1. Home
  2. 社会・教養
  3. オスマン帝国英傑列伝
  4. 立憲政の復活と新オスマン帝国【帝国最高の...

オスマン帝国英傑列伝

2020.01.06 更新 ツイート

立憲政の復活と新オスマン帝国【帝国最高の洋画家オスマン・ハムディ(4)】小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏がオスマン帝国の傑物10人を考察する新連載。
今回は画家のオスマン・ハムディを取り上げます。

立憲国家から一転、専制政治を敷いたアブデュルハミト二世

(ネムルト山の遺跡とハムディ:出展{Zeynep Özel(ed.), Osman Hamdi Bey: Bir Osmanlı Aydını, Istanbul: Pera Müzesi, 2019.})

ハムディが館長、そして考古学者として活躍した時期は、ほとんどスルタン・アブデュルハミト二世の治世と重なっている。

アブデュルハミト二世は、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しいスルタンである。ミドハト・パシャが尽力し、ようやく制定にこぎつけたオスマン帝国憲法を停止させ、30年におよぶ専制政治を敷いた。のみならず、ミドハトをはじめとした立憲主義者たちを処刑もしくは追放し、出版を検閲し密告を奨励した。

 

君主の権威強化と国内統治の手段として、イスラム教を利用したのもよく知られている。日本への軍艦エルトゥールル号の派遣も、道中、東南アジアのムスリム諸国においてパン・イスラム主義を喧伝するための政策の一環であった。

こうしたことから、アブデュルハミト二世の治世は、長いあいだ「暗黒時代」と位置づけられてきた。しかし一方でこの時代には、鉄道・電信・郵便などのインフラが急速に拡大し、教育制度や官僚制度についてもタンズィマート時代よりはるかに発展したのは事実である。

文化的発展を遂げた暗黒時代、さらに青年トルコ革命の勃発

政治的な思想はたしかに抑圧されていたが、非政治的な性格を持った出版活動は、むしろ隆盛していた。ハムディのかかわっていた博物館や発掘といった活動も、こうしたアブデュルハミト二世時代における文化的発展の恩恵を被っている。

さらにハムディは、次世代の芸術家たちを育成するため、1882年に正式に開校したオスマン芸術学校の校長にも就任した。帝国博物館の敷地内に建てられたこの学校は、現在のミマール・スィナン芸術大学の前身となる。

1908年、立憲政の復活を求める若手将校たちによって青年トルコ革命が勃発し、長きにわたったアブデュルハミト二世の専制政治は幕を閉じた。この革命のさなか、ハムディがどのように振舞ったのかについては、つまびらかとしない。

しかし興味深いことに、革命の熱気冷めやらぬ1909年、ハムディは革命の英雄のひとりエンヴェル・パシャの肖像を描いている。ハムディの数ある作品のうち、政治家や軍人の肖像画は稀であった。ハムディは、立憲政の復活とオスマン帝国の新しい時代に、ひとかたならぬ期待をかけていたのかもしれない。

だが、それから間もない1910年2月24日、イスタンブルのボスフォラス海峡沿いにある海辺の館で、ハムディは68歳の生涯を閉じた。アヤ・ソフィア・モスクで盛大な葬儀が執り行われ、遺体はハムディが愛していたエスキヒサルの地(マルマラ海の北東岸)に埋葬された。帝国博物館館長は、ハムディの弟ハリル・エドヘムが継ぎ、帝国滅亡まで、兄の偉業を引き継ぐことになる。

画家ハムディの評価――オリエンタリズム画家だったのか?

(ジャン=レオン・ジェローム画『ブルサの大浴場』(1885年作):ウィキメディア・コモンズ)

本稿のしめくくりとして、多才なハムディがおそらくもっとも情熱を傾けたであろう画業の評価について、みてみたい。

近代の西洋美術には、オリエンタリズムというジャンルがある。

19世紀末、フランスの将軍ナポレオンのエジプト遠征とロマン主義の隆盛に端を発し、19世紀後半における万国博覧会の開催によってより大きな潮流となった。代表的な画家としては、本稿ですでに紹介したドラクロワやブーランジェのほか、ジャン=レオン・ジェロームやギュスターヴ・ギヨメらが挙げられるだろう。

西洋の画家たちが描くオリエンタリズム絵画は、登場人物や風景が、エキゾチックな東洋風というだけではない。画中ではしばしば、暴力的あるいは官能的な表現が採用された(そうではない画家たちも、もちろんいたが)。東洋は文明化していない野蛮な世界であり、その魅力はむき出しのバイオレンスとエロチシズムにある、と考えられていたのだ。

こうしたステレオタイプ化された東洋観に基づいて描かれたオリエンタリズム絵画は、西洋の美術愛好者たちを強く魅了したのである。

ブーランジェに師事し、ジェロームと親交のあったハムディも、一般的には、こうしたオリエンタリズム画家の系譜に位置づけられる。ただし、ハムディの描く絵には、バイオレンスやエロチシズムを感じさせる要素はほとんどない。帝国の文化と芸術を担う立場にあったハムディにとって、煽情的な表現を用いて鑑賞者に訴える手法は、「禁じ手」であったのだろう。

たとえば、先に紹介した『ふたりの少女楽師』で描かれる女性には、肉感的あるいは官能的な要素はなく、むしろ清涼さを感じさせる。やはり名作とされる通称『武器商人』では、むき出しの刀身がいわば絵の「主役」であるが、剣は暴力の象徴というよりは、文化的な価値を持つ芸術品として描かれているようだ。

すなわち、ハムディの絵画の魅力は、重苦しい鈍重さを排した軽快かつ鮮やかな色彩と、エキゾチシズムを喚起する風景や小道具の配置の妙に求められるのである。

(オスマン・ハムディ画『武器商人』(1908年作):ウィキメディア・コモンズ)

最高傑作『亀使い』のインスピレーションは日本から

最後に、1回目の記事の冒頭で紹介した『亀使い』に戻りたい。

ハムディの最高傑作として名高いこの作品は、1906年、彼の晩年に描かれた。画中の老人は、冒頭でふれたとおり、ハムディその人をモデルにしている。韜晦(とうかい)に満ちた表情をしたこの老人と、彼のまわりでうごめく亀たちをめぐっては、トルコの美術界においてさまざまな解釈が提示されてきた。

いわく、亀は頑迷固陋(がんめいころう)な宗教者の暗喩であり、ハムディは彼らに教育が必要であるとして風刺しているのだ。
いわく、帝国博物館の運営や発掘事業について、思うようにいかないハムディの苦悩をこの絵は表しているのだ……。

いまや「国民的絵画」といえる『亀使い』をめぐるこうした解釈に批判的なのが、歴史家エドヘム・エルデムである。

彼は狭義の美術史家ではないが、ハムディにまつわる文献を広く渉猟し、いくつもの論考を著している。エルデムは、ハムディは絵画にメッセージ性を込めるタイプの画家ではなく、そのため絵から作者の意図を過度に読み取ろうとすることは不毛だと主張する。

エルデムによれば、亀と老人というモチーフも、深遠な意味があってのものではないらしい。そもそもオスマン帝国において亀使いという職業は存在せず、頭を悩ませたある研究者は、チューリップ時代の夜宴において、亀を燭台代わりにして庭園を歩きまわせたという故事に、『亀使い』のモデルを求めている。

しかしエルデムは、1869年にフランスで刊行された雑誌に、亀を太鼓で操る老人のイラスト(日本の絵に着想を得て描かれたという)が掲載されていることを突き止めた。のみならず、ハムディがこの雑誌を目にしていたことも、ハムディの手紙から確認している。ハムディが『亀使い』のインスピレーションを得たのは、オスマン帝国の故事ではなく、フランス雑誌のイラストからであるというのは、ほぼたしかであろう。

エルデムの研究は、トルコで過熱気味である「ハムディ熱」に冷や水を浴びせるものといえる。もちろん、ハムディの絵画の魅力がそれで損なわれたわけではない。むしろ、ハムディを健全に位置づけるために、エルデムが果たした役割は大きい。適切な根拠に基づいた評価こそが、現在においても意義ある芸術家として、ハムディを蘇らせることができるのである。

(『亀使い』のインスピレーションの元となったとされる、フランスの雑誌に掲載された挿絵:出展{Özel(ed.), Osman Hamdi Bey.})

 

<~もっと知りたい方へ~ 読書案内>

オスマン・ハムディについて、英語あるいは日本語で著されたまとまった書籍は、残念ながらありません。ここでは、関連する文献を紹介します。

エドヘム・エルデム、岩田和馬・友常勉(訳)「いかにしてオリエンタルのオリエンタリストになるのか? オスマン・ハムディ・ベイの人生と精神:1842-1910」『日本語・日本学研究』第9号、123 -156頁(PDFをダウンロード可能)

本稿の最後でとりあげたエルデム教授による論考の日本語訳。彼の主張のエッセンスを知ることができます。

 

田中英資『文化遺産はだれのものか――トルコ・アナトリア諸文明の遺物をめぐる所有と保護』春風社、2017年

ムスリムが多数を占めるトルコの人々は、異教徒の残したギリシャ・ローマの遺跡をどう認識し、いかに向き合ってきたのか? 文化遺産をめぐる刺激的な問いをとりあげた研究書です。

 

(以下はフィクションです)

梨木香歩『村田エフェンディ滞土録 』角川文庫、2007年

19世紀末、オスマン帝国を訪れた日本人青年のイスタンブル滞在模様を描いた小説。さまざまな民族からなる友人たちとの交流や、異国情緒あふれる描写が魅力的な中編です。オスマン・ハムディも、「ハムディベー」という名前で登場します。

 

(以下は番外編です)

 

ペラ美術館

『亀使い』を所有する、イスタンブルの美術館のウェブサイト。同美術館では、2019年夏より「オスマン・ハムディの世界への旅」というコーナーが新設されました。VRゴーグルをかぶって、ハムディのアトリエを散策したり、『亀使い』の絵画のなかに入り込んで亀への餌付けを楽しむことができます。

小笠原弘幸『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』

オスマン帝国は1299年頃、イスラム世界の辺境であるアナトリア北西部に誕生した。アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に跨がる広大な版図を築くまでに発展し、イスラムの盟主として君臨した帝国は、多民族・多宗教の共生を実現させ、1922年まで命脈を保った。王朝の黎明期から、玉座を巡る王子達の争い、ヨーロッパへの進撃、近代化の苦闘、そして滅亡へと至る600年を描き、空前の大帝国の内幕に迫る。

関連キーワード

{ この記事をシェアする }

コメント

alexandroshephaistion  立憲政の復活と新オスマン帝国【帝国最高の洋画家オスマン・ハムディ(4)】|オスマン帝国英傑列伝|小笠原弘幸 - 幻冬舎plus https://t.co/d0X1bVCfGX 7日前 replyretweetfavorite

オスマン帝国英傑列伝

バックナンバー

小笠原弘幸

1974年北海道北見市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。
 

この記事を読んだ人へのおすすめ

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP