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ぼくは、平熱のまま熱狂したい

2019.09.02 更新 ツイート

朝顔が恋をしているのは、いったい誰なのか。切ない宮崎智之

日常生活を平熱のまま見つめ、言語化することを得意とする宮崎智之さん。なにげない日々のなかには静かな熱狂が埋まっているのです。

最近よく転ぶ。2回目は部屋の中で盛大にひっくり返り、数日間の痛みが残った。腰も肩も首も痛いし、常に頭痛がする。催促状に気がつかなかったのか、払っていたと思っていた去年の国民保険料を払っておらず、延滞税を取られた(今年度の分はきっちり収めていたのに)

なぜこんなに嫌なことばかり続くんだろうとあれこれ考えていると、ふと大切なことを思い出した。そうだ、今年は朝顔を育てていないんだ。朝顔は毎夏に育てることが何年か続き、一度は中断したものの、去年の夏に栽培を再開した、はずだった……。

その朝顔を今年は育てていない。去年は成長記録をiPhoneで撮って、まったく人気がなく需要もないのに、わけのわからない朝顔成長日記までSNSに投稿していたではないか。そんな大切な朝顔を育てていないなんて、嫌なことがあっても仕方ないな、と反省した。

そもそも朝顔を好きになったのは、『万葉集』に出てくる、ある朝顔の和歌が好きだからである。好きだからである、と生ぬるい表現を使ったが、その和歌を見たとき、ぼくは正直、脳天を叩き割られたような衝撃を受け、すっかり度肝を抜かれてしまった。

その和歌はこんな作品だ。

展轉(こいまろ)び恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝貌の花

歌意:身もだえして恋に苦しみ、死ぬようなことがあろうとも、はっきり態度に出して人には知られまい。朝顔の花のようには。(※)

作者不詳の作品である。なんてことだ。なんて想像力なんだ。朝顔のようには、恋心を態度に出さない。それはつまり、朝顔の花は恋心が色に出てしまっている、ということでもある。

もちろん、ぼくにだって花から、なんらかの感情を沸き起こすことはある。梅、桜、あじさい、いやもしかいたらバラにだって感じるかもしれない。それにしたって、まさか朝顔を見て、「恋心が色に出てしまっている花」と感じる人がいるとは。これは、都市文明に生きているぼくたちには、容易には気づくことができない自然の表情なのかもしれない。しかし、昔の誰だかわからない作者は、道端の朝顔を見て、そのような感情を抱き、和歌にしたためたのである。

そう言われてみれば、そんなふうに見えないではない。赤、青、紫といろいろな色があるが、色によって恋心が少し異なって見えるような気もする。そう感じているうちに、朝顔に並々ならぬ愛着がわいてきた。恋心が色に出てしまっているなんて、なんて愛らしい花なんだ、と。

 

ぼくは、夏が嫌いである。暑さに耐えられないし、日光を浴びるのも苦手だし(冬の寒さも苦手なのだが)、なるべくなら外出したくない。海なんてもってのほかだ。海に行くと熱が出るため、冷房の効いた部屋で過ごすのが一番である。だが、その和歌を知ってからは、夏が少し好きになった。そして、朝顔の花が咲くと、なんとなく切ない気持ちになった。
 

 

そんな、大切な朝顔の存在を忘れていたなんて……。しかも、新しい土と肥料まで買っておいたのに、仕事が忙しかったでは言い訳にならない。朝顔の種をまいて、育てて、花が咲き、散るのを見届ける。お前は、人生にとってそれほど重要な生活の彩りを忘れるくらい、余裕がなく忙殺されていたのか。生きる喜びを忘れてしまっていたのではないか、と。

そんなわけで、当分のところは嫌な出来事が続きそうである。

当然、朝顔の和歌から学んだことは、日々の生活を大切にして、美しいものに触れる、といった単純な(しかし大切な)ことだけではない。やはり、どうしても忘れられなかったのが、朝顔を見て「恋心が色に出てしまっている花」と感じた、作者不詳さんの想像力の凄まじさである。その感覚が、現代のぼくにもなんとなくだが伝わることにも驚いた。

これは面白い。花から、なんらかの心象風景を想像することが、こんなにも裾野の広い営みだったとは。たしかに、「花曇り」という日本語があるが、「花」をつけただけで桜が咲く季節の薄雲のなんとも言えない、気怠い感覚が伝わってくる。もしかして、「あなたは、まるで朝顔の花のようですね」と言ったら、「恋心が顔に出ていますよ」という意味になって、なんかカッコいい感じになるのではないか。花って、なんてすごいのだろう。

適当な性格にもかかわらず理屈っぽく、無駄に勤勉なぼくは、いつもならここで『万葉集』や別の和歌集を紐解いて、「花」に心象風景を表現した作品はほかにないか、と探すところである。

しかし、これに限っては、過去の文献を探るのはやめた。もちろん、過去を知ることは大切である。過去を知らなければ、なにが新しいかを判断できないという事実もある。だが、過去の人ができたことなのだから、ぼくにもできるのではないか、とも思う。人、物、花から想像力を膨らませて、心象風景を描き出す。ぼくに足りないのは、そういった風情を鍛えることなのではないか。過去の和歌に触れるのは、その後でも間に合う。

というのも、花とは違うが、過去に同じような体験をしたことがあるからだ。

大学を卒業して入った会社の上司との折があわなかった。決して悪い人物ではなかったものの、典型的な体育会系で集団主義。ぼくがノルマを達成できても、「他の人がまだ達成できていない」という理由で、繁忙期の週末に休みを取らせてくれなかった。

しかも、その日はぼくが大好きで楽しみにしていたバンドのライブがあったのである。

その日、関東地方は台風の影響で天気が荒れていた。意味のない出社をさせられ疲弊して帰る途中、信号待ちをしながら、放心状態に陥っていた。見通しがよい、直線の二車線道路。信号待ちといっても、一台もクルマが走っていない。にもかかわらず、雨の中、たたずむ自分に「いかにも規律を守る日本人らしいな」と苦笑いしていた。

まさに、そんな時である。強風でなにかが飛んでくるのが見えたのだ。そのなにかは足元の水たまりに落ち、泥だらけになって、また強風に吹かれて転がっていった。ブラジャーだった。それは、まぎれもなくブラジャーだった。誰かが干していた洗濯物が、飛ばされてきたのだろうか。徐々に遠ざかり、小さくなっていく泥だらけのブラジャー。ぼくはその瞬間、会社を1年で辞めることを心に決心したのであった。

なにを言っているのだと思うかもしれないが、その時、ぼくはたしかにその情景に「退職」という心象風景を見出したのである。当時は気づかなかったものの、『万葉集』にある朝顔の和歌を知った後のぼくなら、そのことをはっきりと意識することができる。

とはいえ、ブラジャーはそう頻繁に飛んでこない。ここはひとつ昔の人に習って、身近な花で想像力を鍛えてみようじゃないか。そう思った日から、花をじっくり見るようになった。

金木犀の花の香りがするとたまらい気持ちになるなあ、と思ったりもしたが、これはフジファブリックの志村正彦さんの歌詞を聴いてからそう思うようになったのであって、オリジナルの想像力ではなかった。タンポポの花をじっと見つめてみた。黄色い。そして、いずれ白い綿毛になって生命をつなぐ。春の訪れを伝えてくれる素朴で可憐な花。

タンポポを見ると、ぼくにはカフェインの入っていない炭酸の栄養ドリンクを飲んでいる情景が浮かぶものの、これにはきっと誰も共感しないだろうから、想像力が足りない。

ただ自分で思うだけでは駄目なのだ。1千年後の人にも伝わる心象風景を掴み取らなければならない。

ところが、それが簡単にいかなかった。いくら頭で考えて表現を引っ張り出しても、その花の咲く、その季節の実体験と結びついていなければ、ただのひとりの妄想である。その実体験が多くの人の実体験と結びついており、その人々も同じような心象風景を呼び起こすような表現を掴みたい。たとえそう感じない人がいたとしても、その花と辛抱強く向き合うことにより、なるほどたしかにそうかもと思わせる普遍性がなければならない。

それにしては、武蔵野の自然が残っている街だとはいえ東京で生まれ育ったぼくには、花に触れた経験が少なすぎる。ならば、いっそ別のもので……とも思ったが、花で得た衝撃は、花で乗り越えていきたい。向日葵ならば……駄目だ、太陽しか思い浮かばない。これではさすがにありきたりだ。そんなことを思ううちに、もう何年も経ってしまった。

結局、ぼくなんかには、花と向き合うほどの想像力と風流さがないのだろうか。夏といえば朝顔、という大切な習慣まで忘れるほど心を失ってしまう始末である。しかし、この挑戦はまだ終わっていない。いつか自分もその器になるんだ、と心の中では静かに燃えている。

ちなみに、以下は漫画家・オノナツメさんの作品『ふたがしら』に引用された『万葉集』の和歌である。一説では、壱師(いちし)とは彼岸花のことだという。『ふたがしら』の主人公たちが立ち上げた盗賊一味の名前も「壱師」であり、物語の重要な場面で柿本人麻呂による以下の和歌が引用される。

路(みち)の辺の壱師の花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻を

歌意:路のほとりの壱師の花のようにはっきりと人はみんな知ってしまった。私の恋しい妻を。(※)

昔の人の想像力とは、なんてすごいのだろうか。何年経っても、越えられる気がまるでしない。来年きちんと朝顔の種を植え、育てることからやり直すしかないようだ。

いつか、このご時世に「花が綺麗」だけで成立するエッセイを書いてみたいと思っていた。その願いは叶ったが、ぼくの書けるのは今のところこの程度のことなのである。

(※)『万葉集 全訳注原文付』(中西進、講談社文庫)第二、第三巻より(掲載順)

補足:『万葉集』の朝顔は桔梗であるという説があり、宮城環境保全研究所のホームページによると、「今でいうアサガオは、平安中期に中国から伝わった外来種で、万葉時代には存在しなかった筈だ」とされている。一方、2015年7月31日付の読売新聞(東京夕刊)によると、「変化朝顔研究会」副会長の伊藤重和氏が、「朝顔は奈良時代に薬草として日本に持ち込まれたとされています」としており、『万葉集』が成立した奈良時代末期にはすでに伝来していとも考えられる。

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宮崎智之『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』

どうにもしっくりこない人がいる。スーツ姿にリュックで出社するあの人、職場でノンアルコールビールを飲むあの人、恋人を「相方」と呼ぶあの人、休日に仕事メールを送ってくるあの人、彼氏じゃないのに〝彼氏面〟するあの人……。古い常識と新しい常識が入り混じる時代の「ふつう」とは? スッキリとタメになる、現代を生き抜くための必読書。

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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