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幻年時代

2022.11.19 更新 ツイート

四歳、巨大団地が世界のすべてではないと知った「自由の原点」 坂口恭平

四歳の春。巨大団地を出て、初めて幼稚園に向かうときの400メートルの道のりを軸に、記憶を建築物のように積み上げた坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』。本書を読むと、現在をつくる記憶の重なりと、過去と未来が入れ替わるような時間を感じることができます。文庫解説で渡辺京二さんは「日本近代文学史上、誰も書かなかった小説」と評されました。このパノラマのような小説の一部を抜粋してお届けします。

(写真:iStock.com/yokoken)


 

冒険の始まり

断片的だった記憶が連続した線を結ぶのは四歳からだ。新宮町にある電電公社の団地に〇歳からずっと住んでいたが、この年、僕たち家族は団地内の古い建物から、新しく建てられた二十棟ほどの新社宅の一つである十一棟へと越した。

新宮町の電電公社の団地はかなり広大な敷地に三十棟ほど建てられており、僕はこの団地の建てられた領域を世界のすべてであると三歳まで思い込んでいた。四歳になり、新宮西幼稚園へ通うことで初めてそれ以外の世界の存在を知ることになる。

十一棟の周辺は新しいアスファルトで舗装されており、その道は団地を抜けると砂利道に切り替わる。アスファルトと砂利の違いは、僕には境界線のように感じられていた。アスファルトは絨じゆう毯たんであり、砂利道はそこが室内ではないことを意味していた。砂利はまだ白かったので、アスファルトと同じように新しく敷き詰められたばかりだったのだろう。人間の足跡と付き合いの浅い白っぽい砂利を見ると、僕にはそれが自然物ではなく、もっと人為的なものに思えた。

道の横を見ると、フェンスの網の向こうに松林と砂浜が続いている。僕の足下はすべてアスファルトで覆われているが、団地が建つ前には、ここも松林だったのかもしれない。砂浜も続いていたのだろう。十一棟の裏には庭があり、そこにも砂があった。しかし、裏庭の砂と砂浜の砂は種類が違う。裏庭の砂はどこかから運んできた匿名の人工物に見えた。

砂だけではなかった。裏庭に生えた短い草、花、樹木、そういった自然物すべてが、どこか遠くから突然連れてこられた違和感をはらんでいた。植物にはそれぞれ名前があったはずなのだが、僕にはのっぺらぼうの緑としか認識できなかった。

そんな匿名の植物や砂でもまだ、自然物であることは理解できた。一方で砂利は、僕にとって一番タチの悪い人工物だった。砂利は、草などとは違い、どこかの誰かがゼロからつくったものに思えたからだ。

砂利は、僕が暮らす電電公社の団地内には見当たらなかった。砂利道は団地の裏手となる電電公社の土地ではないところから始まっていた。しかし砂利道は、イコール外の世界ということでもなかった。砂利道は内と外の混ざった曖昧な空間として、外界と電電公社の団地を繫いでいた。


僕が、これから母ちゃんと向かおうとしている新宮西幼稚園は、砂利道というグラデーション、あるいは境界線を抜けた先にある。

砂利道に入り、横に目をやる。鉄製のフェンス網があり、上には鉄条網まで張られている。幼稚園児である四歳の僕も、それらが放つ「これより先へ入ってはいけない」というメッセージをたやすく理解できる。黄色と黒のストライプ模様の板も立っている。黄色と黒がぶつかった火花は、そこから先が危険地帯であることを伝える。そう理解しつつ、しかし僕の目には、向こう側がまったく危険な場所に見えない。鉄条網の先には白くてさらさらした砂が、松林群と戯れるように横たわっている。自然の力に溢れた曲線が躍動している。むしろ、それらは「危険である」と演じているだけのように感じられる。絨毯に見えていたアスファルトの印象が一瞬だけ別の顔を見せた。

もしかして、僕は何者かによってだまされているのではないか。じつはここは牢屋であり、閉じ込められているのは松林と砂ではなく、僕のほうなのではないか。そんな可能性が芽を出す。だが、たとえ牢屋に閉じ込められていたとしても僕には家族がいるのだからそれでもいいや、というからっとした気持ちもある。牢屋なのだとしたら、そこから脱出を試みることもまた楽しい遊びになるかもしれない。

それに僕には心強い仲間もいる。まずはタカちゃん。それから同じ棟に住む小林兄妹だ。

僕より三つ年上で、すでに小学生である小林兄は、同級生から「コバヤン」と呼ばれていた。僕もそう呼んだ。コバヤンたちはスピード狂の種族だった。団地全体をサーキットと捉え、リレー形式の自転車レースを開催していた。まだ幼稚園生だった僕はその熱狂に憧れているが、レースに参加することができない。ただ、僕の住む十一棟では革命が起きていた。年齢に関係なく全員が参加できる遊び集団が形成されていたのだ。そこでは年下が年上を馬鹿にしても許容される空気が流れていた。その中で、コバヤンは僕とタカちゃんに遊び方を教えてくれていたのである。お礼に僕は、コバヤンを小馬鹿にするような歌をつくり、彼に贈った。

このときまだ僕とタカちゃんは、鉄条網をくぐり抜ける大脱走を実行に移していない。実行するのは小学生のときだ。しかし幼稚園の時点ですでに鉄条網との闘いは幕を開けていた。幼稚園までの砂利道を母ちゃんと一緒に歩きながら、現地調査を始めていた。僕にとって通園とは、子どもたちにその場から離れることを強制する鉄条網やさまざまな看板や図案を解析し、その先に広がる松林と砂、つまりは自由の場所へ脱出する方法を探るための偵察でもあった。

いつかあの鉄条網を仲間と越える日がくるだろう。僕は松林と戯れる自分を想像した。しかし目の前の現実らしき世界に焦点を合わせると、途端に鉄条網の向こうの景色からはピントが外れ、松林はぼやけていった。


砂利道を母ちゃんと歩いている。母ちゃんもやはり、「あの先には行っちゃだめよ」と言った。一番身近な人間である母ちゃんも、牢屋の中の囚人である僕を管理する側に回っていた。しかし母ちゃんが悪いわけではないことも理解できる。だとしたら、いったい誰が悪いのか? 敵の姿は見えなかった。いったい僕はなにから逃げようとしているのか? それがまずわからない。僕が暮らすこの団地は、自分にとって、家族にとって、幸福そのものであるようにも感じられる。

しかし一度家族という共同体から抜け出た無音の世界に入ると、僕はどこかに囚われており、そこからの脱走を狙っている不自由な冒険者であるのだと自覚してしまう。

母ちゃんの笑顔は、僕に対して何らかの秘密を隠すための道具なのかもしれない。僕の記憶も安定した保存が開始する以前から管理され収容されていることに気づかないように操作されていたのだとしたら恐ろしい。そこで、僕はまた子どもの存在に還ろうと試みる。松林を眺めて、自由を知る。同時に、その自由に手が届かない己の欠如と、まだ気づいていない謎の存在を予感する。

僕は、子どもに戻った己の手を非情にも引っ張っていく手が、優しい母ちゃんの手であることを再認識し、黙ってそれに従い、進むことにした。

砂利を踏む音がする。時折、小石を蹴ると、石粉が靴に染み込んでいく。母ちゃんの手は安らぎである。その安らぎと触れている。同時に石粉で汚れることで安心しようとしている僕もいる。

幼稚園に続く道、この通園路、おそらくなんの変哲もないこの道行きこそが、僕の原点である。僕の冒険はここから始まった。いつも風が吹いていた。朝の光は長い影をつくり、その影が植物と人工物の境目を溶かしていく。


※続きは、『幻年時代』をご覧ください。

関連書籍

坂口恭平『幻年時代』

四歳の春。巨大団地を出て、初めて幼稚園に向かった。この四〇〇メートルが、自由を獲得するための冒険の始まりだった。忘れたランドセル、家族への違和感、名づけの秘密……。錯綜する記憶の中で、母に手を引かれ、世界を解明する鍵を探す。生きることに迷ったら、幼き記憶に潜ればいい。強さと輝きはいつもそこにある。稀代の芸術家による自伝的小説。

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幻年時代

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坂口恭平

1978年熊本県生まれ。建築家、作家。2001年早稲田大学理工学部建築学科卒業。大学在学中から大規模な現代建築を設計する建築家に疑問を持ち、人が本来生きるための建築とは何かを模索しつづける建築家であり、死なないための方法として表現し続ける作家・絵描き・踊り手・歌い手。著書に写真集『0円ハウス』(リトルモア)、『TOKYO0円ハウス 0円生活』(河出文庫)、『隅田川のエジソン』(幻冬舎文庫)、『独立国家のつくり方』(講談社現代新書)、『思考都市』(日東書院本社)、『モバイルハウスの三万円で家をつくる』(集英社新書)、『幻年時代』(幻冬舎/熊日出版文化賞受賞)、『坂口恭平 躁鬱日記』(医学書院)、『自分の薬をつくる』(晶文社)、『Pastel』(左右社)ほか多数。

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