

十年来の友人がいる。
しょっちゅう一緒に飲んだりメッセージを交わしたり、となかなかに濃く付き合ってきたつもりでいたが、先日ちょっとした贈り物をしようとしてふと手が止まった。彼の住所も電話番号も知らないのである。メッセンジャーがあれば連絡は取れる。渡したいモノがあれば、会うときに持っていけばいい。そんなスタンスで10年以上が過ぎたから、ついぞ手紙も書かず電話をすることなく来てしまった。濃いのか希薄なのか。なんとなく照れくさい気持ちで、連絡先を教えてと連絡をした。1ヵ月後、彼からなんとなく照れくさそうな感じで「お礼を送りたいから、電話番号教えて」とメッセージが来た。通販サイトを介して送ったので、前回の荷物に私の情報は記載されていないのだった。
もしも深刻な通信障害が起こったら、私たちは手紙を書くのだろうか。それもたまにはいいなと思う。彼はどんな字を書くのだろう。待ち合わせでは、ちゃんと会えるだろうか。──来て、くれるだろうか。
* * *
気づいたら、いなくなっていた。
昨年、SNSで知り合った友人の、アカウントの話である。検索しても「そんなアカウントはありません」的な、素っ気ないメッセージが表示されるばかりで、彼女のことは私の妄想に過ぎなかったのではないかと頭がくらくらした。不器用なまでにまっすぐで、どんなことでも納得のいくまで考え抜く。それでいて会うとキュートでちょっぴり毒があって、私は彼女が大好きだった。タイムラインに彼女の発言が表示されると嬉しくて、私も一緒に悩んだり笑ったり、ときに怒ったりもした。あの愛すべき発言の数々は、もう失われてしまったのだ。美味しいものが大好きな彼女を、連れていってあげたいお店があった。彼女の地元も行ってみたいと思っていた。でもこんなに突然、最初からいなかったかのように消えてしまうなんて。
後日、別のSNSでフォローしてくれたことを知って、心から安堵した。もちろんフォローバックする。つながりは切れやすいが、繋がりやすくもある。
* * *
世の中がミレニアムで湧いていた頃のこと。8月のある夜、新宿の狭く暗いバーへ──スナックという言葉のほうが似合う雰囲気だったが──行ったときの光景は、20年以上経った今でも鮮明に記憶している。オレンジ色の照明。てらてらと光る、ウレタン塗装のカウンター。ずらりと並ぶ、フォアローゼズの瓶。
「誕生日パーティーをやるんだ。軽食も出すからおいでよ」と友人から電話がかかってきたのは、前日の夜だった。彼との付き合いは3年ほど。周りが「付き合ってるの?」と言うほど、気が合ったししょっちゅう会いもする仲だった。店を始めるという話は少し前に聞いていた。開店祝いもとダブルのお祝いだねと、恋人を誘って駆けつけた。入るなりおめでとうとはしゃぎ、しばし談笑する。早い時間に行ったので、他の客はまだいない。
しばらくして出てきた“軽食”はウーロンハイと、パック入りの安っぽいおにぎり2つだった。
「ハイ、ひとり5,000円。今日はキャッシュオンデリバリーだから」
ずいぶん高級なおにぎりであるが、ここまで来ると引き返せる雰囲気でもない。何か言いたげな恋人を黙らせるべく、言われるまま2人分払った。おにぎりがどんな味だったのか、今となってはまるで思い出せない。30分もしないうちに店を出た。恋人の機嫌は翌朝まで治らなかった。
なんとなく気まずくなって、友人と連絡を取らずに1ヵ月。用事ができたので連絡をしたが、いくらかけても電話口に出ない。倒れてでもいるのだろうかとアパートに行ったら、入居者募集の札がかけてあった。嫌な予感がして店に行くと、店の看板が新しくなっている。中に入って尋ねると「よくわからないけど……店、全部そのままにしていなくなったって聞いたよ」と言われた。
何度も何度も電話したが、二度と彼の声を聞くことはなかった。
あんなにたくさん、一緒にいたのに。ディズニーランドも後楽園ゆうえんちも行った。映画館にもたくさん行ったし、お気に入りのカフェで何時間でもしゃべった。洋服を選び合ったり、ジムに行ったり、一晩中夢を語り合った。そうした思い出を利用されたのなんて、もうどうでもいい。生きて幸せでいてほしい。あれから20年以上。いくたび彼の名で検索をしても、ネットの海から掬い上げられるのは、
一緒に店に行った恋人とはそのあとすぐに結婚したが、ほどなくして離れた。今はもう、どこにいるのかすらわからない。
* * *
桜の季節に大学時代の恩師とふたり、散歩をしたことがある。仕事をお願いしていたので毎月、喫茶店で2時間ばかり会っていたのだ。その日、先生は珍しく、帰りに散歩をしたいと強く主張した。「桜がきれいな道の向こうに、靴屋さんがありますからそこまで。靴を買ってあげましょう」
なぜ靴。それは丁重に断ったが、桜は見ることにした。特に話題があるわけでもなく、「空がきれいですね」「桜が、ほらあんなに」などと言葉を交わしつつ、ゆっくりと歩く。「では、仕事のほう、よろしくお願いします」と伝えて、駅前で別れた。
締切が来ても、メールは届かなかった。何度電話をしても、つながらない。仕事は別の恩師に頼み込んでやってもらい、ただ翌月分の仕事の話もあるので電話をかけ続けた。住所を知らないので、会いにも行けない。1日に数回、半月ほどもかけ続けた頃、ようやく電話を取ってもらえた。「もしもし」と応えるその声は、先生の姉と名乗った。
「突然だったんです。本当に……」
大学を卒業してからも毎月会って、駅前のタバコ臭い喫茶店でコーヒーを飲みながら、たくさん心理学の話をした。授業でたくさん資料を配布する人だったが、喫茶店でも会うたびに山ほど資料をくれた。メールをすれば長い返信がすぐに来る、電話をすれば長話になる。こんな日々がずっと続くと思っていた。ずっと「先生、話、長いなぁ……」と困り続けて、重たい資料を持ち帰って。
* * *
現代のつながりの儚さのような、しんみりとした思い出を4つも書いてしまったが、昔のほうがもっと切れやすかったのだろう。つながる手段は少ない。紙で保管した住所録は紛失すればアウトだし、社会情勢も不安定だった。会いたいと思いながら叶わないまま、終わった縁も多かったのだろう。SNSのアカウントがきれいさっぱり消えてしまうように、「あの人は、ほんとうに“いた”のだろうか」と思えるほどぱったりと、消息が途絶える人もあったのだろう。
それに比べ、現代はつながる手段が格段に増えた。偽名でも、会わなくてもつながることは可能だ。一生のうちにつながる人の数も、桁違いに増えただろう。学べることも、味わえるときめきも、友情の嬉しさもかつてとは比べ物にならない。そしてその数の分だけ、私たちは別離の悲しみも引き受けることになったのだろう。死別やアクシデントばかりではない。どんなに自分が会いたいと願ってコンタクトを取っても、相手がそう思っていなければ縁は途切れてしまうから、別離はどうしたって避けられない。その日が来たとき、せめて少しだけ悪あがきするために、好きな人たちの連絡先はひとつでも多く聞いておきたいと思うのだった。拒絶されたっていい。それもまた人生だ。それでも深くかかわろうとすることが、出会いも別れも多くなった時代の、希望でもあるのだろうと私は思う。
●エッセイのおまけとして、今回のエッセイを書きながら強く思い出していた「別れと出会い」を描いた本を3冊ご紹介します。
燃え殻『これはただの夏』(新潮社)
「どうしてだか、こうなってしまった」という人生たちが呼び合うように出会ってしまった夏の物語。読者として「お願いだから、こうなって」という期待があらゆる場面で裏切られていく読書体験に、強い日射しのもとでは影もまた濃くなる、そのことを思いました。
凪良ゆう『汝、星のごとく』(講談社)
男女それぞれの視点から恋愛と人生が活写される作品。ヤングケアラー、夢を追うこと、ネット社会の病理、女性の自立など、怒涛のように問題が訪れるなか「自分を縛る鎖は自分で選ぶ」という言葉に胸を打たれました。なお、私は若い頃に『冷静と情熱のあいだRosso』(江國香織)『冷静と情熱のあいだBlu』(辻仁成)を数え切れないほど読みました。誰かを思ったまま、別の人と縁をつむいでいくこと。若かった頃は大分、恋愛観に影響を受けたのを覚えています。
清原なつの『アレックス・タイムトラベル』(早川書房)
私はもう30年近く清原なつの先生のファンなのですが、本書に収録されている「カメを待ちながら」はずっと繰り返し読み続けている作品です。思いを残して別れた人を、老境に差し掛かっても待ち続ける妻。帰ってくるんじゃないかと、結婚してもずっと。歴史はダイナミックに動いていくけれど、心は立ち止まったまま──そんな出会いって、ありますよね。