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オトコ・マンガ/オンナ・マンガの世界

2019.10.08 更新 ツイート

第10回

大泉サロン誕生中川右介

竹宮惠子、「少女コミック」に紹介される

(写真:iStock.com/cienpies)

1969年、竹宮惠子は「ファニー」創刊号から連載を持つ一方で、「なかよし」にも描いている。

12月に発売される「なかよし」1970年1月号に56ページの『ラブバック』、1月増刊号に32ページの『人形おじさん』を発表した。まだ徳島大学の学生である。

1970年になると、「ファニー」が月刊から隔週刊になり、竹宮はシリアスな恋愛もの『あなたの好きな花』を1月9日・23日合併号から5月8日・22日合併号まで連載した。

ところが、この5月8日・22日号で、「ファニー」は休刊になってしまう。

 

休刊は売行不振が原因ではない。編集長の山崎が、3月1日の深夜3時40分に、道路脇に立っていたところ、乗用車が突っ込んできて、衝突し、即死したからだった。

日本出版史でも珍しい、編集長の交通事故死による休刊だった。

山崎の死は虫プロ商事全体にも影響を与え、間接的には、同社が倒産に至る悲喜劇の始まりとなる。

竹宮惠子は「ファニー」がなくなっても、仕事はあった。「なかよし」4月号から、『アストロツイン』を6月号まで連載する。

そのほか、集英社の「小説ジュニア」2月号に『白い水車小屋』、4月号に『ある愛』、小学館の「少女コミック」4月号に『女優入門』を描く。

竹宮を「少女コミック」の編集者・山本順也に紹介したのは、手塚治虫だった。山本は徳島まで来て、「少女コミック」で新しいことをしたいから、上京して本格的に描くよう促した。

そして「少女コミック」は4月から週刊になり、竹宮は『森の子トール』の連載を始めた。こうなると、学業との両立が難しくなり、5月で大学を中退した。

 

竹宮惠子と萩尾望都の出会い

萩尾望都は福岡から、たびたび上京し、「なかよし」編集部に作品を持って行っていた。

1970年4月号には『爆発会社』が載り、竹宮はこれを読んで感心し、「萩尾望都」という名を記憶に留めた。タイトルからして少女マンガらしくない。当時の未来である21世紀が舞台のSF設定のラブコメである。SFというのも竹宮が注目した理由だった。女性でSFを描くマンガ家は、少ない。

竹宮の自伝的エッセイ『少年の名はジルベール』によれば、2人が出会うのは、『爆発会社』が載った「なかよし」が発売された後、1970年春、よど号事件の直後である。3月31日に日航機が赤軍派にハイジャックされ、4月5日に人質が解放されたので、4月上旬であろうか。

以下、同書によると、竹宮はこの時、「なかよし」4月号から『アストロ ツイン』、「週刊少女コミック」5月3日号(第3号)から『森の子トール』の2本の連載を抱え、さらに読切の仕事もあったので、どうにも間に合わなくなっていた。

徳島にいたのでは様子もわからないので、「週刊少女コミック」の山本が東京に呼び出し、カンヅメにすることにし、最初は小学館の指定する旅館で『森の子トール』を描いた。

それが終わると講談社の別館に移動し、『アストロ ツイン』に取り掛かった。

あと数ページを残すのみとなり、担当編集者と雑談していると、「同じ年くらいの新人さんが上京している」という話になった。萩尾望都という名だという。竹宮が「ぜひ会わせてください」と言うと、いま編集部に来ているという。

〈驚いた。そしてまさか、会ったその日から仕事を手伝ってもらうことになろうとは! 〉と竹宮の本にはある。〈編集者の仲立ちで残りの部分を手伝ってもらうことになり、一晩中彼女と話をしながら原稿を仕上げていくことになったのである。〉

萩尾が「なかよし」編集部にいたのは偶然ではなく、竹宮を手伝うために呼ばれたという説もあるのだが、このときに2人が出会い、たちまち意気投合し、萩尾の手伝いで竹宮の原稿が完成したのは、間違いないようだ。

これは、単に若いマンガ家が知り合いになっただけでなく、日本マンガ史を変える出会いとなった。

当時の萩尾は上京すると、彼女のファンで練馬区大泉に住む増山法恵の家に泊めてもらっていた。萩尾の作品を読んで、増山が手紙を書いたのがきっかけで文通が始まったという。

増山法恵は竹宮と同じ1950年生まれで、竹宮や萩尾に「マンガに革命を!」と煽り、「花の24年組」の理論的支柱となる。マンガは描かないが、大泉サロンの主宰者だ。幼少期からピアノを学び、クラシック音楽に詳しい。さらに文学、映画にも通じていた。といっても、まだこの時点では20歳である。竹宮のプロデューサー的存在で、マネージャーだった時期もあり、また『変奏曲』シリーズなど、70年代の作品の一部は増山が「原作」だったと後に明かされる。

竹宮はいったん徳島に帰るが、マンガ家になると決意し、両親に告げると、認めてくれた。小学館の山本に頼み、石森章太郎の仕事場のある練馬区桜台に部屋を探してもらい、引っ越した。この時点で連載は「週刊少女コミック」一本に絞ることにし、『GO ! STOP ! 物語』を始める。

東京で暮らすと決めた時、竹宮は萩尾に、ルームシェアしないかと誘った。しかしこの時点での萩尾は、東京へ出ること、マンガ家になることで両親の承諾が得られなかった。

竹宮は萩尾から練馬区大泉に住む増山を紹介してもらうと、同じ練馬区なので頻繁に行き来するようになり、二人は親しくなった。

すると増山家の前にある古い二軒長屋の片方が空いた。増山は、竹宮と萩尾に、二人でそこへ住み、トキワ荘のような暮らしをしないかと提案した。萩尾も上京することになった。

かくして1970年10月、漫画史に残る「大泉サロン」が誕生する。

手塚治虫が暮らし、その後に藤子不二雄の二人が入居し、やがて石森章太郎と赤塚不二夫も暮らすようになった、豊島区のトキワ荘は、木造モルタル2階建てのアパートだった。各部屋は四畳半一間で、トイレも炊事場も共同だ。風呂は、もちろん、ない。銭湯へ行く。

一方、竹宮惠子と萩尾望都が暮らしていた「大泉サロン」は、アパートではない。そもそも「大泉サロン」は通称であり、そういう名の建物があったわけではない。

竹宮、萩尾がここで暮らしたのは2年ほどである。その短い期間に、二人のマンガを読んで手紙を出してきたマンガ家志望の若い女性たちが出入りし、竹宮や萩尾のアシスタントをしながら、マンガを語り合っていた。

この一群のマンガ家を、「花の24年組」とも言う。

24年組に誰が含まれるかは諸説ある。これも通称で、規約のある組織ではないからだ。昭和24年生まれであるかどうかは、それほど重要ではない。

大泉サロンの生みの親である増山は、24年組とは大泉サロンにいたメンバーだと定義している。そして、誰を呼び入れるかどうかは増山が決めていたという。

 

萩尾望都、「COM」に登場

竹宮、萩尾の共同生活が始まって間もない1970年11月25日、三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地へ乗り込み、クーデターを呼びかけるが失敗し、切腹した。いわゆる「三島事件」が起きた。

そのすぐあとに発売された「COM」1971年1月号に、何の説明もなく、萩尾望都の『ポーチで少女が子犬と』が掲載された。しかし目次には、どこにもタイトルも萩尾望都の名もない。81ページから92ページまでの12ページの作品で、その直前には手塚治虫の『火の鳥 第6部復活編』の第4回が載っているが、いつもは30ページ前後なのに16ページしかない。

つまり、手塚治虫が多忙で締め切りまでに、予定の枚数を完成させられず、その穴埋めとして、編集部にストックされていた新人の原稿として載ったのである。目次や編集後記は校了していたのだろう。

大泉サロンでの生活が始まると、萩尾は竹宮から「少女コミック」を紹介された。「なかよし」の路線には合わないと感じていたので、「少女コミック」に描くようになる。

講談社から小学館へ、発表の舞台を移すのである。すでに集英社は「少年ジャンプ」でデビューさせたマンガ家を専属にしていたが、講談社は、その点は緩い。

小学館は、少女マンガでは後発だった。もともと学年別学習雑誌の会社であり、少年雑誌、少女雑誌もなかったところ、いきなり1959年に「少年サンデー」でマンガに参入し、「少女コミック」の創刊も1968年と遅い。新人発掘でも出遅れていた。

そのため、新人が何を描いてもいい雰囲気があった。新しいもの、奇抜なものでも受け入れられたのである。

女性でありながら、手塚治虫、石森章太郎の少年マンガに夢中になっていた竹宮と萩尾にとって、「なかよし」の読者にあわせて既成の少女マンガを描くのは苦痛だった。

しかし、「少女コミック」は、制約がそれほどなく、自由に描けそうだった。

 

※毎週火曜更新

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オトコ・マンガ/オンナ・マンガの世界

いまや世界を夢中にさせているマンガの世界。その発祥をたどると「オトコ・マンガ」と「オンナ・マンガ」に別れ、男女の壁が当然のように存在する。日本の女性は「オトコ・マンガ」をほぼ読まず、男性は「オンナ・マンガ」を読まずに大人になった。この交じり合わない男女像が、今の男女不理解に影響を与えている……!? マンガ独特の歴史をたどりながら日本社会を語る画期的論考。

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中川右介

1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCの編集長として写真集を中心に美術書を編集、ソ連の出版社とも提携した。後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長に(2014年まで)。ドイツ、アメリカ等の出版社と提携し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどの分野で旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『坂東玉三郎』『カラヤンとフルトヴェングラー』(以上、幻冬舎新書)、『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)、『サブカル勃興史』(角川新書)、『1968年』(朝日新書)などがある。

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