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本屋の時間

2022.10.01 公開 ツイート

第142回

ページワンの午後 辻山良雄

先日、日本に上陸した台風14号は、「過去に類似がないほど危険な台風」(気象庁)という情報が事前より伝えられていた。910、930といったヘクトパスカルの数値は正直ピンとこなかったが、その日(東京に最接近する二日前の9月18日)降っていた雨の強さを見ると、とにかく備えておいたほうがよいレベルだということはすぐにわかった。それで、ギャラリーに在廊予定だった作家の安達茉莉子さんに、「今日は止めておきましょう」と伝えたあと、翌日の19日は18時までの短縮営業にした。

 

19日。風はかなり強くなったが、雨は前日ほど降っていない。ときおりうっすらと差す陽の光を見ると、判断するのが早かったかなと少し後悔したが、18時には予定通り店を閉め、普段外に出しているゴミ箱や脚立、観葉植物などを店の中に入れ、その日は早々に帰宅した。

天候による進退の判断について考えたとき、かつて毎週末のように行った登山のことを思い出す。山の天気というのは麓では晴れていても、山頂近くでは荒れていることも多い。尾根筋で急に暗くなったと思ったら嵐のような風が吹いてきて、近くの岩山にどぉんと雷が落ち肝を冷やしたこともこれまでにはあった。

そのような時、人知れず重圧を抱えているのが、隊を率いるパーティーのリーダーだ。頂上はすぐそこにある。しかし天候は急変しており、突き進むのは危険だ。山頂まで行きたいのは、リーダーを含めたそのパーティー全員の望みだろうが、そこで引き返す勇気があるかどうか。

「やっぱり、ここで止めよう」

大学のころ、登山道の途中でそうはっきり言った三年生の先輩は、その時少し苦笑いしていた。それはいま考えれば、決断という重圧から解き放たれた表情だったのかもしれない。しかしまだ山登りをはじめたばかりで、一つでも多くのピークを踏みたいと焦っていた当時のわたしにとって、そのあきらめを含んだMさんの笑いは、「優柔不断」としか映らなかった。

もう少し歩けば頂上まで行けるのにもったいない。

文句こそ言わなかったが、その時のわたしは渋々山を下りた。

三年生になった夏、今度はわたしもパーティーのリーダーとなり、北アルプスを縦走することになった。その年、一番難易度の高いコースに挑戦したわたしのチームには、体力に自信のあるメンバーが集まっていた。しかし縦走も終わりに近づいた三日目の夜、一年生で唯一参加していた、女性メンバーSの体調が急に悪くなった。テントを張っていた山小屋には、夏山シーズンだけ開いている診療所があったので、そこにすぐ彼女を連れていった。

「安静にしていれば落ち着くでしょう。今日はここで寝ていきなさい」

医師は心配ないという顔つきで話し、その夜Sは診療所のベッドに泊まることになった。しかし、明日は行程の最終目標である槍ヶ岳に登る日だ。この状態だと彼女が登ることは難しいだろうが、はたして残りのメンバーはどうすればよいのだろう。

 

テントに戻ったあとそこにいた全員で話し合い、翌日はわたしが山小屋に残り、他のメンバーはサブリーダーが率い、ここから槍ヶ岳まで日帰りで往復することにした。行動時間は予定よりかなり長くなるが、みな体力があるし、身軽にしていけば大丈夫だろう。

翌日の朝、山頂に登りに行ったメンバーを見送ったあと、診療所のベッドに寝ていたSの様子を見にいった。彼女はぐっすりと寝ていたが、昨夜往診してくれた医師は今日もいて、体調は随分よくなったと伝えてくれた。

「他の子はどうしたの?」

「ピストンで、槍ヶ岳を登りに行きました」

「それできみは一緒に行かなかったの?」

「うーん、何かあったら彼女の親にも連絡しなきゃいけないし……」

そう聞くと、その医師はしばらく黙って何か考えていたが、急に破顔し、大きな声で「えらい!」と笑った。

わたしがその場に残ったのは、こんな時、Mさんならそうするだろうと思ったからだ。「みなを無事に家まで帰すことが、リーダーのいちばんの責任なんだ」。いつだったか彼は、わたしにそう言ったと思う。お前もこの先リーダーになるだろうから、伝えておくとも……。

Sの体調は昼頃にはすっかりよくなったので、わたしと彼女はトランプでページワンをしながら、みなが帰ってくるのを待った。夕方、山の稜線を背景に、六人ほどの人影が降りてくる姿がようやく見えた。

 

いちど振り上げた拳をおろすのは、誰にとっても難しい。ましてや関わっている人間が多いほど、その困難は増える一方だろう。

災害が目に見えて多くなった近年、電車の計画運休、社員を早退させる会社も増えてきた。とてもよいことだと思う。結果的に何もなかったとしても、それは多くの備えがあったからで、その備えがなければ被害はもっと大きいものだっただろうから。

たとえ一度決めたことでも、その方がよいと思うのであれば、あとに引き返すことだってできる。そう知っているだけでも、随分と気が楽になるのではないか。

「やると決めたからやる」。偉くなればなるほど、人は頑なにそう思ってしまうようだ。しかしそこにはいつても引き返す道だってあることを、わたしは忘れないようにしたい。

今回のおすすめ本

臆病者の自転車生活』安達茉莉子 亜紀書房

自転車のジの字も知らなかったひとりの女性が、ふとしたきっかけからそれに目覚め、電動アシスト、ロードバイクと、まだ見ぬ遠くへこぎ出していく物語。たとえ小さなことでもそれを自分の力で乗り越えることで、その人は真の意味で自由になれる。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

○2024年4月12日(金)~ 2024年5月6日(月)Title2階ギャラリー

『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』小林エリカ原画展

科学者、詩人、活動家、作家、スパイ、彫刻家etc.「歴史上」おおく不当に不遇であった彼女たちの横顔(プロフィール)を拾い上げ、未来へとつないでいく、やさしくたけだけしい闘いの記録、『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』が筑摩書房より刊行されました。同書の刊行を記念して、原画展を開催。本に描かれましたたリーゼ・マイトナー、長谷川テル、ミレヴァ・マリッチ、ラジウム・ガールズ、エミリー・デイヴィソンの葬列を組む女たちの肖像画をはじめ、エミリー・ディキンスンの庭の植物ドローイングなど、原画を展示・販売いたします。
 

 

【書評】New!!

『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
 

【お知らせ】New!!

「読むことと〈わたし〉」マイスキュー 

店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
 

黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編  / お買いもの編
 

◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化決定!!】

スタジオジブリの小冊子『熱風』2024年3月号

『熱風』(毎月10日頃発売)にてスタートした「日本の「地の塩」をめぐる旅」が無事終了。Title店主・辻山が日本各地の本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方をインタビューした旅の記録が、5月末頃の予定で単行本化されます。発売までどうぞお楽しみに。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

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辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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