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ぼくは、平熱のまま熱狂したい

2019.06.03 更新

明るさは滅びの姿であろうか宮崎智之

日常生活を平熱のまま見つめ、言語化する宮崎智之さんの新連載。静かな、冷静な熱狂とはどんなものなのでしょう――? それはなにげない日々のなかに埋まっています。
 

太宰治の滅び、もしくは二瓶さんとの雅な蹴鞠

お酒を浴びるように飲んでいた時代の知り合いに、二瓶さんという男性がいる。

ぼくは現在、お酒を飲まない。といっても元は大酒飲みであり、フリーランスになったことをいいことに毎日朝から酒を飲んだ挙句、急性すい炎を二度やり、ついでにアルコール依存症とも診断されて、30代中頃で早々にお酒を引退した。二瓶さんは、まだぼくがお酒を飲んでいた時に主戦場としていた下北沢の酒場で出会った、40代中頃の男性だ。

太宰治の『右大臣実朝』という中編のなかにこんな言葉が出てくる。

 

平家ハ、アカルイ。(...)アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

太宰文学のなかで、間違いなく一番の名作だと断言できるのが、この『右大臣実朝』である。タイトルの“実朝”とは源実朝(みなもとのさねとも)のことで、鎌倉幕府の第3代征夷大将軍にして歌集『金槐和歌集』の作者としても知られる。建保7(1219)年、雪の積もる鶴岡八幡宮で、兄である頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺された、なんとも切ない将軍である。享年28歳。鎌倉幕府の最後の源氏将軍となった。

『右大臣実朝』は、そんな実朝の生涯を、『吾妻鏡』や『承久軍物語』などの古典を引きながら、彼に仕えた従者の視点から描いた作品だ。昭和18(1943)年という日本が敗戦に向かう時期に発表されたからか、『斜陽』や『人間失格』といった戦後に書かれたものと比べて退廃、厭世観を直接的に描いた作品ではないが、そのぶん筆致がおさえられた表現のなかに、濃い陰影や人間の愚かさ、そしてそこから漂う滅びの雅(みやび)が凝縮されている。

そして、先の引用を読み返すたびに思い出すのが、ぼくにとって二瓶さんという存在なのだ。

二瓶さんとは、もちろん仮名である。しかし、なぜか二瓶さんは、本名よりも二瓶さんという名前がよく似合うような気がしている。個人的には改名してほしいくらいだが、それも無茶な話なので、とりあえず二瓶さんということで話を進めたいと思う。

二瓶さんは、下北沢のうらぶれた飲み屋街に来る客としては、とても品のある風貌をしていた。40代中頃にもかかわらず子どものようなもち肌で、頬はうっすらと赤らんでいる。透き通るような白い肌をしているものの、不健康な様子はなく、とても血色がよい。

小太りの中年男性によく見られるたるんだ感じはなくて、むしろハリのある体型をしている。ポコっと出たお腹は愛らしく、少し甲高い声で笑うと切れ長の目がより細くなって糸のようになった。「麻呂」を付けて呼びたくなる公家のような気品をまとった大人の男性だ。

実際に、二瓶麻呂はインテリで、誰もが知る大手企業に勤めていた。その後、会社をあっさり辞め、大学に戻って新たな勉強を始めたのも、俗にとらわれない鷹揚さゆえだろうか。大層な酒飲みだが、乱れることはなく、「宮崎くんも大変だね。でも、そんなに頑張っているんだから誰かが見てくれているよ」と、いつも酔っ払って仕事の愚痴ばかり言うぼくに明け方まで付き合ってくれた。そして、あの上品な、柔和な笑顔を見せ、一杯おごってくれるのであった。

二瓶さんの美徳をあげていくときりがないが、愚かな酒飲みだったぼくと徹底的に違ったところは、きちんと休肝日を設けていることである。なぜ、ぼくがそんなことを知っているのかというと、二瓶さんはフェイスブックで必ず「今日は休肝日です」と投稿するからだ。二瓶さんは、とても育ちがいいのである。それを見て、毎日のように酒場に通っていたぼくは、「なんだ、今日はいないのか」と肩を落としたものだ。

しかも、おじさんがよくするようなテンプレの投稿ではなく、「今日は休肝日です」のほか、「今日はお勉強があるので、休肝日といたします」とか、「せっかくの休肝日なので、冷凍していた手羽先を使ってスープカレーでも」とか、「本日の休肝日スイーツは、六本木で買ったザッハトルテ」などと、写真付きで投稿してくれる。アルコールをとにかく頭の中に流し込んで、嫌なことを忘れたいと思っていたぼくと比べると、なんと優雅なことか。きちんと生活を楽しむのが二瓶さん流なのだ。いつも小綺麗な服装で飲み屋街に現れる二瓶さんに密かに憧れていて、こんな立派な大人になりたいものだと思っていた。

そんな二瓶さんとも、優雅とは程遠い飲み方のせいで断酒をよぎなくされてからは、すっかり疎遠になっていった。酒場の友情とは、とても儚いものなのである。お酒から遠ざかってからというもの、二瓶さんの雅な休肝日をただただフェイスブックでそっと見守るだけになってしまっていた。

翌日が休日の、ある日曜日。ぼくは朝方まで原稿に追われていた。その日は、よく通っていたバーで働くバーテンダーの誕生日で、夜な夜な店でパーティーが行われているはずだった。久しぶりに顔を出そうと思ったが、仕事はあるし、お酒も飲めないし、どうせ朝方までドンチャン騒ぎしているのだろうから、閉店間際に顔を出せばいいや。そう思い、ひとまず目の前の原稿に集中した。

朝靄が立ち込める、下北沢の繁華街である。空がうっすらと明るみ、いつまで経っても飲み足りない酔っ払い達が、まだ開いている店を探して千鳥足でさまよっていた。つい10分前まで原稿を書いていたぼくは、彼、彼女達を避けるように、いきつけだったバーを目指していた。

遠くに、見慣れたバーの看板が見える。いまだ煌々と照らされ、距離がありながらも店内で宴が催されている絢爛な雰囲気が伝わってきた。寝不足と、パソコンのディスプレイを長時間見つめていたせいで疲れている目をこすりながら、気怠い足取りでぼくはバーに向かって歩を進めていた。

残り20メートルくらいになったころだろうか。目的のバーの向かいにある飲み屋から、コロコロした白い物体がひょっこりと現れた。その物体がなんなのか、ぼくにはすぐ判断できなかった。正体不明の白い物体は朝靄の中、まだか弱い陽光を反射して、神々しく光って揺れていた。

近づくにつれ、徐々にその物体の輪郭があらわになってくる。遠目では丸みを帯びていると思っていた物体に、頭と手と足があることがわかってきた。それは人だった。そして、まぎれもなく二瓶さんだった。二瓶さんはぼくに気がつくと、酔っ払ってゆらゆらと揺れていた体をしっかりとただし、警察官がする敬礼のポーズをしてみせた。久しぶりに酒場に姿をあらわした旧友の存在が、よっぽどうれしかったのだろうか。いつものように目を細め、柔和な顔をさらに崩して穏やかに笑っていた。

平家ハ、アカルイ。

まさに、滅びの光景が目の前に広がっていた。文明が老い、腐乱した果実のように熟し、黄昏を迎えた時に現れる雅がそこにはあった。二瓶さんが老い、下北沢が老い、街がまどろんでいる。もし、ぼくに体力が残されていたならば、小劇場御用達の仮衣装屋が開くのを待ち、和服を借りてきて、一緒に蹴鞠(けまり)にでも興じたい気持ちだった。この場で二瓶さんと蹴鞠ができれば、どんなに美しく、雅なことだろうかと本気で思った。

アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。

もしかしたら、ぼくは重大な勘違いをしていたのかもしれない。二瓶さんは、白い肌で朝日を反射させながら、霧の中でいつまでも敬礼し、ふらつく体を揺り戻すように、たまにピョコンと跳ねている。やけ酒を繰り返した挙句、酒が一滴も飲めなくなり、そのことをこの世の不幸とばかりに嘆いていたぼくよりも、二瓶さんのほうがよっぽど滅びに近づいていたのではないか。その時、初めて二瓶さんの陰影に気がついたのである。

人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

ぼくは暗く、二瓶さんは明るい。しかし、それは表面上のことでしかないのだ。お酒を飲めなくなったぼくに一番心を痛めてくれていたのも、ほかならぬ二瓶さんだったのかもしれない。久しぶりに訪れた下北沢の繁華街。いつまでも変わらない時間が気怠く流れている風景のなか、変わらない明るさで向かえ入れてくれた二瓶さんを見て、ふとそう思った。

その後、二瓶さんとは数えるほどしか会っておらず、たまに会ってもお酒が飲めないぼくがそそくさと帰ってしまうため、簡単な挨拶くらいしか交わしていない。完全にぼくの思い込みで、本人にしてみれば余計なお世話だという可能性もある。フェイスブックを見る限り、二瓶さんは相変わらず優雅な飲み歩きと、休肝日の日々を過ごしているようだ。しかし、いつか二瓶さんの愚痴を聞かせてもらいたいと密かに願っている。愚痴を聞きながら、二人で夜を明かしたい。

さて、太宰の著作に触れながらも、ほとんど『右大臣実朝』に言及しないまま、文字数が残り少なくなってしまった。せめて最後に、源実朝が読んだ和歌を引用して終わりたいと思う。この和歌と二瓶さんのことが好きになった読者は、ぜひ『右大臣実朝』を読んでいただきたい。

出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ

本当に二瓶さんが詠んだように思えてくるから名歌は不思議だ。実朝も太宰も、そんなこと絶対に考えていなかったと思うが、鎌倉の雅は現代の下北沢にもあったのである。

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宮崎智之『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』

どうにもしっくりこない人がいる。スーツ姿にリュックで出社するあの人、職場でノンアルコールビールを飲むあの人、恋人を「相方」と呼ぶあの人、休日に仕事メールを送ってくるあの人、彼氏じゃないのに〝彼氏面〟するあの人……。古い常識と新しい常識が入り混じる時代の「ふつう」とは? スッキリとタメになる、現代を生き抜くための必読書。

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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