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世襲 政治・企業・歌舞伎

2023.01.06 公開 ツイート

#6

西武・堤家は二人の二代目が拡大した挙げ句に破綻 中川右介

セブン&アイ・グループ傘下の百貨店「そごう・西武」が経営不振から売却されたのは昨年12月。かつての西武・(つつみ)家が、百貨店経営だけでなく映画や演劇、美術館まで乗り出す「セゾン文化」で一時代を築き、プリンスホテルなどのリゾート開発で日本を熱狂させた栄華も今や昔。継承の分岐点はどこにあったのか。世襲が目立つ三業界(政・財・歌舞伎界)を徹底比較した『世襲  政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)から、一部を抜粋してお届けします。

*   *   *

西武コンツェルンは、西武鉄道を主軸に、そのターミナルの池袋に西武百貨店を開業し、沿線各駅に西友ストアー、郊外に遊園地の豊島園や西武園を有し、さらに宅地開発もしていったので、阪急のビジネスモデルを踏襲しているかのように見えるが、そうではない。別荘地・観光地の開発をする不動産事業が始まりで、なりゆきで鉄道を始めた。阪急や東急とは逆なのだ。

また、西武コンツェルン総帥・堤康次郎(つつみやすじろう)(一八八九~一九六四)は早稲田在学中からの政治活動の延長として、衆議院議員として議長にまで上り詰めた政治家でもあった。そのビジネスは政治と密接に絡みついており、昭和の暗部のひとつでもある。たとえば、大事故を起こした東京電力福島第一原発は、西武が持っていた土地に建てられている。堤に限らず、昭和までは大企業の社長が兼業で国会議員になっていた例は多い。政治と企業の癒着どころか一体となっていた。

二つの西武へ

堤清二は一九五一年に東京大学経済学部を卒業した。在学中は日本共産党に入り活動していた。当然、父からは勘当同然になる。結核になったこともあり党活動から離れ、快復後の五四年に西武百貨店に入社し、五五年から取締役店長と、西武鉄道取締役になった。また、辻井喬(つじいたかし)名で詩集を発表、後には小説も書くようになる。

西武百貨店は、堤康次郎が一九四〇年に菊屋デパート池袋分店を買収し、「武蔵野デパート」としたのが始まりだった。清二が任せられた時点では池袋店しかなく、グループ全体のなかでは傍流だった。同社は一九五六年に西武ストアーを設立し、小型店舗の出店を始めた。神戸で中内㓛が主婦の店ダイエーを開業するのは五七年である。六三年四月に西友ストアーが新たに設立され、西武線の各駅を中心にスーパーマーケットチェーンの展開を始めた。

西武百貨店・西友ストアーが事業展開を始めた直後の一九六四年四月、堤康次郎は亡くなった。堤清二は若き百貨店経営者としてマスコミによく登場していたので、西武コンツェルンの後継者と思われていたが、康次郎の葬儀で喪主を務めたのは、三十歳で、社会的には無名の義明だった。

堤義明は早稲田大学第一商学部に入学し、早稲田大学観光学会を立ち上げた。このサークルでの仲間が、後に西武グループの幹部になる。卒業すると国土計画興業に入社し、五七年に同社取締役、六〇年に西武鉄道取締役となった。常に父のそばにいることを義務付けられ、人をどう使うかなどの帝王学を授けられていた。義明のアイデアで作られたのが、大磯ロングビーチや苗場のスキー場だ。

康次郎は東京駅で倒れて入院し、二日後に亡くなっているので、親類縁者と西武の幹部を前にして、「義明が後継者だ」と指名したわけではない。清二によれば、数年前から「自分は継ぐ気はないから、義明に継がせてくれ」と父に言っていたという。清二を傍系である百貨店の社長とし、義明を中核企業の国土計画に入れた時点で、すでに後継者は義明であることは明らかだったのかもしれない。

かくして父の急死後、異母兄弟による骨肉の争いは起きず、義明が後継者となった。もっとも、まだ三十歳だったので、当面は、いわゆる集団指導体制で、康次郎の側近たちが経営を担っていく。義明は父から「十年は何も新しいことをするな」と厳命されており、 その言いつけを守る。

兄弟の業務分担で、清二は西武百貨店と西友を持ち、持株会社である国土計画と西武鉄道などは義明が掌握した。プリンスホテルは康次郎存命中は清二が関わっていたが、鉄道グループに属すことになった。

清二は事業を拡大した。西友ストアーを各地に開店し、六八年にはライバル・東急の本拠地の渋谷に西武百貨店を出店した。五島昇に挨拶に行き、共存共栄しようということになっていた。さらに池袋の西武百貨店に隣接する百貨店・東京丸物を買収すると、一九六九年にPARCOを開業した。

堤康次郎の七回忌を機に、義明は異母兄・清二と「相互不可侵」を決めた。一九七一年、清二が担っていた西武百貨店や西友を「西武流通グループ」として分離独立させ、国土計画を中核とした、西武鉄道やプリンスホテルなどは「西武鉄道グループ」として義明が率いていくことになった。

一見、兄のために財産分与したようだが、本音は違う。清二は事業資金を銀行からの借入金で賄っており、銀行は鉄道グループが持つ土地資産があるから貸していた。清二が失敗した場合、義明が債務を負うことになるので、それを避けるための分離だった。

とはいえ、鉄道と百貨店の株の持ち合いは続いていたし、清二は西武鉄道の取締役であり続けた。分離独立しても、西武百貨店池袋店をはじめ西友ストアーの多くは西武線の駅の敷地にあり、鉄道や百貨店・スーパーの利用者からすれば、「西武」はひとつだった。

義明の同母弟である康弘は豊島園の社長など、猶二はプリンスホテルの社長など、鉄道グループの要職に就いた。

康次郎のもうひとつの顔である政治家は、子どもたちは誰も継がなかった。滋賀県の選挙地盤は大蔵官僚だった山下元利(がんり)が継いで、一九六七年に初当選し九四年に亡くなるまで十期務める。邦子の元夫・森田重郎が参議院選挙に埼玉県から立候補するのは一九七七年だった。

堤家の世襲は、家庭が複雑なわりにはうまくいったように見えた。

だが、ここまでだった。

堤一族支配の終焉

西武コンツェルンは堤康次郎の死後、清二が継いだ西武百貨店・西友ストアーを中心にした流通グループ(一九八五年に西武セゾングループ)と、国土計画(後、コクド)を中軸とした鉄道グループとに分離して、それぞれ成長・発展していった。

一九九〇年に堤清二は「西武セゾングループ」を「セゾングループ」と改称した。「西武」の看板を外したのである(西武百貨店の名称はそのまま)。八六年には西武鉄道取締役も辞任したので、兄弟は絶縁したのかと興味本位に伝えられた。さらに八七年には「ホテル西洋銀座」を開業、八八年には世界的なホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」を約二八〇〇億円で買収し、ホテル事業にも乗り出した。詩人で作家の辻井喬であることも知られ、映画や演劇にも乗り出し、百貨店内に美術館も開設し「セゾン文化」として一時代を築く。清二の異母弟の猶二は義明のもとでプリンスホテルの社長をしていたが、セゾングループに移り、ホテル事業を担当した。

一方、堤義明はリゾート開発を積極的に進めた。一九七八年末には埼玉県所沢市に野球場を建て、プロ野球球団を買収し、西武ライオンズとした。アイスホッケーのチームも持ち、堤義明はスポーツ界にも影響力を持つようになる。兄の「セゾン文化」に対抗するかのようだった。

両グループとも土地の値上がり依存型経営で、バブル経済で急拡大した。とくに義明は都心の一等地にプリンスホテルを持つので、その土地資産の価格などで「世界一の富豪」となった。

だが昭和が終わり、一九九〇年代にバブルが崩壊すると、まずセゾングループが経営危機に陥った。そのさなかの九一年、堤清二は唐突に引退を表明し一線から退き、作家活動を旺盛に始めた。セゾングループは集団指導体制になるとされた。

なかでも、リゾート開発をしていた西洋環境開発は巨額の負債を抱えて、東京地裁に特別清算を申請、清二は私財提供を求められた。

中核企業の西武百貨店も二〇〇〇年に第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の管理下に置かれた。西友、PARCO、ファミリーマート、リブロなどグループ会社はバラ売りされていき、「セゾングループ」は跡形もなく崩壊した。

堤清二の長男・康二(こうじ)(一九五八~)は、一九八二年に角川春樹事務所(旧、映画製作会社)に入り、八四年にセゾングループのシネセゾンの取締役となり、映画製作に携わった。その後、西武百貨店に入り八八年に取締役、九八年にはPARCOの取締役になった。だがグループ全体の総帥にはならなかった。

堤義明もバブル崩壊の波をかぶってはいたが、その事業は安泰であるかに見えた。

だが二〇〇四年、思わぬかたちで、堤王国は崩壊する。

西武グループは法人税を払わないので有名だった。常に借入金があるため、利益が出ていないことになっていたのだ。西武鉄道は上場していたが、その株の半数近くを持つコクドは非上場で、その三六パーセントを義明が保有していることになっていた。プリンスホテルや西武ライオンズはコクドの一〇〇パーセント子会社である。

二〇〇四年四月、まず西武鉄道が総会屋に利益供与していたことが発覚し、堤義明は同社会長を辞任した。しかしコクドの会長は辞めなかった。

ところが十月に西武鉄道の有価証券報告書に虚偽記載があったとして、義明はライオンズ・オーナーを含めた全ての役職を辞任すると発表した。

西武鉄道の株主とされている人の多くが名義だけで、実態はコクドが八〇パーセントを超える株を持っていたのである。東京証券取引所は西武鉄道の上場を廃止した。さらに、〇五年三月に証券取引法違反で義明は逮捕された。

西武鉄道株は暴落し、その大株主であるコクドは債務超過となり、主力銀行であるみずほコーポレート銀行を中心にした「西武グループ経営改革委員会」が作られ、堤一族は経営権を剥奪された。

堤家の康弘と猶二は異母兄の清二と連携し、自分たちの権利を主張するが、委員会は堤一族排除のまま改革案を作った。

西武グループは堤家の手を離れたが、セゾングループのように解体はされず、西武ホールディングスの傘下に、コクドを吸収合併したプリンスホテルと、西武鉄道がある形に再編された。

堤義明の長男・正利(一九七〇~)は西武建設に入っていたが、もともと義明は「子どもには後を継がせる気はない」と公言していた。

しかし継がせたくても、もう西武は堤家のものではない。

 

※『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)の試し読みはここまでです。続きは本書をお手にとってお楽しみください。

関連書籍

中川右介『世襲 政治・企業・歌舞伎』

日本の企業数は約三六七万社、そのうち九九%が中小企業で、規模が小さい「家業」ほど世襲率は高くなる。本来、実力ある者が後継すればいいだけなのに、システムとして不合理で無理筋、途絶や崩壊の可能性が高い「世襲」はなぜ多いのか。破綻を回避する術はあるのか。世襲が目立つ三業界――公職の私物化が進む政界、基幹インフラ産業の自動車・鉄道、藝は一代限りともいいながらほぼ世襲の歌舞伎界――を比較研究。このグローバルな時代にいつまで「家業」を続けられるか。実例でみる栄枯盛衰の世襲史。

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世襲 政治・企業・歌舞伎

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中川右介

一九六〇年東京都生まれ。編集者・作家。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版(二〇一四年まで)。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ、政治、経済の分野で、主に人物の評伝を執筆。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、データと物語を融合させるスタイルで人気を博している。『プロ野球「経営」全史』(日本実業出版社)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『国家と音楽家』(集英社文庫)、『悪の出世学』(幻冬舎新書)など著書多数。

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