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コーヒーと5つの物語

2021.05.24 更新 ツイート

Episode 2

出会いも、別れも、等しく愛おしい[PR] 村山由佳

俳優・青木崇高さんがパーソナリティを務める、TOKYO FMのラジオ番組
『ネスカフェ 香味焙煎 presents Lifetime with Coffee~コーヒー片手に、大人のたしなみ~』。この番組で生まれた、豪華作家陣による書き下ろし「コーヒーの香りにまつわる文学」をお楽しみください。第2回は村山由佳さんによる「命の夕暮れ」です。

*   *   *

命の夕暮れ/村山由佳

 診察室の窓いっぱいに、夕焼け空が広がっている。斜めに射し込む光が、誰もいなくなった待合室の壁を薔薇色に染める。
 奥のケージに入院中の犬や猫たちがそれぞれ無事でいるのを確認してから、私はようやく腰を下ろした。ふうーっと、深くて長いため息が漏れる。

「お疲れさまです、院長。大丈夫ですか?」
 看護師の女性が気遣ってくれる。私は笑ってみせた。
「さすがに今日はちょっとハードだったね」

 昼の休憩時間さえ、座っている暇などなかった。食べなければ体がもたないから、治療や検査の合間に意識してパンや握りめしを頬張った。人が思う以上に、この仕事は体力勝負なのだ。
 と、こうばしい香りがふわりと漂ってきて、目の前にマグカップが差しだされた。

「おお、ありがとう」
 熱いコーヒーから立ちのぼる湯気を吸い込むだけで、身体の奥のこわばりが解けてゆく。ひとくち啜るたび、呼吸が深くなる心地がする。
「院長、明日こそはおうちでしっかり休んで下さいね。病院のことは私たちに任せて」
 わかったわかった、と頷く私を、まだ少し疑わしげな横目で見ながら、スタッフがひと足先に帰ってゆく。

 コーヒーの残りを飲みながら、さっきより色の薄れた夕暮れの空を眺めた。
 獣医は、やり甲斐のある仕事だ。しかし、やり甲斐だけで続けられる仕事ではない。どれほど助けてやりたくても、時には見送るほかにどうしようもない命があって、その辛さと重圧にはいまだに慣れない。手を尽くしたつもりでも、まだ何かできたんじゃないか、どこかで判断を間違えたんじゃないかと心が騒ぐ。

 ふと気づくと、電話が鳴っていた。診療時間を過ぎているので留守電に切り替わる。
 ピーッと鳴ったらご用件を、とのアナウンスに続けて、切羽詰まった女性の声がした。

「すみません、いつもコータがお世話になってます。じつはコータの具合が急に……」
 何年にもわたって私が診てきた、雑種の中型犬だった。もう十八歳になる。
「息が苦しそうで、水さえ飲もうとしないんです。なんだか体温も低いみたいで……どうしよう先生、コータが、コータが、」

 私は受話器を取った。
「もしもし。今から連れてくることはできますか」

 担ぎ込まれた中型犬は、電話で聞いていた通り、呼吸が荒かった。ふだんはとても人なつこいのに、今は頭をもたげる力もないようだ。
 犬の十八歳はそうとう長生きと言っていいが、だからといって諦めていいわけじゃない。救える命かそうでないかを決めるのは、私たち獣医ではなくて、この犬自身の生命力だ。

 診察台にぐったりと横たわる愛犬を前に、飼い主の女性はおろおろしている。私は急いで点滴の用意をした。弱っている心臓と腎臓に今すぐ必要な薬液を準備し、前足の静脈に針を入れて固定する。

「とにかく名前を呼んであげて下さい。耳はちゃんと聞こえてるはずですから」
 たちまち彼女が犬に取りすがって呼びかける。

「コータ、コータ、しっかりして」
 涙声の間を縫って、心電図の音が響く。
「大丈夫だよコータ、そばにいるからね」
 尻尾が、返事をするかのようにぱさりと動いた。

 できる限りの処置を施してから、私は手を洗い、コーヒーを運んできて彼女に手渡した。
「ありがとうございます。……おいしい」
 そう言って彼女は、湯気の立つマグカップの中にほろほろと涙をこぼした。

 横たわる犬を間にはさんで見守りながら、私たちはその夜、コンビニで買ってきた弁当を食べ、沢山の話をした。彼女のほうはコータと出会ってからのことを聞かせてくれたし、私は私で尋ねられるままに、獣医になろうと決めてから今に至るまでのいきさつを話した。

 朝方になって、年老いた犬はようやく自力で体を起こし、水を飲み、フードを口にした。飼い主の彼女はまたしても涙をこぼし、何度も礼を言いながら、車に犬を乗せて帰っていった。

 安心するとたちまち腹が減る。ゆうべ弁当と一緒に買ってきたサンドイッチを頬張りながら、入院中の猫や犬たちにもそれぞれ朝飯をやる。

 そういえば、今日は休診日だった。やっとゆっくり休めると思うと、ひとりきりの満ち足りた時間をもう少し味わっていたくなって、私は自分のためだけにもう一杯、熱いコーヒーをいれた。

 窓の外に広がる空は、いつのまにか夜明けの薔薇色に染まっている。マグカップを片手に、ポーチへ出てみる。
 今は助かる命にも、いつか必ず別れの時は訪れる。我々だって、いつこの世を立ち去ることになるかわからない。

 けれど私は、信じていたいのだ。出会いも、別れも、等しく愛おしいものだと。
 そう──ちょうど、空を染める朝焼けと夕焼けが、どちらも美しいのと同じように。

*   *   *

次回は吉田修一さんによるショートストーリーです。
6月7日公開予定です。
香り豊かなコーヒーとともにお楽しみください。

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大手居酒屋チェーン「山背」に就職し、張り切っていたはずの健介が、命を絶った。異変に気づけなかった恋人の千秋は自分を責め、悲しみにくれながらも、彼の両親と協力し、健介の名誉を取り戻すべく大企業を相手に闘いを挑む。しかし「山背」側は、証拠隠滅を図ろうとするなど、卑劣極まりない――。小さな人間が闘う姿に胸が熱くなる感動長篇。

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コーヒーと5つの物語

TOKYO FMで放送中の俳優・青木崇高さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『ネスカフェ 香味焙煎 presents Lifetime with Coffee~コーヒー片手に、大人のたしなみ~』。
この番組で生まれた、豪華作家陣による「コーヒーの香り」にまつわる書き下ろしショートストーリーです。

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村山由佳

1964年、東京都生れ。立教大学卒。1993年『天使の卵エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞、2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、2021年『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。

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