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夜のオネエサン@文化系

2023.01.18 更新 ツイート

私も祈る。しかし一体どこに向かって。~祈り・藤原新也展 鈴木涼美

母がカメラを凝視しながら体を四十五度ほど傾けた。風景を背景にしたことのない世代のぎこちなさだった。
(「風景の使い道」より)

これは昨年末に同年代の女性編集者に教えてもらったキム・エランの短編集『外は夏』に収録された作品の中の文で妙に印象に残っているのだけど、同じ作品の中にはこんな一文もあった。

何かを与えると同時に奪い去っていくのは写真が常にしてきたことの一部だから。

 
『外は夏』(キム・エラン著、古川綾子訳、亜紀書房)

『外は夏』は韓国で大変人気の作家が「喪失」をテーマに紡いだ作品集で、長く一緒に暮らし、今は別れることがどうやら片側の意思で決定されている恋人同士や、子供をバスの事故で亡くした両親、癌になった愛犬の安楽死のためにアルバイトを始める貧しい男の子らを描く物語8編で構成されている。どの作品も今の私に酷く影響を与えるものだった。

生きることは常に何かを選び取ることだし、何かを選び取ることは常に何かを喪失することだから、喪失というテーマはとても広い。恋人やペットと別れることはある意味で分かりやすく関係性の喪失だけど、失ったのは恋人とその関係だけなのかというとそんなこともない。

時折、自分の未来や生活そのものが奪われるような喪失経験というのはあって、動物と違って自分を殺すことのできる人間は、その喪失を生きたまま乗り越えるにはどうしたら良いのかと腐心することに多くの時間を割いている。で、失恋ソングや葬式やペットの墓や文化芸術が生まれるのだけど、カラオケで失恋ソングを立て続けに歌ったところで、それもまたある意味何かを失っているような気がしないでもない。

喪失は常に天秤の片側に乗せられていて、ある時はそれを失うことで得られるものと、またある時は自分の生そのものと、秤にかけられる。それを失ってまで選び取るに値するのかという問いと、それを失った世界は生きるに値するのかという問いが毎日連続して押し寄せて、おざなりに答えを出しているうちに取り返しのつかないところまで来ている、これ即ち人生です。

Ⓒ藤原新也

そんな余韻とおとなしめのセンチメンタルを噛み締めながら、世田谷美術館の藤原新也展「祈り」(これも昨年末に友人で詩人の友香さんに教えてもらった)を見に行った。『メメント・モリ』の2008年版を数年前に買ったのは覚えていて、私はその時にどちらかというと被写体となっている人間の方に目が行って、バラナシの海岸で印を結んで死んだ老人や、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」というコピーが印字された死体などまさにメメント・モリなものは今回の展示にも含まれていたのだけど、それ以上に展覧会では月や花といった自然の写真の存在が目立った気がした。

半分は私がそういった写真を気にするようになったからで、半分は展示作品の中で実際にかなりのボリュームが割かれていたからだと思うが、沖ノ島やバリ島の虫だの山だのとともに、自然を改変することをほとんどその存在意義としてきたような人間という存在への警笛とも思える文章が、些か以前よりもストレートな言葉選びで並んでいる。

写真が何かを与えると同時に奪い去るという冒頭の小説の言葉に倣えば、なるほど焦点を合わせて撮影がなされるときに白飛びするような背景やその前後の文脈というのは奪い去られるような気がするけど、時にその写真があることでその写真に映らない背景や文脈がより鮮明に浮かび上がるような写真というのがあって、藤原新也の作品というのは得てしてそういう写真だと思う。月やら花やらを見せられているのに、浮かんでくるのはやはり人であって死である。

結局私は原宿にいようが鎌倉にいようが群馬の温泉に浸かっていようが、人間の形をしていないものをほとんど捉えられない。人のいない瞬間を切り取って手付かずの自然がこんなところに、と言いながら、人の不在をあえて発見することで人のことを考えざるを得ないのだ。世田谷美術館で平日の午前中だというのに結構な人出だなと思いながら沖ノ鳥島の禁足地に残る手付かずの自然を見て、別に帰り道にゴミを拾うでも歩いて帰るでも、ましてSDGsと書かれたエコバックを使うでもなく、愚かしい人間の所業をなぞるようにしてゴミだらけの渋谷に戻って行った。

平日に美術館に行儀の良い年配の人が集う世田谷区はリベラルな区長を選出するような実に民度の高い街で、おそらく区民の多くが差別主義や排外主義ではなく、多様性を重んじ、自然を重んじ、プロレタリアートの幸福を重んじて生きてきたのだろうけど、実際に見渡す限りは多様性に乏しく、プロレタリアートは少なく、美術館に併設されたレストランもまた昼時には満席に近くなり、所狭しとそこそこ品の良い住宅が立ち並んでいる。

ちなみに歌舞伎町や大久保のように実際に多様性があり、またそれを受け入れざるを得ないような街の住民は存外保守的な傾向が強くて排外主義的で選挙は思考停止的に自民党に入れてしまうようなところがある。交換留学なんて言って世田谷のブルジョワがカナダのブルジョワとしばし入れ替わって文化の違いだ多様性だなんて言うくらいなら、新宿区と世田谷区で事足りるんじゃないかと少しだけ思って、でも中途半端に穢れるくらいなら、綺麗な場所で本来的な正しい意味での綺麗事を言っている方が研ぎ澄まされていくような気もした。

子育てをするなら多様性のある街よりも多様性を重んじるような風土のある多様性のない街の方がいいのかもしれません。どっちにしろ子供は育った場所に反発して歓楽街に出ていくものだし。

関連書籍

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夜のオネエサン@文化系

夜のオネエサンが帰ってきた! 今度のオネエサンは文化系。映画やドラマ、本など、旬のエンタメを糸口に、半径1メートル圏内の恋愛・仕事話から人生の深淵まで、めくるめく文体で語り尽くします。

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鈴木涼美

1983年東京都生まれ。蟹座。2009年、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。著書『AV女優の社会学』(青土社/13年6月刊)は、小熊英二さん&北田暁大さん強力推薦、「紀伊國屋じんぶん大賞2013 読者とえらぶ人文書ベスト30」にもランクインし話題に。夜のおねえさんから転じて昼のおねえさんになるも、いまいちうまくいってはいない。

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