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オスマン帝国英傑列伝

2020.02.10 更新 ツイート

「トルコの母」から一転、批判にさらされる【女性革命家 ハリデ・エディプ(4)】小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏がオスマン帝国の傑物10人を考察する新連載。今回はトルコ共和国の独立運動に身を捧げ「トルコのジャンヌダルク」と呼ばれた女性、ハリデ・エディプを取り上げます。

ケマルとの決裂、そして欧米での亡命生活

ムスタファ・ケマル(前列右)、ケマルの妻ラティーフェ(前列中央)、カラベキル将軍(前列左)(※ウィキメディア・コモンズ)

独立戦争において、軍事的指導者としてのケマルの優秀さは、誰もが認めるところであった。彼はしばしば強権的にふるまったが、そうした行動も、緊急時であったからこそ支持されたのである。しかし戦い終わったいま、新しい国づくりを模索するなかで、ケマルの思い描くヴィジョンとはことなる方向性を是とする者たちも、すくなくなかった。ケマルに先んじてアナトリアで抵抗活動を行っていたキャーズム・カラベキル将軍を筆頭に、ハリデやアドナンなど独立戦争を支えた同志たちも、そうした人々に名を連ねていた。彼らは1924年、ケマル率いる与党の共和人民党に対抗して、野党である進歩主義者共和党を結成する。

 

しかし、同年にトルコ南東部で起こったクルド人の反乱を機に、同党は閉鎖された。さらに1926年にケマル暗殺未遂事件がおこり、ケマルはこれを奇貨(きか)として、自分に反対するグループを一掃したのである。15名が処刑宣告をうけ、カラベキル将軍は政界を追放された。ただしハリデとアドナンは、トルコ政界の不穏な空気を感じ取り、この事件の少し前にヨーロッパに渡っていたため、危うく難を逃れることができた。以降、ハリデは10年以上祖国から離れ、亡命生活を余儀なくされる。

抵抗運動と独立運動の英雄、「トルコのジャンヌ・ダルク」にして「トルコ人の母」と称えられたハリデは、一転して、トルコのメディアによる攻撃にさらされた。ハリデはイスタンブルで活動しているあいだ、英仏ではなく、アメリカがトルコを委任統治するのがふさわしいという主張に賛同していた。アメリカのウィルソン大統領は、第一次世界大戦後に有名な「14か条の平和原則」を発表、民族自決の尊重を打ち出していたからである。結局、アメリカの支持が十分に得られずこの主張は立ち消えとなったのだが、亡命後のハリデにたいして、トルコのメディアは「委任統治主義者」というレッテルを貼って非難した。祖国をアメリカに売り渡そうとした裏切り者、というわけである。また、ハリデの最初の結婚について、少女であったハリデがサーリフ・ゼキを誘惑したのだという、彼女の品位を傷つけるような中傷もなされた。

亡命先(おそらくイギリス)でのハリデ(※典拠:Çalışlar, Halide Edib.)

祖国への帰還がかなわなくなったハリデであったが、亡命先においても精力的に活動した。

亡命してまもなく、ハリデは自伝を二編、いずれも英語で著している。少女時代をあつかった『回想録』(トルコ語訳の題名は『葡萄蔓の家』)、その続編といえる独立戦争時代をとりあげた『トルコ人の試練』(トルコ語訳の題名は『炎の試練』)である。前者は、アブデュルハミト二世時代における中流階級の家庭生活を垣間見ることのできる貴重な史料であり、後者は、占領下のイスタンブルと独立戦争での活動がつぶさに語られている。とくに『トルコ人の試練』においてハリデは、ケマルの才能を否定してはいないものの、その独裁的なふるまいについて手厳しく批判している。独立戦争の勝利を、ケマルという天才ひとりの成果にしようとする共和国の公式歴史観にたいして、反旗を翻したのが本書だといえよう。

彼女は主としてイギリスとアメリカで活動し、東洋学者のアルバート・リーバイヤー、歴史家アーノルド・トインビーなどの知識人と交流を重ねた。本稿の冒頭でふれた、画家アルフォンス・マリア・ミュシャとの邂逅も、亡命時代のことである。また、インド人の友人に招かれて独立運動のさなかにあったインドを訪れ、英語で講演を行った。このときの講演は、のちに『東洋と西洋の軋轢』という題名で刊行されている。インド独立運動の指導者であるガンディーの家も訪問し、その簡素さと誰でも訪れることのできる雰囲気に驚いているが、ガンディー自身とはあまり言葉を交わさなかったようだ。

 

トルコへの帰還
1938年にムスタファ・ケマル――彼は創姓法の制定(1934年)にともなって、「アタテュルク」の姓をトルコ大国民議会より贈られていた――が没すると、国外に亡命していた彼の政敵たちが、続々と帰国の途に就いた。そのなかには、ハリデとアドナンの姿もあった(なお、このふたりは「アドヴァル」の姓を得ている)。

帰国後のハリデは、イスタンブル大学文学部で英語・英文学の教授に就任する。トルコ初の女性教授であった。また、ときの文部大臣ハサン・アーリ・ユジェルが推し進めた西洋古典の翻訳プロジェクトにもかかわり、シェイクスピアの『ハムレット』などをトルコ語訳している。帰国後にもハリデは小説を著しているが、この時期の作品はやや精彩を欠くと評価されている。

1945年に、共和人民党による一党独裁が廃止され複数政党制がはじまると、1950年には野党の民主党が勝利、トルコ共和国ではじめての政権交代が起こった。ハリデは、1950年から54年にかけて民主党の議員を務めている。しかし、大統領ジェラール・バヤルとはそりが合わず、一期のみで議会を去っている。また彼女は、1951年に制定されたアタテュルク擁護法(アタテュルクへの批判を禁ずる法律)には厳しく反対した。革命の世代であり、アタテュルクの功も罪もよく知る彼女にとって、彼の神格化は許せないものだったのだろう。とはいえ、晩年の1962年、彼女自身の監修のもとトルコ語訳された自伝『炎の試練』では、英語の原著にあったアタテュルクへの厳しい批判は、和らいだ表現へと変更されている。

 

晩年

晩年のハリデ(※典拠:Çalışlar, Halide Edib.)

夫アドナンは、1955年7月1日に亡くなった。葬儀は盛大に執り行われ、当時の首相メンデレスも駆けつけた。
アドナンは民主党の議員を務めたこともあったが、ハリデと同様に一期のみで政界を退いている。この時期の彼は、医者や政治家としてよりも、むしろ学者として活躍しており、『オスマン・トルコにおける科学』や『歴史における科学と宗教』といった名著を著した。1940年より、トルコにおける諸学界の総力を結集した『イスラム百科事典』(英語版イスラム百科事典のトルコ語訳だが、トルコ関係の項目が大幅に増補されている)の編集長を務めたことは、特筆すべき業績であろう。

ハリデが亡くなったのは、アドナンよりも10年ほどあとの1964年1月9日である。享年80歳であった。イスタンブルにある彼女の住まいはいつしか取り壊され、彼女が残した書籍や文書の多くは失われたという。亡骸は、イスタンブルの大城壁のすぐ外に位置するメルケズエフェンディ墓地に葬られた。彼女はいま、夫アドナンのかたわらで眠っている。

その活躍にもかかわらず、トルコ共和国におけるハリデの評価は、毀誉褒貶(きよほうへん)が相半ばする。それはひとえに、無謬でなくてはならないアタテュルクの偉業を批判したことが理由であろう。たとえばトルコ共和国史の教科書において、ハリデは、アメリカの委任統治を望んだ人物として言及されるのみである。しかし近年では、ハリデの本格的な伝記が刊行され、文学雑誌でハリデの特集が組まれるなど、復権の兆しが現れている。彼女がふさわしい評価を得る日も、遠くはなかろう。

 

<~もっと知りたい方へ~ 読書案内>

İpek Çalışlar, Halide Edib: Biyografisine Sığmayan Kadın, Istanbul: Everest Yayınları, 2010.

日本語あるいは英語で著された、ハリデについてのまとまった伝記はありません。2010年にトルコ語で著された本書は、関係者へのインタビューなども利用した、初の本格的な伝記です。

 

ユースフ・アクチュラ著、小笠原弘幸・秋葉淳監訳「ユースフ・アクチュラ『三つの政治路線』」『史淵』155号、2018年、135-165頁

本稿で言及した、トルコ主義者ユースフ・アクチュラが書いた有名な論説です(PDFをダウンロードできます)。

 

長沢栄治監修『結婚と離婚 (イスラーム・ジェンダー・スタディーズ1)』明石書店、2019年

イスラム教・イスラム世界におけるジェンダーを総合的にあつかったプロジェクトの成果を示す論集です。トルコ関係では、「トルコの家族法」(村上薫)、「コラム アタテュルクの離婚」(宇野陽子)が収録されています。

 

(以下は番外編です)

 

松濤美術館『パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華 サラ・ベルナールの世界展2019年12月7日(土)~2020年1月31日(金)

渋谷の松濤美術館で、フランスの女優サラ・ベルナールについて展覧会が開かれています。本稿冒頭でとりあげたミュシャは、彼女のポスターを作製したことで名をあげました。この展覧会では、ミュシャの作品も展示されています。

 

映画『サフラジェット』(邦題:『未来を花束にして』)

20世紀初頭のイギリスで、女性参政権を求めた女性たちの活動を描いた映画。2015年公開。現在、アマゾン・プライム・ビデオでも見ることができます。

小笠原弘幸『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』

オスマン帝国は1299年頃、イスラム世界の辺境であるアナトリア北西部に誕生した。アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる広大な版図を築くまでに発展し、イスラムの盟主として君臨した帝国は、多民族・多宗教の共生を実現させ、1922年まで命脈を保った。王朝の黎明期から、玉座を巡る王子達の争い、ヨーロッパへの進撃、近代化の苦闘、そして滅亡へと至る600年を描き、空前の大帝国の内幕に迫る。

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小笠原弘幸

1974年北海道北見市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。
 

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