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オスマン帝国英傑列伝

2020.03.23 更新 ツイート

オスマン帝国の敗北【英雄ムスタファ・ケマル(3)】小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏がオスマン帝国の傑物10人を考察する新連載。今回は「トルコ共和国の父」と呼ばれた英雄、ムスタファ・ケマルを取り上げます。

ガリポリの戦い

ガリポリの戦い、塹壕でのケマル(出典:ウィキメディア・コモンズ)

第二次世界大戦において、ナチス・ドイツに断固として抵抗し、イギリスを勝利に導いた首相ウィンストン・チャーチルは、第一次世界大戦勃発時、海相であった。チャーチルは、大戦の戦局を一気に有利に導くため、ダーダネルス海峡攻略作戦を計画する。マルマラ海とエーゲ海をむすぶダーダネルス海峡を突破すれば、オスマン帝国の帝都イスタンブルは指呼の間である。これによって帝国は降伏せざるを得なくなるだろう。そうすれば、ドイツ相手に苦戦を強いられているロシア軍への補給や連絡も容易になる、と考えたのである。

 

こうして1915年2月から3月にかけて、英仏連合艦隊は、ダーダネルス海峡を一気呵成に突破することを試みた。しかし、艦隊による突破作戦は、両岸からの激しい砲火と機雷によって阻まれる。連合軍は、ダーダネルス海峡の北側の地域、すなわちガリポリ半島を、陸軍を上陸させて奪取する方針に転換した。4月には激しい戦闘のすえ、海岸の一角(アルブルヌ湾)を橋頭堡として確保することに成功する。

オスマン軍守備兵の指揮を執るのは、ドイツから派遣されていた将校リーマン・フォン・ザンデルスであったが、彼は半島の付け根に位置する司令部にとどまり、安全地帯から全軍の差配をするにとどまっていた。アルブルヌ湾から内陸に入らんとする連合軍の攻撃を、実際に前線で受けて立った指揮官が、ムスタファ・ケマル中佐であった。

第一次世界大戦では、ドイツと連合軍のあいだの塹壕戦が有名であるが、ガリポリの戦いにおいても、神経をすり減らすような塹壕にひそんでの戦闘が続いた。局面が動いたのは、8月に入ってからである。膠着状態にしびれを切らした連合軍は、兵力を増強し、アルブルヌ湾の北方から総攻撃を加えたのだ。しかし、4日にわたる猛攻を、ケマルはしのぎ切る。このときだけで、オスマン軍は1万7千名、連合軍は2万5千名の死傷者を出すという激戦であった。

この決戦ののちも、塹壕戦は終わらなかった。戦いのさなか、ケマルは大佐に昇進し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世からは鉄十字勲章が授与されている。12月5日、体調を崩したケマルは前線を離れイスタンブルに戻るが、そのときすでに、連合軍は撤退を決定していた。連合軍がガリポリから完全に姿を消すのは翌年1月9日のことである。

ガリポリの戦いは、双方合計で50万人の死傷者という甚大な被害をもたらした。イスタンブルを一気に陥落させるという連合軍の戦略は、完全な失敗に終わったのである。この戦いの結果、ケマルは、一躍、英雄として称賛されることになる。他方、ガリポリ作戦を立案したチャーチルは、責任を取って海相を辞任する。チャーチルが、その長い政治家人生において犯した最大の失策であった。

 

ガリポリの英雄となり少将に昇進したケマルは、休む間もなく、ロシアが侵攻する東アナトリア、そして中東を転戦した。

1918年9月19日、イギリス軍がパレスチナで総攻撃を開始すると、オスマン軍は総崩れとなった。そのなかにあってケマルは善戦していたが、10月30日、オスマン帝国政府は連合国と休戦協定を結んだ――すなわち、オスマン帝国の敗北である。ドイツとオーストリアもまもなく敗北し、ここに第一次世界大戦は終わった。

独立戦争のはじまり

オスマン帝国最後のスルタン、ヴァヒデッティン(出典:ウィキメディア・コモンズ)

帝都イスタンブルは連合軍の占領下に置かれた。ケマルも召喚され、1918年11月13日にイスタンブルに到着している。

イスタンブルでは、前回とりあげたハリデ・エディプをはじめとした人々が、さまざまな形で占領にたいする抵抗活動を行っていた。そのなかにあってケマルは、まず、この年にスルタンに即位したヴァヒデッティン(位1918-1922年)に接触を試み、抵抗の可能性を探った。ケマルは、1917年10月に一時帰京したさい、皇太子であったヴァヒデッティンの知己を得て、彼のドイツ巡幸に副官として参加していたのである。このコネクションを生かしてヴァヒデッティンと会談したケマルであったが、ヴァヒデッティンに連合国に逆らう意思はなかった。

失望したケマルは、別の方策を探ることになる。そのころ、アナトリアの各地でレジスタンスが立ち上がってたものの、抵抗運動は相互の連携をが弱く、シンボルとなる指導者を欠いていた。そこでレジスタンスはケマルに接触して指導者となるよう打診しており、ケマルはこの提案を受け入れたのである。

1919年5月15日、イギリスの後押しを受けたギリシャ軍がイズミルに上陸する。連合国はアナトリアの分割支配を意図していたが、列強諸国は大戦で疲弊していたため、ギリシャにその先鋒をつとめさせたのである。この分割計画は、1920年にセーヴル条約として結実するが、オスマン帝国にはアナトリアの中央部しか残されない、極めて厳しい内容のものであった。

ケマルが船に乗ってイスタンブルを離れ、黒海南岸のサムスンに上陸したのは、このギリシャ侵攻の4日後、1919年5月19日である。トルコでは、この日をもって、独立戦争、もしくは国民闘争と呼ばれる戦いがはじまったとされている。

死刑判決を下される

ケマルと、レジスタンス――国民軍の有力者たちは、まずエルズルム、ついでスィヴァスで会合をもち、独立戦争の方針を固めた。スルタンに非協力的であったイスタンブルの帝国議会が解散させられるのをみたケマルは、アンカラで大国民議会を開催し、内閣を組織した。ここに、アンカラ政府が成立する。

独立戦争時のケマル(©
Virtual Istanbul)

ケマルとアンカラ政府は、四方を敵に取り囲まれていたが、それをひとつずつ解決していった。

その敵のひとつは、スルタン=カリフとオスマン帝国政府であった。イスタンブルのオスマン帝国政府は、ケマルらを不信仰者と断じ、死刑判決を下したのである。いまなおスルタン=カリフを支持する人々は多く、ヴァヒデッティンの呼びかけに呼応して、アナトリアの各地でアンカラ政府に対する反乱がおきた。これにたいしてケマルは、ヌーレッティン少将に、反乱分子の徹底的な鎮圧を命じた。ヌーレッティンの手腕は確かであったが、同時に苛烈でもあった。鎮圧活動によって、1万人を超える人々が殺害されている。

アナトリアの南東部には、シリアを支配するフランス軍が侵攻していた。この地区の主要な都市であるマラシュ、ウルファ、アンテプをめぐり、1919年から1921年にかけて攻防戦が続いたが、最終的にはアンカラ政府に有利な条件で決着がつく。

コーカサスでは、ロシア帝国崩壊後の混乱のなかでアルメニアが建国され、セーヴル条約において東アナトリアがアルメニアに与えられることになっていた。セーヴル条約に力を得たアルメニアは、このころ、オスマン領に小規模な攻撃を繰り返している。これはアンカラ政府の容認できるものではなく、1920年9月、アンカラ政府とアルメニアの間で戦端が開かれた。戦いは、キャーズム・カラベキル将軍が率いるアンカラ政府軍の圧勝に終わり、最終的には、ほぼ現在と同様の国境が画定することになる。

フィクリエとの悲恋

フィクリエ(出典:ウィキメディア・コモンズ)

ところで、独立戦争のさなかの1920年11月、アンカラのケマルのもとに、フィクリエが訪れている。ケマルを慕う彼女は、危険を承知でイスタンブルを抜け出したのである。フィクリエはケマルの屋敷で家事をするとともに、個人的な秘書としても働くことになった。

ふたりの仲は親しいものであったが、これが進展するには、困難がふたつあった。ひとつは、ギリシャとの戦いが続いていたことである。もしふたりが結婚するとしても、独立を勝ち取ってからになるであろう。もうひとつは、ケマルの母ズベイデと、ケマルの姉マクブレが、フィクリエを嫌っていたことである。なぜ彼女たちとフィクリエの仲が悪かったのか、理由は知られていない。いずれにせよ、ケマルとフィクリエの関係は、これ以上に深まることはなかった。

 

<~もっと知りたい方へ~ 読書案内>

M・シュクリュ・ハーニオール (著)、新井政美 (監訳)、柿﨑正樹 (訳)
『文明史から見たトルコ革命――アタテュルクの知的形成』みすず書房、2020年3月4日刊行予定

ムスタファ・ケマル(アタテュルク)の伝記は、これまで日本語でも数冊刊行されていますが、残念ながらいずれも内容が古くなってます。しかし、アタテュルク研究に新しい時代をもたらしたと高く評価される本書の翻訳が、3月に刊行される予定です。監訳者・訳者ともに優れた研究者で、解説も期待できます。

 

今井宏平『トルコ現代史――オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』中公新書、2017年

アタテュルクの時代から現在まで、トルコ共和国の歴史を概観するのにもっとも有用な、コンパクトかつ丁寧な通史です。

 

(以下はフィクションです)

トゥルグット・オザクマン (著)、新井政美 (監修)、鈴木麻矢(訳)
『トルコ狂乱――オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』三一書房、2008年

独立戦争を描き、トルコで大ヒットした小説の翻訳です。日本のトルコ近代史研究をながくリードした監修者による解説も必読です。

 

『ディバイナー――戦禍に光を求めて』

ラッセル・クロウ主演・監督。ガリポリの戦いで息子たちを失った主人公が、息子の痕跡をさがしに、独立戦争前夜のトルコの地にわたり、そこでさまざまな事件に遭遇します。ガリポリの戦いを取り上げた映画は、これまでにもいくつか撮影されていますが、その後日談にも焦点を当てた良作です。

小笠原弘幸『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』

オスマン帝国は1299年頃、イスラム世界の辺境であるアナトリア北西部に誕生した。アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる広大な版図を築くまでに発展し、イスラムの盟主として君臨した帝国は、多民族・多宗教の共生を実現させ、1922年まで命脈を保った。王朝の黎明期から、玉座を巡る王子達の争い、ヨーロッパへの進撃、近代化の苦闘、そして滅亡へと至る600年を描き、空前の大帝国の内幕に迫る。

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小笠原弘幸

1974年北海道北見市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。
 

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