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ぼくは、平熱のまま熱狂したい

2019.08.02 更新 ツイート

僧侶が小学生にがっかりして、「優しさ」について考えた話宮崎智之

日常生活を平熱のまま見つめ、言語化することを得意とする宮崎智之さん。なにげない日々のなかには静かな熱狂が埋まっているのです。

優しい人になりたいな、と思う。20代の頃は自分ばかりにしか興味が持てず、ことさらそんなことを考えたりしなかったが、それなりに人生経験を積むうちに、人間はひとりでは生きていけないことや、人生は理屈だけで割り切れるものが少ないこと、人間はもろくて壊れやすいこと。そんな当たり前のことが、徐々にだがわかるようになってきた。

 

それでも自分がやっぱり自己中心的で理屈っぽいなと思うのは、「人に優しくすると自分が気持ちいい」という、打算的な思いがどこかにあることに気づいているからだ。

人に道を教えると気持ちいい。忙しい時だとしても、困っている人の相談に乗るのは気持ちいい。少額だが、同業の後輩にお金を貸したことも何度かある。自分に余裕があるときなら、同じ数万円であっても相手にとってのほうが価値ある貴重なお金になるし、たとえ返してもらえなかったとしても、親切をして自分が気持ちいい範囲の金額なら問題ない(ありがたいことに、今のところすべての人に返してもらっている)。

自宅マンションのテナントに、コンビニが入っている。当然、毎日のように通っていて、朝でも昼でも夜中でも、部屋着にキャップをかぶった姿で神出鬼没に現れるぼくに、店員はなにか変なあだ名をつけているに違いない(たとえば「帽子ニート」とか)。

そのコンビニに、Kさんという店員がいる。Kさんは、おそらくアジア系だと思われる、痩せて日に焼けた20代前半くらいの青年で、とにかくキビキビとよく動く。近くにオフィスがいくつかあり、時間帯によってはとても混む店なので、Kさんが入っているかどうかで会計のスムーズさがだいぶ違う。タバコの銘柄もすべて覚えているし、弁当を温めている間に他の客の会計を手際よく済ます軽やかさなど、とにかく仕事ができる男なのである。

しかも、Kさんはどんなに忙しい時にでも笑顔をたやさず、いつも明るく大きな声で「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」とあいさつする。少し訛りはあるけど、日本語がうまく、ぼくがポイントカードを作らない主義なのを覚えてくれていて、他の店員と違い「ポイントカードをお持ちですか?」と聞くマニュアル通りの対応を省いてくれる気のきいたところもある。

そんなKさんにも、ひとつだけ弱点がある。それは、会計の時に合計やおつりの金額を日本語の数字で伝えるのが苦手なのだ。「525円になります」の数字の部分でいつも必ずつまずき、難儀そうに発音している。たしかに、海外旅行に行ったときなど、数字を覚えたり、発音したりするのに苦労する。合計やおつりの金額はレジに表示されるし、機械に合計金額を入れて、自動的におつりがでる仕組みだから間違えようがないのだが、少なくとも日本ではお金を預かった際は、きちんと数字を言葉で伝えることになっている(以前、TBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」でも同じようなネタが投稿されていた)。

あるとき、いつものように金額を言いにくそうにしているKさんに、ぼくは「1250円」と日本語では発音してみせた。するとKさんはいつになく真剣そうな眼差しでぼくを見つめて、「せんにひゃくごじゅうえん」とゆっくり発音した。うなずくぼくに、Kさんはうれしそうに「1250円」と大きな声でもう一度発音して、会計を素早く済ませてくれた。

それ以来、Kさんが数字を言いにくそうにしているたびに、ぼくは正しい発音を伝え、Kさんが復唱する、というやりとりが続いた。いつしか二人の恒例行事になり、ぼくが店内に入ってくると、「今日は間違えませんよ」とい言いたげな笑顔をみせてくれるようになった。そういうときに限って、「679円」といった難易度の高い数字だったりする。600は、「ろくひゃく」でも「ろっひゃく」でもなく、「ろっぴゃく」であり、外国の方からするとややこしい発音であることに、ぼく自身もそのとき気が付いた。

Kさんの日本語は日々、上達している。もちろん、数字の発音も。最近では、コンビニの前を素通りするぼくに気づいて、店内から満面の笑みを投げかけてくれるようにもなった。それまでコンビニは、無機質で、マニュアル的で、どこに入っても同じだと思っていたが、その認識が変わった。ぼくの行為が親切なのか、それとも余計なお世話なのか実際のところはわからない。しかし、少なくともぼくは気分がいいし、Kさんが大好きである。

「優しさ」といえば、こんなこともあった。

ある日、ぼくは京王井の頭線の下り電車に乗っていた。車内は混雑はしていないけど、座席は埋まっていて、何人かの乗客は立っている状態。やがて電車が駅で停まって人が降り、また同じくらいの人数が乗ってくる。そのとき、塾の教材なのか、熱心に漢字ドリルを睨んでいた小学生の男の子が、何かに気がついたように突然席を立って、ドアの横のスペースに移動した。空いた席には、80代くらいのおばあさんが腰を下ろした。

なんと微笑ましい光景だろう。30代でまだ体力があるはずのぼくが先に気が付かず、席を譲らなかったことを少し恥じた。席に座っている周りの乗客も同じように感じているようだった。最近の小学生は、塾に通ったり、席を譲ったり本当に偉いなあと感心した。

おばあさんは2駅目で席を立った。電車を降りる間際、ドアの横に立っている男の子に、「譲ってくれてありがとね」とゆっくりした口調でお礼を言った。ますます心が温まる。ぼくは東京出身で、「東京の人は冷たい」と言われるたびに、「そんなもんかなあ」と思っていたが、まったく違うではないか。殺伐としがちな電車内の出来事を眺めながら、年の離れた他人同士でも心を通わす瞬間が東京にもあるのだ、と思った。

しかし、である。おばあさんから丁寧にお礼を言われた男の子は、漢字ドリルから目線を少し上げ、「乗り過ごさないように、3つ前の駅で立ちなさいとお母さんに言われているから」とそっけなく答え、すぐに目線を落とした。う〜む。そういうことか。

この出来事を目撃して、ある物語を思い出した。『宇治拾遺物語』の「田舎の児、桜の散るを見て泣くこと」である。話としてはなんてことない。田舎から比叡山に来た稚児が、桜が散るのを見て泣いていたところ、僧が「なぜ泣いているのか。桜は儚いものであって、それは仕方ないことなのだ」と慰めた。すると稚児は「桜が散るのは気になりません。ぼくの父が作っている麦の花がこの風で散って、実らないと思うのがつらいのです」と答えた。それを聞いて僧は、「何ともがっかり」と思った、という(※1)。

「何ともがっかり」というのが実にいい。稚児としては完全な言いがかりであって、ひどい話である。しかし、ぼくも(もしかしたら他の乗客も)、井の頭線で起こった小学生とおばあさんのやり取りを聴いて、同じことを思ったのではなかっただろうか。せっかく心温まる場面に遭遇したと思ったのに、「何ともがっかり」であると。

このモヤモヤについて、ぼくは何日かそれとなく思考を巡らすことになった。とくに明確な結論はでなかったが、結果的におばあさんにとって親切な行為になったのならよかったのではないかと考えることにした。そもそも優しさとは、そんな厳格なものなのだろうか。打算的であったり、動機が思ったものと違ったりしたからといって、優しさは価値を落とすのだろうか。崇高な動機がなければ優しさではないならば、優しさのハードルは高まってしまう。修行を積んだ比叡山の僧だってあんな感じなんだから、もっと適当に考えていいのではないか。たとえ偽善だとしても、しないよりはマシである。

そういえば、社会主義国家であるキューバのハバナを旅行したとき、街でなにもせずフラフラしながらお酒を飲んでいる人をよく目撃した。しかし、少なくとも旅行者から見た立場では、街に殺伐とした雰囲気はなかった。ぼくが一生懸命に働いているキューバ人ならば、不公平に感じてしまいそうなものだが、なんとなく街をおおう空気がおおらかなのである。

その証拠かどうかわからないのだが、ハバナにはやたらと銅像が多い。すごく頑張った人を、国を挙げて賞賛しているのだ。えらい! 俺らにはそんな立派なことできねえよ、とばかりに。

キューバの件は、あくまでぼくの印象であって、実際はどうなのかわからない。でも、そう感じさせてしまうくらい適当でおおらかな空気は衝撃的ではあった。小学生なのに塾に通って勉強し、仮に動機が周りの人の思っていたものとは違っていたとしても、おばあさんに2駅分、座らせることができたあの男の子の銅像を作ってしまう大雑把さが日本にあったら面白いと思う。飼い主に忠義を尽くした犬の話も大好きではあるが。
 


ぼくの昔からの持論に「0を作る理論」というものがある。どういうことかというと、ぼくは妻と買い物に行く時、レジ袋に入った荷物を全部持つことにしている。そのたびに、妻は「半分は持つよ」と申し訳なさそうに言うのであるが、ぼくはポリシーとして持ちきれる荷物はすべてひとりで持つ。なぜなら一つ持とうが、二つ持とうが、つらいものはつらいからである。

つまり、5対5でつらさを分配するよりも、10対0のほうが、0を一つ作れたぶん、得した気持ちになるのだ。ストレスフリーな魔法の数字である0。ひとりはつらいが、もうひとりは思いっきりラク。こんな素晴らしいことはなく、つらさを均等に分配しなければならないという発想は馬鹿らしく感じる。

この理論は、他の場面にも適応され、たとえばクルマの同乗者が疲れているならば、運転手以外は眠ってもいいと思っている。それを嫌がる運転手も多いらしい。しかし、5人乗りのクルマで4人が寝れば0を4つも作れることに注目をしてほしいのだ。

仕事も同じである。上司より仕事が早く終われば先に帰ってもいいし、ある部署が繁忙期だからといって、他の部署まで残業することはない。ラクをできるならしたほうがいい。

この「0を作る理論」を、別の連載で提唱したところ、「奥さんは、すべて夫に荷物を持たせていると周りに思われて、嫌な思いをしているのでは?」「ただの自己満足」という批判が寄せられた。まあたしかに、そこが優しさの難しいところではある。もちろん、相手の気持ちを考えなければいけないし、ケースバイケースで持論を引っ込めるべきだ。

一方で、「この筆者は優しい人」という感想もたくさんあった。「自己満足」という指摘は当たっていて、ぼくとしては「優しさ」とは違うものなのだが、そう捉える人もいる。

ちなみに、この原稿は、自宅近くのカフェで書いている。中央にある大きな丸机の一角を陣取り、パソコンを広げて執筆していたのだが、途中でご高齢の男女の集団が入ってきて、丸机に座ろうとした。「原稿に集中したいのに、お喋りでうるさくなりそうだな」と思ったぼくは、それとなくカウンター席に移動して、執筆を続けることにした。

すると、ぼくの席が空いたぶん、ご高齢の男女の集団は、ちょうどぴったり丸机の席に収まることができた。ひとりのおじいさんが「ありがとうございます」とお礼を言ってきた。素直な小学生ではないぼくは、「どういたしまして」と笑顔で返事をした。

優しい人になりたいな、と思うけれど、本当にそうなれているかどうかはわからない。厳格さも崇高さも、ぼくは持ち合わせていない。ぼくは、打算的で理屈っぽくって、かつ適当が好きな人間なのである。そんなぼくでも、優しい人になりたいとたまには思う。

(※1)『新明解古典シリーズ7 今昔物語集・宇治拾遺物語』(三省堂)を参考

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関連書籍

宮崎智之『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』

どうにもしっくりこない人がいる。スーツ姿にリュックで出社するあの人、職場でノンアルコールビールを飲むあの人、恋人を「相方」と呼ぶあの人、休日に仕事メールを送ってくるあの人、彼氏じゃないのに〝彼氏面〟するあの人……。古い常識と新しい常識が入り混じる時代の「ふつう」とは? スッキリとタメになる、現代を生き抜くための必読書。

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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