家族の気持ちがバラバラな若菜家。その仲を取り持ってきた母の玲子に異変が。本音を隠すことでバランスを保っていた“家族”が叩きのめされ、何かが変わり始める――。家族の存在意義を問う感動の傑作長編、その冒頭部分を公開!! 文庫解説は石井裕也監督です。続きはぜひお手にとってお楽しみください。
一章 母の咆哮
1
七分だ――。
若菜玲子(わかなれいこ)は腕時計を眺め、必死に思いを巡らしていた。「うなぎ」という単語が出てくるまでに、七分かかった。
「ねぇ、うなぎだよ。うなぎ」
「はぁ? どうしたの、急に?」
フランスで食べたブイヤベースがいかにまずかったかという、玲子にとってはSF小説のような夏の思い出を力説していたミッコが目を見開く。
「だから、私がこないだ浩介(こうすけ)たちと食べに行った、山梨の……。ほら、あれ、あそこ、どこだっけ? 夏も涼しいとこ」
「だから小淵沢(こぶちざわ)でしょ。玲子、さっき自分で……」
「ああ、そうそう。小淵沢で食べたもの。あれ、うなぎだった。ああ、良かった。ずーっとモヤモヤしてたから」
百五十センチに満たない身長とともにコンプレックスだった甲高(かんだか)い声が、秋の青空にこだまする。
水曜の昼過ぎ、飯田橋のお堀沿いに作られた屋外型のカフェには、若いカップルばかり目についた。主婦のグループも中にはあるが、子連れがほとんどで、玲子たちのように六十歳を超えた集まりというのはさすがに少ない。
合点がいって一人盛り上がる玲子を尻目に、小学校時代の同級生たちは怪訝(けげん)そうに顔を見合わせる。
「まださっきの話をしてるわけ?」
ミッコが気分を害するふうでもなく声を上げた。
「だって気持ち悪いもん。いや、ミッコの話もちゃんと聞いてたのよ。モンサンミシェルなんて素敵よね。私なんか旦那の付き合いで相変わらず木曽駒(きそこま)ばっかり。渓流釣りなんて全然楽しくないし、面白くない。もうハワイだって何年も行ってないわ。ラニカイビーチ、亜希子また行ってきたんでしょ。いいなぁ。あそこって、たしか轟先生の別荘が……」
胸に巣くった不安を打ち消すために、玲子はわざと固有名詞を多く挙げた。行ったことのない外国の観光地も、何十年も会っていない小学校時代の恩師の名前もスラスラ出てきて、ひとまず安堵(あんど)する。
しかし、二人は唖然(あぜん)としていた。数多い友人の中でもっとも付き合いの古い亜希子が、遠慮なく気味悪そうな視線を向けてくる。
「ねぇ、玲子。あんたホントに大丈夫なの?」
「大丈夫って、何がよ」
「いくらなんでも物忘れ激しすぎよ。話してる内容もしっちゃかめっちゃかだし。専門の病院行ってきた方がいいわよ」
「やめてよ。専門の病院ってどんなとこよ。怖いこと言わないで」
「私だって、好きで言ってるんじゃないわ。でも、あんた自分でもおかしいって思ってるんでしょ? だからペラペラと。うなぎなんて単語、普通だったらすぐ出てくるわよ」
「普通だったらって。じゃあ何よ、私は普通じゃないって言うの?」
それには答えず、亜希子はアイラインの濃い瞳を玲子から逸(そ)らした。言いたいことは言ったとばかりに、つまらなそうな表情を隠そうともしない。
本人はそんな自分をさばけた性格だと認識しているようだし、たしかにさっぱりした面は付き合っていて楽だった。だからこそ出会った六歳の頃から、半世紀以上付き合いが続いているのだろうが、最近は言葉の端々に棘(とげ)を感じる。
ただ今回に限っては、たしかに少しだけ怖かった。ここ最近、生活に支障をきたすレベルでは決してないが、ちょっとした単語が出てこない。
歌番組を見ていても、歌手の名が出てこないことがたまにある。
「ねぇ、いま歌ってるのって誰だっけ?」
絶対に見覚えのある人なのだ。歌っている曲だってよく知っているし、年末になると必ず目にする顔である。
「ん? ああ、誰だっけな」
夫の克明(かつあき)は読んでいる新聞から視線を逸らさず、気のない返事をするだけだった。
ジワジワと胸に水が滲(にじ)むように、不安が浸食した。歌い終わると、歌手は満面の笑みを浮かべて、司会者に迎えられた。アナウンサーが「柊(ひいらぎ)三郎さんでした。今一度大きな拍手を」と口にする。
そうか、柊三郎っていうのか……。頭の中で復唱しながら、だけどそのときもしっくりはこなかった。心の底から震え上がったのは、翌朝、目を覚ましたときだった。思い出せなかったのが日本を代表する演歌歌手だと気づいたのだ。
はじめて霜を観測したという、寒い朝だった。それなのに寝巻き代わりのスウェットが汗でねっとりと湿っていた。なんで私? なんでサブちゃんを――?
あの朝が一番の恐怖だった。名前を思い出せなかった事実より、前夜のうちに合点がいかなかったことが怖かった。大丈夫、生活に支障があるわけじゃないんだから。最近、自分に言い聞かせることがたびたびある。
それにしても、今日は少しひどすぎる気がする。亜希子に言われた「普通だったら」という一言が、棘のように引っかかる。自分は本当に「普通」じゃないのだろうか? 冷たい風が頬を撫(な)でた。
うなぎ、小淵沢、うなぎ、小淵沢……。もう二度と忘れまいと、玲子は頭の中で繰り返した。
本記事は幻冬舎文庫『ぼくたちの家族』(早見和真 著)の全296ページ中5ページ分を掲載した試し読みです。続きは『ぼくたちの家族』文庫、または電子書籍をご覧下さい。
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