近過去」をくどくど書いているのだろう? まったく自分の軽さには嫌になるが、それはこんな時期があったことすら、この先わたしは忘れてしまうだろうから……。ほんとうに飽き飽きし、息苦しくて嫌になったマスク生活も、それはわたしが自分で選んだものである。何ひとつだって忘れていいはずはない。
わたしはこの三年、自分では比較的正気を保てたほうだと思っているが、それはここに店があったから、そしてこの店に人が来てくれたからだろう。この場所に自分ではない誰かがいて、話をできる環境にあったことが重要で、たぶん一人だけでは乗り越えられなかったに違いない。ほんとうにありがとうございました。
この期間を経たいま、店の営業時間は以前に比べると短くなり(21時閉店だったのが19時半閉店になった)、定休日も第一火曜日が一日増えて月六回になった。そしてお客さんを入れてのイベントは、いまではほとんど行っていない。しかし仕事をしている時間が減ることはなくて、その中身はむしろ濃くなった気がする。それは本を紹介して、必要な人に届けるというこの仕事の本質が、よりはっきりとした時期でもあったから。これからは自分がやりたいことではなく、やらなければならないことに時間を使っていきたい。
二〇二三年五月。いまぱっと見たところでは、店に来るお客さんの六割はマスクをしていて四割くらいの人はしていない。そして店でマスクをしていない人を見かけても、特にドキッとすることはなくなった。日本社会は同調圧力が強いから、そうしたバラバラである状況を通しながら、それぞれが「自分とは違う考え方の人もいる」ことを身に沁みて感じ、尊重し合えるようになればいいと思う。
わたしはと言えば、相変わらず店ではマスクをしている。だが5月8日、レジカウンターを覆っていたビニールは外すことにした。ビニールを外してみると、この店ってこんなに広かったっけと思ったくらい視界が広がる一方、カウンター内の乱雑さがこれまで以上にはっきりと目に付くようになり、すぐに恥ずかしくなった。
今回のおすすめ本
『From Tokyo わたしの#stayhome日記 2022-2023』今日マチ子 rn press
毎年この時期に発売されるようになった、漫画家の今日マチ子さんがコロナ禍の日常を絵と文で書き留めたシリーズの三冊目。最新刊の『From Tokyo』は2022年4月から2023年4月までの記録。『Distance』『Essential』『From Tokyo』と読み進めれば、年ごとに変わっていく社会の空気が思い出される。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
○2024年4月12日(金)~ 2024年5月6日(月)Title2階ギャラリー
科学者、詩人、活動家、作家、スパイ、彫刻家etc.「歴史上」おおく不当に不遇であった彼女たちの横顔(プロフィール)を拾い上げ、未来へとつないでいく、やさしくたけだけしい闘いの記録、『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』が筑摩書房より刊行されました。同書の刊行を記念して、原画展を開催。本に描かれましたたリーゼ・マイトナー、長谷川テル、ミレヴァ・マリッチ、ラジウム・ガールズ、エミリー・デイヴィソンの葬列を組む女たちの肖像画をはじめ、エミリー・ディキンスンの庭の植物ドローイングなど、原画を展示・販売いたします。
◯【書評】New!!
『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
◯【お知らせ】New!!
店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
○黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編 / お買いもの編
◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化決定!!】
スタジオジブリの小冊子『熱風』2024年3月号
『熱風』(毎月10日頃発売)にてスタートした「日本の「地の塩」をめぐる旅」が無事終了。Title店主・辻山が日本各地の本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方をインタビューした旅の記録が、5月末頃の予定で単行本化されます。発売までどうぞお楽しみに。
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本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。