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オスマン帝国英傑列伝

2020.04.27 更新 ツイート

帝国の礎を築いた盟友たち【創始者オスマン一世(4)】小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏がオスマン帝国の傑物10人を考察する連載。
10人目は、オスマン帝国の建国者である、オスマン一世を取り上げます。

戦場でのアクンジュ(※パブリック・ドメイン)

キリスト教徒の戦士、ミハル

オスマンは、略奪と紙一重の聖戦をくりかえし、徐々に勢力を拡大していく。もちろん、いかにオスマンが有能とはいえ、ひとりでは、のちに600年続くことになる帝国の礎を築くことは難しかっただろう。オスマンの偉業は、オスマンをささえた盟友たちあってのことであった。ここでは、その盟友のうち、ふたりを紹介しよう。

 

そのひとりは、「髭なし(キョセ)」の名を持つ、ミハルである。ミハルという名は、大天使ミカエルからきている。その名が示すように、彼はキリスト教徒の戦士であった。当時のアナトリアには、アクリタイと呼ばれる、キリスト教徒の戦士たちが偏在していた。彼らはビザンツ帝国に仕えて辺境の守備を担っていたが、ビザンツ帝国が衰えてのちは、独立の戦士集団として活躍していた。

ミハルも、そのようなアクリタイのひとりだったらしい。北西アナトリアの小村ハルマンカヤの領主であったミハルは、いつしかオスマンと意気投合し、ともに略奪(史料では「聖戦(ガザー)」と書かれているが)を行う同胞となった。ミハルは戦場で活躍したのはもちろん、情報収集や、オスマン側とキリスト教徒側の交渉をになったと記されている。キリスト教徒であるミハルにとって、こうした活動は得手だっただろう。彼の助力は、オスマン集団の拡大におおきく寄与したはずである。ミハルは、オスマンと活動をともにしていたどこかの段階で、イスラム教に改宗したようだ。それがいつかは定かではないが、改宗後は「アブドゥッラー・ミハル」と呼ばれたともいう。

ミハルの一族は、その後バルカン半島にわたり、そこで領地を与えられて豪族となった。彼らは、キリスト教諸国と戦うさい先兵(アクンジュ)としての役割をになうようになる。たとえばミハルの子孫であるガーズィー・アリ・ベイは、1462年、「串刺し公(カズクル・ヴォイヴォダ)」と恐れられたワラキア公ヴラド三世の軍を撃破し、トランシルヴァニアに追いやった。また、イランに勃興したサファヴィー朝(1501~1736年)を打ち破ったチャルディランの戦い(1514年)でも、ミハル家の一族が司令官のひとりとして参加している。オスマン帝国が拡大していくにつれ、彼ら豪族たちの出番は減ってゆくが、近代になってもミハル一族は存続した。

精神面でオスマンを支えた導師、エデ・バリ

エデ・バリの娘で、オスマンの妻となったとされるマル・ハトゥン(©Author:Basak)

オスマンを軍事面で支えた人物がミハルだとすれば、精神面そして行政面でオスマンを支えたのがエデ・バリである。

カラマン地方(ルーム・セルジューク朝の中心で、アナトリアのなかではもっとも文化的に進んだ地であった)でイスラム指導者としての教育を受けた彼は、学問のためにシリアの都ダマスカスまで遊学した。アナトリアに戻ったのちは北西アナトリアの町ビレジクにイスラム神秘主義の修行場をかまえ、導師としてこの地域一帯の敬意をあつめる有力者となっていたのである。

伝承によれば、エデ・バリの噂を聞きつけたオスマンは彼のもとを訪れた。ひとしきり宗教についての教えを受け、彼の屋敷に泊まったオスマンは、その夜、奇妙な夢を見た。エデ・バリの胸から月が生まれ、その月がオスマンの胸に入ると、オスマンから巨大な樹が生え、その樹は世界を覆ったのである。目が覚めたオスマンが夢の内容をエデ・バリに伝えると、エデ・バリは、その夢はオスマンが帝王となることを示していると悟り、娘マル・ハトゥンをオスマンにめあわせたのであった。

いかにも、できすぎた逸話ではある。そもそも、オスマンにマル・ハトゥンという妻がいたのは確かだが、彼女の父はオメル・ベイという人物であり、エデ・バリではない。

この真偽はともかく、宗教的名士であったエデ・バリが、この武辺一辺倒であったオスマンに、彼のネットワークを駆使した惜しみない援助を与えたのは確かなようだ。エデ・バリのもとには、イスラム法(シャリーア)を修めた知識人たちが育っており、オスマンの地方統治のための人材を提供することができた。第二代スルタンであるオルハンの時代から、百年にわたって大宰相を輩出したチャンダルル家も、エデ・バリに連なるといわれている(ただし、史料的根拠は不十分なようである)。

オスマンの死去~伝説から歴史へ

オスマンとオルハンの墓(19世紀後半に再建されたもの)
(出典:Bahattin Öztuncay and Özge Ertem eds., Ottoman Arcadia: The Hamidian Expedition to the Land of Tribal Roots (1886), Istanbul: ANAMED, 2018.)

オスマンの晩年には、息子オルハンが軍事行動の指揮を執るようになっていた。1324年、オスマンはソユトで死去した。69歳だったと伝えられるが、もちろん、正確な年齢ではなかろう。オスマンのあとを追うように、エデ・バリとその娘も亡くなったと伝えられる。

オスマンが死去したとき、オルハンはビザンツ帝国の重要な地方都市であるブルサを攻略しているさなかであった。オスマンが亡くなった知らせを受けたオルハンは、ブルサの攻囲をとき、オスマンのもとに駆け付けた。オスマンは、オルハンに遺言を残していた。ひとつ、自分の遺骸はブルサに埋めること。ひとつ、イスラム法にしたがった統治を行うこと。ひとつ、彼につき従う者たちに目をかけ、手厚く扱うこと……。

伝承によれば、残されたオスマンの息子はふたりであった。オルハンと、アラエッティンである。オルハンはアラエッティンに即位するよう勧めるが、それを断ったアラエッティンはオルハンに玉座を譲り、みずからは田舎の領主となるにとどまった。あるいは、宰相としてオルハンの片腕になったとも伝えられる。

ただし、オルハン時代に作成された宗教寄進文書(オスマン帝国最古の公文書のひとつ)には、オスマンの5人の息子――オルハン、チョバン、メリク、ハミト、パザルル――と娘ファトマの名が記されているのだが、そのなかにアラエッティンという名はみえない。これについて、「パザルル」がアラエッティンであるとか、アラエッティンはオルハンのもとを離れているから文書に名がないのだという解釈も提示されている。しかし、そもそもアラエッティンという人物は架空の存在であり、アラエッティンとオルハンのあいだの麗しい兄弟愛は、のちのオスマン王家の慣習となる兄弟殺しを糊塗するため(あるいは批判するため)、いつしか語られるようになった創作である、と解釈するほうがしっくりくる。

ともあれ、始祖オスマンの後継者は、オルハンとなった。彼は、1326年、あらためてブルサを攻略し、オスマン帝国最初の都とする。遺言通り、オスマンの遺骸はブルサに移され、「銀のドーム」と呼ばれる修道院に埋葬された。この建物は、1855年に地震で崩壊したが、1863年にときのスルタンであるアブデュルアズィズの命令によって新しい墓廟が建てられた。いま、わたしたちがブルサで目にすることができるオスマンの墓廟は、このときに再建されたものである。

オルハンは、40年におよぶ長い治世のなかで、ビザンツ帝国の王位継承者争いに介入し、はじめてバルカン半島に進出、オスマン帝国の勢力をおおきく拡大させた。国内の統治が整備されたのも、彼の治世である。あたかも英雄伝承のように語られるオスマンの時代は過ぎ去り、オルハンの時代より、オスマン帝国はその歴史を紡ぎはじめたのであった。

<~もっと知りたい方へ~ 読書案内>

小笠原弘幸『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』刀水書房、2014年
さまざまなかたちで伝わるオスマン王家の系譜伝承を整理し、分析した研究書です。もともと素性の確かではなかったオスマン王家が、『旧約聖書』やオグズ伝承、はたまたセルジューク朝やモンゴルの系譜を取り入れながら、権威ある由緒を作り上げていく過程を明らかにしました。

大塚修「セルジューク朝の覇権とイスラーム信仰圏の分岐」千葉敏之編『1187年 巨大信仰圏の出現』山川出版社、2019年
オスマン帝国以前に、イスラム世界において覇権をとなえたセルジューク朝についての最新の論説で、これまでの概説にないアップデートされた記述が魅力的です。たとえば古い説では、1055年、アッバース朝カリフがセルジューク朝君主にスルタン位を授けたとされていますが、それを明快に否定しています。

(以下はフィクションです)

『復活のエルトゥールル』

(リンクは公式のYouTube、トルコ語)

トルコで放映されているテレビドラマです。オスマンの父エルトゥールルを主人公として、異教徒との戦いを描きヒット作となりました。

 

『オスマン帝国――皇帝たちの夜明け』

2020年1月にNetflixで公開されている、オスマン帝国を題材にしたドラマ。ドキュメンタリーも組み合わせた手法で、メフメト二世によるコンスタンティノポリス攻略を描いています。

小笠原弘幸『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』

オスマン帝国は1299年頃、イスラム世界の辺境であるアナトリア北西部に誕生した。アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる広大な版図を築くまでに発展し、イスラムの盟主として君臨した帝国は、多民族・多宗教の共生を実現させ、1922年まで命脈を保った。王朝の黎明期から、玉座を巡る王子達の争い、ヨーロッパへの進撃、近代化の苦闘、そして滅亡へと至る600年を描き、空前の大帝国の内幕に迫る。

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小笠原弘幸

1974年北海道北見市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。
 

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