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本屋の時間

2021.01.15 公開 ツイート

第102回

キリンの松 辻山良雄

昨年の暮れも押し迫ったころ、現在借りている店舗の更新手続きを行うため、近くにある大家さんの事務所まで伺った。不動産屋さん立会いのもと、契約書二通にそれぞれ実印を押していく。「調印式」というほどではないけれど、実際に本を売るという活動も、場所があってはじめて成り立つことなので、ハンコを押す時はやはり改まった気持ちになった。

 

「今年は大変だったでしょ。コロナでいろんなことが変わっちゃったからね」

手続きのあと、大家さんはそうねぎらってくれた。そういえば毎年隣の建物では、氏神さまである井草八幡宮の秋祭りの期間、土間を使って臨時の御神酒所がつくられるのだが、今年はその太鼓の音も聞こえないまま終わった。

トン、トン、トト、トン、トコトコトン……。

音を聞くだけでも、上手な人とそうでない人の違いはなんとなくわかるようで、上手な人の叩く音は、一つ一つ輪郭がはっきりとして迷いがない。店の営業中に太鼓の音が聞こえてくるのが、最初は少し調子はずれに感じられたが、慣れてくるとそれは気にもならず、いまではその音がないと、季節が回っているという実感が持ちづらくなった。

 

五年前、最初にこの建物の契約を行ったとき、そこにいたのはいまの大家さんのお父さんだった。その時でおそらく、九十は超えていたであろうか。どことなく大人(たいじん)の風格があり、背も高くて、すこし詩人のまど・みちおに似ていた。

いや、あなたの計画がしっかりとしてよかったのでね……。あなたに決めさせてもらいましたよ。名前も縁起がよさそうでいい。タイトル、たいとる、鯛を取る……。いわれたことはない?

いや、ありませんねとはいえず、そのときは苦笑いをするだけだったが、そのように受け取る人がいるんだと驚き、その名前にしてよかったと思った。契約の手続きを済ませたあと、Iさんはこのあたりのことについて色々と教えてくれたが(有名人の誰それが住んでいた、昔はこのあたりにも本屋があった、結局のところまあいい場所といえるのではないか、等々)、そうした土地と関りが持てることは、元々東京に縁のないわたしたち夫婦にとって心強く、うれしいことでもあった。

Iさんとはその後、店の前で出会ったときに挨拶を交わしていたのだが、店が開店してしばらく経ったあと、姿を見かけないと思ったら、急にお亡くなりになってしまった。

あとで奥さんから聞いたところによれば、Iさんは最後まで、この店のことを気にかけてくださっていたという。鷹揚に笑ってはいても、やはりこうした時代に本屋を開くことに対し、心配に思うところもあったのかもしれない。

店の契約が決まり、工事もはじまったある日のこと。これから店舗になる建物の周りを歩いていたとき、建物の裏側に長い松の木が生えていて、その脇に小さな祠があるのを見つけた。おそらくIさんか、そのずっと前のご先祖さまがそこにお祀りしたのだろう。私有地にあり、近くまでいくのはためらわれたので、「これからお世話になります」と、その時は遠くから手を合わせた。

その大きな松の木はいまでもキリンのようにひょろりと立っており、下から見上げるだけでも、まるでIさんのように見えてくるのだった。

 

今回のおすすめ本

『赤いモレスキンの女』アントワーヌ・ローラン 吉田洋之訳 新潮社

次の展開が予想できても、それでもページをめくらせるのが力のある本だと思う。こうなれば嬉しいよねという、人生のいとおしさが詰まった一冊。本をこよなく愛する人なら、きっと気に入るでしょう。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

○2024年4月12日(金)~ 2024年5月6日(月)Title2階ギャラリー

『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』小林エリカ原画展

科学者、詩人、活動家、作家、スパイ、彫刻家etc.「歴史上」おおく不当に不遇であった彼女たちの横顔(プロフィール)を拾い上げ、未来へとつないでいく、やさしくたけだけしい闘いの記録、『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』が筑摩書房より刊行されました。同書の刊行を記念して、原画展を開催。本に描かれましたたリーゼ・マイトナー、長谷川テル、ミレヴァ・マリッチ、ラジウム・ガールズ、エミリー・デイヴィソンの葬列を組む女たちの肖像画をはじめ、エミリー・ディキンスンの庭の植物ドローイングなど、原画を展示・販売いたします。
 

 

【書評】New!!

『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
 

【お知らせ】New!!

「読むことと〈わたし〉」マイスキュー 

店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
 

黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編  / お買いもの編
 

◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化決定!!】

スタジオジブリの小冊子『熱風』2024年3月号

『熱風』(毎月10日頃発売)にてスタートした「日本の「地の塩」をめぐる旅」が無事終了。Title店主・辻山が日本各地の本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方をインタビューした旅の記録が、5月末頃の予定で単行本化されます。発売までどうぞお楽しみに。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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