
俳優・青木崇高さんがパーソナリティを務める、TOKYO FMのラジオ番組
『ネスカフェ 香味焙煎 presents Lifetime with Coffee~コーヒー片手に、大人のたしなみ~』。この番組で生まれた、豪華作家陣による書き下ろし「コーヒーの香りにまつわる文学」をお楽しみください。第2回は村山由佳さんによる「命の夕暮れ」です。
* * *
命の夕暮れ/村山由佳
診察室の窓いっぱいに、夕焼け空が広がっている。斜めに射し込む光が、誰もいなくなった待合室の壁を薔薇色に染める。
奥のケージに入院中の犬や猫たちがそれぞれ無事でいるのを確認してから、私はようやく腰を下ろした。ふうーっと、深くて長いため息が漏れる。
「お疲れさまです、院長。大丈夫ですか?」
看護師の女性が気遣ってくれる。私は笑ってみせた。
「さすがに今日はちょっとハードだったね」
昼の休憩時間さえ、座っている暇などなかった。食べなければ体がもたないから、治療や検査の合間に意識してパンや握りめしを頬張った。人が思う以上に、この仕事は体力勝負なのだ。
と、こうばしい香りがふわりと漂ってきて、目の前にマグカップが差しだされた。
「おお、ありがとう」
熱いコーヒーから立ちのぼる湯気を吸い込むだけで、身体の奥のこわばりが解けてゆく。ひとくち啜るたび、呼吸が深くなる心地がする。
「院長、明日こそはおうちでしっかり休んで下さいね。病院のことは私たちに任せて」
わかったわかった、と頷く私を、まだ少し疑わしげな横目で見ながら、スタッフがひと足先に帰ってゆく。
コーヒーの残りを飲みながら、さっきより色の薄れた夕暮れの空を眺めた。
獣医は、やり甲斐のある仕事だ。しかし、やり甲斐だけで続けられる仕事ではない。どれほど助けてやりたくても、時には見送るほかにどうしようもない命があって、その辛さと重圧にはいまだに慣れない。手を尽くしたつもりでも、まだ何かできたんじゃないか、どこかで判断を間違えたんじゃないかと心が騒ぐ。
ふと気づくと、電話が鳴っていた。診療時間を過ぎているので留守電に切り替わる。
ピーッと鳴ったらご用件を、とのアナウンスに続けて、切羽詰まった女性の声がした。
「すみません、いつもコータがお世話になってます。じつはコータの具合が急に……」
何年にもわたって私が診てきた、雑種の中型犬だった。もう十八歳になる。
「息が苦しそうで、水さえ飲もうとしないんです。なんだか体温も低いみたいで……どうしよう先生、コータが、コータが、」
私は受話器を取った。
「もしもし。今から連れてくることはできますか」
担ぎ込まれた中型犬は、電話で聞いていた通り、呼吸が荒かった。ふだんはとても人なつこいのに、今は頭をもたげる力もないようだ。
犬の十八歳はそうとう長生きと言っていいが、だからといって諦めていいわけじゃない。救える命かそうでないかを決めるのは、私たち獣医ではなくて、この犬自身の生命力だ。
診察台にぐったりと横たわる愛犬を前に、飼い主の女性はおろおろしている。私は急いで点滴の用意をした。弱っている心臓と腎臓に今すぐ必要な薬液を準備し、前足の静脈に針を入れて固定する。
「とにかく名前を呼んであげて下さい。耳はちゃんと聞こえてるはずですから」
たちまち彼女が犬に取りすがって呼びかける。
「コータ、コータ、しっかりして」
涙声の間を縫って、心電図の音が響く。
「大丈夫だよコータ、そばにいるからね」
尻尾が、返事をするかのようにぱさりと動いた。
できる限りの処置を施してから、私は手を洗い、コーヒーを運んできて彼女に手渡した。
「ありがとうございます。……おいしい」
そう言って彼女は、湯気の立つマグカップの中にほろほろと涙をこぼした。
横たわる犬を間にはさんで見守りながら、私たちはその夜、コンビニで買ってきた弁当を食べ、沢山の話をした。彼女のほうはコータと出会ってからのことを聞かせてくれたし、私は私で尋ねられるままに、獣医になろうと決めてから今に至るまでのいきさつを話した。
朝方になって、年老いた犬はようやく自力で体を起こし、水を飲み、フードを口にした。飼い主の彼女はまたしても涙をこぼし、何度も礼を言いながら、車に犬を乗せて帰っていった。
安心するとたちまち腹が減る。ゆうべ弁当と一緒に買ってきたサンドイッチを頬張りながら、入院中の猫や犬たちにもそれぞれ朝飯をやる。
そういえば、今日は休診日だった。やっとゆっくり休めると思うと、ひとりきりの満ち足りた時間をもう少し味わっていたくなって、私は自分のためだけにもう一杯、熱いコーヒーをいれた。
窓の外に広がる空は、いつのまにか夜明けの薔薇色に染まっている。マグカップを片手に、ポーチへ出てみる。
今は助かる命にも、いつか必ず別れの時は訪れる。我々だって、いつこの世を立ち去ることになるかわからない。
けれど私は、信じていたいのだ。出会いも、別れも、等しく愛おしいものだと。
そう──ちょうど、空を染める朝焼けと夕焼けが、どちらも美しいのと同じように。
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次回は吉田修一さんによるショートストーリーです。
6月7日公開予定です。
香り豊かなコーヒーとともにお楽しみください。
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コーヒーと5つの物語

TOKYO FMで放送中の俳優・青木崇高さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『ネスカフェ 香味焙煎 presents Lifetime with Coffee~コーヒー片手に、大人のたしなみ~』。
この番組で生まれた、豪華作家陣による「コーヒーの香り」にまつわる書き下ろしショートストーリーです。