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オスマン帝国英傑列伝

2020.04.20 更新 ツイート

オスマン独立と聖戦(ジハード)【創始者オスマン一世(3)】小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏がオスマン帝国の傑物10人を考察する連載。
10人目は、オスマン帝国の建国者である、オスマン一世を取り上げます。

建国のいきさつには複数の説が存在

第三代正統カリフ・ウスマーンの剣(トプカプ宮殿所蔵)
(出典:Selmin Kangal ed., Topkapı Palace: The İmperial Treasury, Istanbul: Mas Matbaacılık, 2001.)

指導者となったオスマンは、北西アナトリアで略奪を繰り返し、徐々に勢力を拡大していった。その過程で、オスマン率いる集団は、たんなる荒くれ者たちの寄り合い所帯から、ひとつの国としてふさわしい体裁を整えるようになってゆく。こうした発展のすえ、ついにオスマンはみずからの治める領土で、独立した政治権力であることを宣言するのであるが、それについてはいくつかの説が伝わっている。

 

ある年代記は伝える。

オスマン率いる集団は、ルーム・セルジューク朝の旗のもと、聖戦を繰り返した。スルタンのアラエッティンも、オスマンの働きに満足し、太鼓や旗、馬や剣などを贈った。オスマンはアラエッティンに敬意を表し、礼拝のさいに太鼓を鳴らすとき、起立したという。この慣習は、メフメト二世の時代まで続いた。

アラエッティンには息子がおらず、オスマンを息子のように目をかけていたし、オスマン自身も、みずからを後継者であるとみなしていた。はたして、アラエッティンが亡くなると、オスマンは領地において、みずからの名前のもとでフトバを読ませた。フトバとは、ムスリムにとって重要視される金曜礼拝のさいの説教であり、フトバのさいには当地の支配者の名前が詠み込まれることになっている。つまり、これはオスマンが独立国家を築いたことを意味したのであった。

 

オスマンの独立について、もうひとつ、別の年代記の記述を紹介しよう。

ある町を征服したオスマンは、いまこそ独立すべきだと考え、配下のイスラム法官にたいし、オスマンの名のもとにフトバを詠むように命じた。イスラム法官は動揺して、「ルーム・セルジューク朝のスルタンから許可が必要です」と断ると、オスマンは「おれはこの町を、みずからの剣でもって得たのだ。なぜスルタンの許可がいるのだ!」と激怒した。法官は折れ、人々もオスマンの言を認めた。ここに、オスマンの名前でもってフトバが読まれ、オスマンは独立したのである。

 

一方のオスマンは、ルーム・セルジューク朝に忠誠を誓いその後継者として独立し、もう一方のオスマンは、ルーム・セルジューク朝の権威を認めず強引に独立している。つまり、まったく逆のふたつの説が伝わっているのである。前者は、オスマンを美化しているのにたいし、後者は、思わぬ本音が漏れている、と解釈できようか。のちのオスマン帝国の歴史家たちは、主として前者の説をやや簡略化して採用している場合が多い。オスマン帝国は簒奪者ではなく、アナトリアの正統かつ合法的な支配者である、との歴史観が好まれたのである。

建国年はいつか

ともあれ、オスマンは独立し、ここにオスマン帝国――いまだ帝国というほどの国ではないが、便宜上こう呼んでおく――が成立した。

しかし、まだ問題がある。オスマン帝国の独立は何年におこったのか、という問題である。

オスマン帝国の歴史書は、ふつう、オスマン帝国の建国を西暦1299年としている。この年は、イスラム暦では699年であり、くしくもふたつの暦において世紀末にあたる。一部の古年代記では、独立を1283年とするものもあるが、いつしか1299年の説が大勢を占めるようになった。

なぜ、1299年説が主流になったのか。明確に答えを出すことは難しいが、ここでひとつの仮説を提示しておきたい。イスラム教のハディース(預言者ムハンマドの言行で、聖典クルアーンに次ぐ権威をもつ)には、「世紀の変わり目に、宗教を革新する者(ムジャッディド)があらわれる」というものがある。「宗教を革新する者」が具体的に誰なのかについては諸説あるが、オスマン帝国の歴史家たちは、オスマン一世をそのひとりと位置づけている。オスマンが宗教を革新する者であれば、彼の台頭は、世紀の変わり目に求められねばならない。そのため、オスマン帝国の建国はイスラム暦699年とされたのではないだろうか。

なお、同時代の史料において、はじめてオスマンとその集団が記録に残されるのは、1302年である。この年、オスマン軍がビザンツ帝国軍を破ったことが、ビザンツ史家によって伝えられている。トルコにおけるオスマン帝国史研究の大家ハリル・イナルジュクは、この年をもってオスマン帝国の建国としているが、それもひとつの見識であろう。

オデュッセウスのように戦う

戦いを呼びかけるオスマン(※パブリック・ドメイン)

伝承において、オスマンは精力的に異教徒(ほとんどの場合、キリスト教徒のことを指す)と戦い、イスラム教の「聖戦(ジハード、もしくはガザー)」に従事した。それゆえオスマンは、後代のオスマン帝国の人々に「信仰戦士(ガーズィー)」と呼ばれるようになるのである。

それでは、古年代記から、オスマンのたずさわった聖戦の一例を見てみよう。

ある町に住む異教徒は、オスマンと長いあいだ友誼を結んでいた。婚礼があればオスマンを招待し、贈り物を届けあう仲だった。また、遊牧民としての慣習を残すオスマンたちは、冬は暖かい低地に、夏は涼しい高地に移動するのを常としていた。彼らが夏に高地に移動するさい、ふもとの町にいる異教徒に、不要な荷物を預けることすらしていたのである。

しかしオスマンはあるとき、この町を征服する決心を固めた。異教徒から婚礼の誘いがあったとき、オスマンは「われらは狭いところでの宴に慣れていないから、郊外で祝おうではないか」と提案し、異教徒もそれを受けた。

いままさに婚礼が郊外で行われているとき、オスマンは、婚礼の祝いの品として牛に荷物を負わせて町に送り届けた。はたして、牛が背負う荷物は、贈り物ではなく、オスマン配下の戦士たちだった。町の城門にはいったとたん、オスマンの戦士たちは毛布をはねのけ、門衛を切り殺して躍り込んだ。異教徒の多くは婚礼のために郊外にいたために、彼らはたやすく町を征服することができたのである。

 

ここからわかるのは、オスマンは、「信仰戦士」という呼び名から想像できるような、イスラム教の大義を重んじて聖戦に身をささげる人物ではなかったことである。正々堂々一軍を率いて合戦するのではなく、策略(ぺてん、といってもよい)を駆使し、だまし打ちをして勝利を得る人物として描かれている。もちろん、こうした物語に耳を傾ける人々は、策略を不名誉なことだとみなさなかったはずだ。「トロイの木馬」を考えついたギリシャ神話の英雄オデュッセウスのように、英雄伝承において、しばしば主人公はトリッキーな方法で成果を勝ち取るものなのである。

キリスト教徒との関係をどう理解するかも、一筋縄ではいかない。ストーリーの都合上、異教徒は敵役として描かれるのが常であるが、物語の前半では、オスマンと異教徒との友好的な関係が描かれている。オスマンは、後述するようにキリスト教徒の戦士と友誼を結んでいたし、その一方で、おなじムスリムである近隣のトルコ系侯国とは争いが絶えなかった。また、オスマンたちも深く影響を受けていた、当時のアナトリアで力を持っていたイスラム神秘主義教団は、キリスト教徒もわけへだてなく受け入れていた。彼らにとって、同じ一神教であるキリスト教とイスラム教の区別は、あいまいだったのである。

間違いなくいえるのは、「ムスリム対キリスト教徒」あるいは「ムスリムとキリスト教徒との共存」というわかりやすい図式では解釈できないほど、当時のアナトリアは敵味方が入り乱れ、混沌とした世界だった、ということだ。

税金を知らないオスマン

有能な軍事指導者であったオスマンであるが、行政面での彼がどのようであったか、それを伝える面白い逸話がある。

カラジャヒサルという町を征服したとき、そこの市場では、荷物ごとに銀貨二枚の税金が徴収される慣習があった。まずオスマンは「税とはなんだ?」と聞き、その内容を知ると、みずから稼がずに金を徴収するとは! と怒った。しかし、これは慣習である、と説明され宥められたオスマンは、法を厳しく守ることを条件に、税の徴収を認めたのであった。

この逸話は、一見したところ、オスマンの無知を示しているかのように見える。略奪を旨としていたオスマンたちが、税金による利益を異質なものとしてとらえていたのは、確かであろう。しかしこの逸話は同時に、金銭に頓着しない清貧さと鷹揚さ、法を厳格に守らせる峻厳さといった、オスマンの美徳を暗に示してもいる。この逸話を伝えた人々は、公正に税を徴収してほしいという思いを、オスマンの事績に託したのであろう。

<~もっと知りたい方へ~ 読書案内>

小笠原弘幸『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』刀水書房、2014年
さまざまなかたちで伝わるオスマン王家の系譜伝承を整理し、分析した研究書です。もともと素性の確かではなかったオスマン王家が、『旧約聖書』やオグズ伝承、はたまたセルジューク朝やモンゴルの系譜を取り入れながら、権威ある由緒を作り上げていく過程を明らかにしました。

大塚修「セルジューク朝の覇権とイスラーム信仰圏の分岐」千葉敏之編『1187年 巨大信仰圏の出現』山川出版社、2019年
オスマン帝国以前に、イスラム世界において覇権をとなえたセルジューク朝についての最新の論説で、これまでの概説にないアップデートされた記述が魅力的です。たとえば古い説では、1055年、アッバース朝カリフがセルジューク朝君主にスルタン位を授けたとされていますが、それを明快に否定しています。

(以下はフィクションです)

『復活のエルトゥールル』

(リンクは公式のYouTube、トルコ語)

トルコで放映されているテレビドラマです。オスマンの父エルトゥールルを主人公として、異教徒との戦いを描きヒット作となりました。

『オスマン帝国――皇帝たちの夜明け』

2020年1月にNetflixで公開されている、オスマン帝国を題材にしたドラマ。ドキュメンタリーも組み合わせた手法で、メフメト二世によるコンスタンティノポリス攻略を描いています。

小笠原弘幸『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』

オスマン帝国は1299年頃、イスラム世界の辺境であるアナトリア北西部に誕生した。アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる広大な版図を築くまでに発展し、イスラムの盟主として君臨した帝国は、多民族・多宗教の共生を実現させ、1922年まで命脈を保った。王朝の黎明期から、玉座を巡る王子達の争い、ヨーロッパへの進撃、近代化の苦闘、そして滅亡へと至る600年を描き、空前の大帝国の内幕に迫る。

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小笠原弘幸

1974年北海道北見市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。
 

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