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オトコ・マンガ/オンナ・マンガの世界

2019.08.20 更新 ツイート

第4回

手塚治虫が作った“少女マンガ”の様式中川右介

第1回「マンガには『オトコ・マンガ』と『オンナ・マンガ』がある」はこちら

(写真:iStock.com/art12321)

1947年、手塚治虫の、伝説のマンガ『新宝島』が出版され、40万部が売れたという。以後、手塚治虫は大量の、ストーリーのあるマンガを描き下ろしていく。ほとんどが少年が主人公の冒険ものだったが、なかには、メルヘンもあった。

敗戦直後、手塚治虫のストーリーマンガよりも前に、子供たちが親しんでいたフィクションは、少年小説、少女小説だった。戦前から「少年倶楽部」「少女倶楽部」などの少年少女雑誌があり、そこには挿絵入りの小説が載っていて、人気があったのだ。

 

当時の少女小説は「かわいそうな女の子」が、苦労して、幸福になるというのが基本ストーリーだった。

戦争は、多くの戦災孤児を生んだので、1950年前後は「親のない子」は多かった。

いい人に育てられて幸福な子もいれば、いじめられたり、学校へ行かせてもらえず働かされていた子も多い。継母にいじめられるというのは、西洋でも「白雪姫」「シンデレラ」のように、子供向きの物語の定番である。

そういう物語を読んで、主人公と一緒に泣いたり、わたしはこの子よりは幸福だと安心したり、その楽しみ方はさまざまだが、そういう小説が流行していた。

その頃に、少年雑誌、少女雑誌に載っていたマンガは、まだストーリーを語るものではなかった。

 

少女マンガ=笑える生活マンガ、を激変させた手塚治虫

手塚マンガも、最初は新聞のコママンガか描き下ろしの単行本で、1949年までは少年雑誌にも少女雑誌にも載っていない。

手塚治虫が雑誌の世界に本格的に進出するのは、1950年の『ジャングル大帝』からで、「漫画少年」という月刊誌に連載された。これは学童社という、講談社の名編集者が興した出版社の雑誌だ。

続いて、光文社の「少年」で1951年から『鉄腕アトム』シリーズが始まる。

50年代半ばは、戦後のベビーブーム世代、いわゆる団塊の世代が小学生になり、少年雑誌、少女雑誌を読む時期になっていたので、次々と雑誌が創刊され、手塚治虫は一気に、5本、6本の連載を抱えるようになる。

そして、1952年、講談社の「少女クラブ」で、『リボンの騎士』の連載が始まる。日本初の、ということは世界初の「少女向け長編ストーリーマンガ」である。

 

手塚治虫のもとに「少女クラブ」編集部から依頼があったのは1952年秋で、同年12月発売の1953年新年号からの連載が始まった。

この頃から、少女雑誌にもマンガは掲載されるようになっていたが、手塚によると、〈それまでの少女漫画は「あんみつ姫」に代表されるように、お笑いとユーモアだけでつくられた生活漫画でした〉という状況だった。1回数ページで完結するマンガだ。

マンガは、「笑えて、楽しいもの」だったのだ。悲しいお話、ドキドキするお話は、少女小説が担っていた。

それは少年マンガでも同じで、手塚治虫の描く『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』は異質で、大半はユーモアのある生活マンガだった。「こっけいなこと」を、「マンガみたい」と言うのは、その名残だ。

「少女クラブ」はその異質なものを、少女雑誌でも始めようとした。担当編集者は牧野武朗といい、東京文理大学哲学科を出たばかりの青年だった。哲学では「既成概念を捨てる」ことを学んだ。そこで、少女雑誌の既成概念を捨て、これまでにないマンガをと考え、少年マンガで革命を起こしていた手塚に依頼した。

 

宝塚歌劇の世界観をとりこむ

手塚治虫は幼少期からいまの宝塚市に住んでいた。いうまでもなく、宝塚歌劇の聖地である。母は音楽と演劇好きでもあったので、少年時代から宝塚歌劇に親しみ、大学生になり、マンガの仕事もするようになると、宝塚歌劇団が出す雑誌にイラストを描く仕事もしていた。

手塚治虫は少女雑誌から依頼されると、女の子が喜ぶもので、いまの少女向けのマンガと、少女小説にないものは何かと考え、宝塚歌劇の世界観をマンガにしようと思いついた。

西洋を舞台にし、男装の少女が主人公、妖精や魔女も登場させる。物語は、王位継承をめぐる政治ドラマを背景にしつつも、メインは「恋」。

まず、西洋を舞台にしたマンガが、初めてだ。少女小説の舞台は日本、主人公は日本人。外国を舞台にした小説は、翻訳ものしかない。妖精や魔女も、珍しい。

だが、何よりも「恋愛劇」というのが画期的だった。それまで少女雑誌で、小説やマンガで描かれてきた「愛」は、親子やきょうだいの愛しかなかったのだ。

『リボンの騎士』はカラーだったこともあり、人気が出た。続いて手塚治虫は、光文社の「少女」、集英社の「少女ブック」、実業之日本社の「少女の友」などにも連載するようになる。

当然、手塚治虫以外のマンガ家も少女向けのストーリーマンガを描くようになる。

だが、当時は「女性マンガ家」がほとんどいないので、男性マンガ家が描いていた。

1950年代にデビューした、横山光輝(1934~2004)、ちばてつや(1939~)、石ノ森章太郎(1938~1998)、赤塚不二夫(1935~2008)らは、みな初期には少女マンガを描いていたのだ。

手塚治虫は少年マンガでも、日本の普通の少年を主人公にしたマンガは、あまり描かない。基本的にはSF作家であり、少女マンガでもファンタジー系が多い。

次世代のマンガ家は、手塚治虫が作り上げたストーリーマンガという様式をもとに、日本の、いまに生きる普通の女の子の日常での冒険的な、等身大のフィクションを描いていった。

これは少年マンガにおいても、同様だ。

手塚治虫が偉大なのは、それまでにないストーリーマンガというジャンルを作ったというオリジナリティにあるだけでなく、そのジャンルを誰でも描ける汎用性のあるものにした点にもある。

手塚治虫は自分のファンだった、藤子・F・不二雄(1933~96)、藤子不二雄Ⓐ(1934~)、石ノ森章太郎たちのデビューを助け、仕事の斡旋もし、ときには自分の仕事を手伝わせることで、手塚様式の普遍化をしていき、ジャンルとしてのストーリーマンガの勢力を拡大していく。

それと、団塊の世代が小学生、中学生になり、少年少女向けの出版市場が拡大していく時期とが重なった。

 

※毎週火曜更新

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オトコ・マンガ/オンナ・マンガの世界

いまや世界を夢中にさせているマンガの世界。その発祥をたどると「オトコ・マンガ」と「オンナ・マンガ」に別れ、男女の壁が当然のように存在する。日本の女性は「オトコ・マンガ」をほぼ読まず、男性は「オンナ・マンガ」を読まずに大人になった。この交じり合わない男女像が、今の男女不理解に影響を与えている……!? マンガ独特の歴史をたどりながら日本社会を語る画期的論考。

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中川右介

1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCの編集長として写真集を中心に美術書を編集、ソ連の出版社とも提携した。後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長に(2014年まで)。ドイツ、アメリカ等の出版社と提携し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどの分野で旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『坂東玉三郎』『カラヤンとフルトヴェングラー』(以上、幻冬舎新書)、『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)、『サブカル勃興史』(角川新書)、『1968年』(朝日新書)などがある。

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