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オスマン帝国英傑列伝

2019.06.10 更新

150年続いた「兄弟殺し」の習わしとは【征服王メフメト2世(1)】小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏が、トルコ・中東工科大学に渡り、最新研究をもとにオスマン帝国の傑物10人を考察する新連載。1人目は、中世に終止符を打った稀代の征服王・メフメト2世です。

*   *   *

(写真:(C)Gentile Bellini  (1429–1507) )

ヴェネツィアの画家が描いた、征服王の肖像

ロンドン、ナショナル・ギャラリー。
ヨーロッパの王侯貴族の肖像画が壁面に隙間なく飾られたこの美術館にあって、ターバンをまとったこの人物の肖像は、異彩を放っているようだ。
肖像の人物は、メフメト二世という。オスマン帝国第七代のスルタンであり、征服王の異名をとる。この国を、真の意味で「帝国」たるにふさわしく作り上げた、オスマン帝国でもっとも有名な君主のひとりが、彼であった。

この肖像画は、ヴェネツィアの画家、ジェンティーレ・ベッリーニの手によるものである。

ベッリーニ家は、画家一族であった。父も弟も高名な画家であり、ヴェネツィアにおけるルネサンス美術を牽引した彼は、オスマン帝国とヴェネツィアとの長い戦いが終わった1479年、メフメト二世に招聘されて帝都イスタンブルを訪れた。メフメトは、偶像崇拝を忌避するイスラムの規定を意に介することなく、この異教徒の画家に自身の姿を含めた、さまざまな油彩画を描かせたのであった。ベッリーニがメフメト二世の肖像を描いたのは、1480年のことである。

それから間もない1481年にメフメト二世が死去したのち、王位を継いだ息子のバヤズィト二世は、父王のコレクションを西洋人に売り払った。イスラム神秘主義に傾倒していた彼にとって、父王の西洋趣味は理解できなかったのであろう。その後、ヴェネツィアのコレクターが所蔵していたこの絵を、考古学者としてオスマン帝国に長く滞在した経験のある英国人オースティン・レヤードが1865年に購入、彼が死去すると彼の妻がナショナル・ギャラリーに寄贈したのであった。

伝存するこの絵は、遍歴のなかで傷んだためか、かなりの修復がほどこされている。すくなくともベッリーニその人の筆遣いは、もはや失われてしまった。しかし、メフメト二世の顔かたちそのものは、大きく変わっていないとされている。

突き出た顎と高い鼻梁を持ち、細面で色白のメフメトの絵姿からは、繊細にして怜悧な印象をうける。オスマン王家のもともとの出自はトルコ系であるが、君主たちの母はほとんど非トルコ系、おそらくはセルビア人やギリシャ人であった。してみると、彼の風貌は、アナトリアとバルカン、ムスリムとキリスト教徒が混交したなかで誕生した、この帝国を体現しているといってもよいかもしれない。

メフメトは、ベッリーニがこの絵を描いてから半年もたたぬうちに没した。

およそ400年後、この絵をもとに描かれたメフメト二世像を目にしたスルタン・アブデュルハミト二世(位1876-1909年)は、彼の容貌が自身に似ているのに驚嘆したという。この逸話は出来過ぎとしても、メフメト二世が、のちのオスマン王家の人々にとって強く意識される存在であったことは間違いない。

オスマン帝国の人々からは「征服王」と称えられる一方、ヨーロッパ人からは「第二のルシファー」あるいは「毒竜」と呼ばれ恐れられたメフメト二世は、いかなる人物だったのだろうか。

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