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オトコ・マンガ/オンナ・マンガの世界

2019.09.10 更新 ツイート

第7回

「COM」という冒険――「花の24年組」の原点中川右介

(写真:iStock.com/Drakonova)

 

手塚治虫の数多くの功績のなかで、あまり語られないものに、「マンガ専門出版社」虫プロ商事の創業と、同社での雑誌「COM」の創刊(1966年)がある。

「少年マガジン」と劇画

まず、「COM」に至るまでの少年マンガ雑誌の歴史を振り返る。

1959年創刊の小学館の「少年サンデー」は、創刊時から手塚治虫とトキワ荘出身者を獲得し、寺田ヒロオ、藤子不二雄(当時)、赤塚不二夫らがヒット作を描いて、部数を伸ばしていた。

なかでも、藤子の『オバケのQ太郎』と赤塚の『おそ松くん』はテレビアニメ化されて大ブームとなり、小学館が1967年に建てた本社ビルは「オバQビル」と呼ばれるほどだった(2013年に取り壊された)。

講談社の「少年マガジン」は創刊時にタッチの差で、手塚とトキワ荘グループを「少年サンデー」に取られてしまい、人気マンガ家の獲得に失敗したのが響いて、「少年サンデー」よりも発行部数は少なく、その差は大きくなる一方だった。

1960年代に入ると、貸本屋の廃業が続き、貸本向けマンガの出版社の多くも倒産した。

マンガ家たちのなかにも廃業した者はたくさんいたが、当時、マンガのマーケットは拡大している最中だった。

「少年マガジン」は手塚やトキワ荘グループとは別の体質を持つ、貸本向けマンガを描いているマンガ家たちを起用することで、「少年サンデー」との差別化を図ることになった。

こうして、ちばてつや、水木しげる、さいとう・たかを、白土三平たちが「少年マガジン」に連載するようになり、この流れで、梶原一騎原作の二大名作『巨人の星』(画・川崎のぼる)と『あしたのジョー』(画・ちばてつや)が生まれた。

これらのマンガは、ストーリーマンガではあるが、写実的で緻密な線で描かれ、大人が主人公のものも多く、手塚的ストーリーマンガと区別するために、「劇画」と呼ばれ、「劇画ブーム」が到来した。

もっとも、手塚は劇画の手法を導入して、この後、青年コミックでも名作・傑作を生み、いつしか「劇画」という言葉は使われなくなっていく。

青年コミック誕生

劇画によって、「少年マガジン」の読者層は中学生よりも上、高校生、大学生、若い労働者にまで広がっていった。

 

それまでは「マンガは中学で卒業」が常識だった。高校生が読んでも面白いマンガがなかったからでもある。マンガの載っている少年誌、少女誌は、月刊から週刊になっても、その対象読者は小中学生だった。それが、大きく変わっていく。

1960年代後半、戦後のベビーブーム世代(団塊の世代)が、大学生になろうとしていた。

小学館の「少年サンデー」は、小中学生の心を摑み、創刊当初は「少年マガジン」よりも発行部数は多かったが、劇画で当てた「マガジン」に抜かれてしまう。

しかし小学館は「サンデー」を大学生が読んでも面白いものへと転換するのではなく、1968年2月、新たに、20代から30代向けのマンガ雑誌を創刊した。「ビッグコミック」である。

その前年の1967年7月には双葉社から「漫画アクション」が創刊され、ここに、青年コミックという新たなジャンルが生まれた。

この青年コミックの対になるのが「レディースコミック」だが、その登場は10年後だ。

「ガロ」創刊

劇画ブームと青年コミックの誕生に先駆けて、1964年に、「ガロ」は創刊された。

「ガロ」の版元は青林堂で、社長と編集長は長井勝一という。長井は貸本屋向けのマンガ出版社を経営し、白土三平や水木しげるのマンガを出していた。だが、経営は傾いていた。

長井と白土は今後を話し合った。白土はすでに大手出版社の雑誌に描いていたが、暴力シーン、残虐なシーンなどでの制約が多く、自由に描ける場を求めていた。

そこで新たに、好きなように描ける雑誌を創刊しようという話になった。だが長井には資金がない。そこで白土が光文社の「少年」に連載していた忍者マンガ『サスケ』の単行本を長井の会社で出すことにし、その売上で、新たに青林堂を創業した。

青林堂が、白土の大長編『カムイ伝』を連載する雑誌として創刊したのが「ガロ」だった。白土は原稿料はもらわず、メジャー雑誌に他の作品を描いて稼ぐことにした。

やがて小学館とのつながりができ、貸本時代の『忍者武芸帳 影丸伝』が小学館から出てベストセラーとなり、「大学生がマンガを読んでいる」と批判・揶揄された。そしてこの流れで、『カムイ伝』も小学館から刊行される。

一方、「ガロ」は『カムイ伝』だけでは雑誌にならないので、長井は貸本時代のマンガ家を起用していく。柱になるのは、白土の他に水木しげるである。

そして1968年6月増刊号に掲載された、つげ義春の『ねじ式』が衝撃を与えた――ということになっている。この頃から、「ガロ」はマンガ雑誌を超えて、当時の前衛的な芸術、カウンターカルチャーの牙城へと発展していく。

「COM」は「花の24年組」の原点

「ガロ」から2年遅れて、虫プロ商事から「COM」が創刊された。

虫プロダクションは手塚治虫が1962年に作ったアニメ制作会社で、日本初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』を作った会社だ。以後、『ジャングル大帝』『リボンの騎士』など手塚作品を原作にしたアニメを次々と作っていく。その版権部と出版部、営業部が、1966年に別会社の虫プロ商事となり、手塚の発案で「COM」を創刊した(1966年11月発売の1967年1月号が創刊号)。

「COM」には編集実務を担う編集長が別にいたが、「手塚治虫の雑誌」だった。

創刊号から表紙に「まんがエリートのためのまんが専門誌」と謳われていた。

この雑誌が対象とするのは、少年でも青年でも少女でもなく、「まんがエリート」なのだ。「自分は、まんがエリートだ」と思えば、男でも女でも読者となれた。大袈裟に言えば、日本で唯一の「男女別ではないマンガ雑誌」だった。

「まんがエリート」というのは、マンガを読むだけでなく、自分でもマンガを描き、マンガについて論じることができる、という意味だ。「COM」という誌名は、「COMICS(まんが)、COMPANION(仲間・友だち)、 COMMUNICATION(伝える)」の3つのCOMが込められ、マンガを持ち寄り、論じる仲間を作るための広場を目指していた。

こういう雑誌は、以前にもあった。手塚の出世作のひとつ『ジャングル大帝』が連載された「漫画少年」(学童社)である。この雑誌は読者に投稿を呼びかけ、そのためのページを設け、そこから藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが世に出た。いわゆるトキワ荘グループの原点となる雑誌だ。

その「漫画少年」が売れ行き不振で廃刊になってから10年以上が過ぎていた。手塚は、かつての「漫画少年」みたいな雑誌を作ろうと考えた。

「COM」には、手塚治虫の『火の鳥』が連載されたが、手塚はこの作品を描くためだけにこの雑誌を創刊したのではなかった。

こうして「COM」は、人気マンガ家の手塚治虫や石森章太郎が連載するメジャー雑誌の装いをしながら、同人誌的側面も持ち、創刊号から読者に創作と批評を呼びかけた。

その投稿欄は「ぐら・こん」(グランド・コンパニオンの略)と呼ばれ、「まんがマニアの集まりの場」となっていく。商業誌のなかに同人誌があるような、形態だったのだ。

創刊号の内容は、手塚治虫『火の鳥 第一部黎明編』、永島慎二「シリーズ黄色い涙・青春残酷物語その1『かたみの言葉』」、石森章太郎『章太郎のファンタジーワールド ジュン(1)』、出﨑統『悟空の大冒険』、そのほか、「まんが月評」、「戦後まんが主人公列伝」、「手塚治虫作品リスト」などが載っている。創刊号を見る限り、男性作家ばかりで、いまでいう「オトコ・マンガ」の雑誌に見えるかもしれない。

異変が起きたのが、創刊2号目の1967年2月号だった。高校卒業直前の岡田史子が描いた『太陽と骸骨のような少年』が掲載されたのだ。

岡田は北海道出身で、上京して永島慎二や西谷祥子のアシスタントをしていた。描いたマンガを永島慎二のもとに持ち込み、「ガロ」に売り込んでもらおうとしたらしい。それを先に、「COM」の編集者が見つけ、載せることにしたのだ。

ボードレールの『悪の華』の引用で始まる、いかにも60年代末の前衛っぽい作品だが、その内容もさることながら、無名の新人、それも若い女性の作品が載ったのだから、衝撃を与えた。この雑誌は、男も女も差別しない。「わたしの作品も、認められれば載るかもしれない」と思った女性は、それなりの数、いた。

「COM」はマンガ家になりたい若い男女の目標になった。

少女雑誌のほうがマンガ家が不足していたので、新人賞を設けて、発掘に熱心だった。だが、そこに応募するには、当然のことながら少女マンガを描かなければならない。

女だからと少女マンガを好きとは限らない。そんな女性たちには、何を描いてもいい「COM」は、目標とするには十分だった。

1967年7月号には、17歳の竹宮惠子の『ここのつの友情』が載り、68年2月号には19歳の山岸凉子の『水の中の空』が載る。萩尾望都も投稿を重ねていたが、なかなか入選しない。

こうして、のちに「花の24年組」と呼ばれる一群の女性マンガ家たちの歴史は、男女別ではないマンガ雑誌から、始まるのだ。

 

※毎週火曜更新

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オトコ・マンガ/オンナ・マンガの世界

いまや世界を夢中にさせているマンガの世界。その発祥をたどると「オトコ・マンガ」と「オンナ・マンガ」に別れ、男女の壁が当然のように存在する。日本の女性は「オトコ・マンガ」をほぼ読まず、男性は「オンナ・マンガ」を読まずに大人になった。この交じり合わない男女像が、今の男女不理解に影響を与えている……!? マンガ独特の歴史をたどりながら日本社会を語る画期的論考。

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中川右介

1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCの編集長として写真集を中心に美術書を編集、ソ連の出版社とも提携した。後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長に(2014年まで)。ドイツ、アメリカ等の出版社と提携し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどの分野で旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『坂東玉三郎』『カラヤンとフルトヴェングラー』(以上、幻冬舎新書)、『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)、『サブカル勃興史』(角川新書)、『1968年』(朝日新書)などがある。

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