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いま気になること

2019.03.26 更新

歴史となった「少女マンガの革命」 ~竹宮惠子カレイドスコープ展へ行って中川右介

3月9日土曜日の午後、川崎市市民ミュージアムへ行った。「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」が開かれており、この日は竹宮惠子のトークイベントがあったのだ。

この展覧会は、タイトルの通り、竹宮惠子の画業50周年を記念してのもので、2017年10月の北九州市漫画ミュージアムを皮切りに、三沢市寺山修司記念館、徳島県立文学書道館、新潟市マンガ・アニメ情報館と開催されてきた。川崎の後、京都国際マンガミュージアムで4月27日から9月8日まで開催される。

 

竹宮惠子が「画業50周年」と知って、クラクラする。「花の24年組」も、もう70代になろうとしているのか。

竹宮惠子作品を初めて読んだのは、高校時代の1976年、いまはない「月刊マンガ少年」という月刊誌に連載されたSFマンガ『地球(テラ)へ…』だった。この雑誌は76年8月に9月号で創刊され、目玉は手塚治虫の『火の鳥』だった。創刊間もない77年1月号(76年12月発売)から『地球へ…』が連載されたのだ。

 

『地球へ…』より「星のうまれるところ」 (C)竹宮惠子

竹宮惠子作品を読むのはこれが初めてだった。その前に読んでいた少女マンガは、萩尾望都の『ポーの一族』、池田理代子の『ベルサイユのばら』くらいだった。

『地球へ…』の連載開始から半年以上が過ぎた77年秋から、「週刊少年チャンピオン」で光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』が、萩尾望都によってマンガ化された。

1977年は、竹宮惠子と萩尾望都の2人が相次いで、「少年誌」に「SFマンガ」を連載した画期的な年だった。SFを描いたこともさることながら、「女性マンガ家が少年誌に連載する」ことが、画期的だったのだ。

この2人にそれが可能だったのは、SFというジャンルであることと、絵柄が手塚治虫系だったからだろう。2人とも、手塚マンガを読んでマンガ家になろうとした、手塚チルドレンである。だから、私のような高校生男子でも、ストーリー的にも絵的にも、違和感なく、『地球へ…』や『百億の昼と千億の夜』を読めたのだ。

以後この2人は、私にとって、新刊をチェックする対象の作家となった。

だから『風と木の詩』のことも知っていたが、読んだのは、80年代後半、20代の終わりだった。SF以外には手が出なかったし、少年としては、少年愛には興味がなかった。

「革命」でなければならなかった世代

川崎市市民ミュージアムでの竹宮惠子のトークイベントでは、90分のなかで、生い立ちから最近の仕事までが語られた。

話された内容の大半は、竹宮の自伝的エッセイである『少年の名はジルベール』(小学館)や、この展覧会の図録も兼ねている『竹宮惠子 カレイドスコープ』(新潮社)にもあるが、とくに印象に残ったのは「革命」という単語だ。

『少年の名はジルベール』にも「少女マンガに革命を起こす」という強い意思があったことが繰り返し記されていたが、トークイベントでも、「革命」という単語が繰り返された。

この「革命」とは、単に「少年愛」とか「同性愛」「児童虐待」を1970年代に描いたことを言うのではない。

 

マンガを描くことで、社会を変革したいという思いを本気で抱いていたのだ。これには時代背景が関係している。

竹宮惠子が商業誌にデビューしたのは「週刊マーガレット」1968年正月増刊号で、毎月のように作品が商業誌に載るのは1970年になってからだ。

デビューのきっかけは、手塚治虫が主導していたマンガ専門誌「COM」に投稿作品が掲載されたことによる。

竹宮惠子がデビューした時代、とくに1968年から69年にかけては、学生反乱の時代である。かの有名な東大安田講堂事件は69年1月だが、そこをクライマックスとして、67年後半から学生運動は激化(暴力化)しており、それは日本だけではなかった。フランスでも5月革命、アメリカでも映画『いちご白書』で有名なコロンビア大学の事件やベトナム反戦運動、公民権運動が盛り上がり、社会主義国だったチェコスロヴァキアでも「プラハの春」と呼ばれる民主化・自由化の運動があった。

竹宮惠子は「花の24年組」と称されるが(昭和25年2月生まれだが、学年では24年度となる)、ようするに団塊の世代、全共闘世代である。

この世代の若者である竹宮惠子にとって、「革命」は日常用語だったはずで、「新しいマンガ」「前例のないマンガ」でなければ描く意味がなかった。

「前例がない」ものは、既成勢力からの反発を覚悟しなければならない。というよりも、反発、批判、ハレーションのないものなど描いても意味がないという、そういう過酷な環境のなかに、1970年前後のマンガ家たちはいたのだ。

そこが「自己表現」という名の「心情吐露」で終始する最近の「新しいマンガ」とは異なる。

BLの巨匠にならない革命性

作者の心情が時代の雰囲気と合致すれば、心情吐露マンガはヒットするが、やがて時代に合わなくなり、消えていく。

しかし、40年前に「前例のないもの」だった『風と木の詩』は、時代と合致していなかった。それゆえに、一部の人びとに熱狂で迎えられ、それゆえに、それ以外の人びとからは、批判か攻撃か糾弾か無視されたが、2019年のいまは古典となっており、現役の本として売られている。

『風と木の詩』が描かれた時代には、BLという言葉すら存在しなかったが、いまや一大ジャンルとなっている。

『風と木の詩』より「くちばしの感触」(C)竹宮惠子

竹宮惠子がすごいのは、それでいて、「BLの巨匠」にはならなかったことだ。 彼女は自分が創始させたBLというジャンルにすら安住しなかった。彼女は革命をやめない。以後も、新しいジャンルに挑み続けた。

広義のSFが多いという点では、新ジャンルはそんなにないのではないかとの指摘もあるかもしれない。しかし、SFというのは、テーマ、手法、題材の何かが「新しいもの」であることを求められるジャンルだ。前例のある作品は、それだけで認められないのだ。竹宮惠子はその戦場で戦い抜いてきたことになる。

三つ子の魂百までと言うが、青少年期に刷り込まれた「革命精神」を、そのまま貫いたのである。

それは竹宮惠子だけではなかった。マンガの世界、とくに少女マンガでは、70年代になると、竹宮をはじめ、萩尾望都、山岸凉子たち「花の24年組」と称される一群の女性マンガ家たちによって、同時多発的に革命が起きたのである。

同じ時期、少年マンガは友情、努力、勝利の同工異曲に終始し、アニメとテレビとのメディアミックスで肥大化したがゆえにしがらみが生じて自由を喪い、劇画は暴力と性表現が過激になり行き詰まっていた。

1980年代になって、「花の24年組」が評価されたのは、極論すれば、そこにしか革命がなかったからだ。

マンガが歴史として語られる時代

思えば――川崎市市民ミュージアムが開館したのは1988年11月、昭和天皇が重体だった時、つまり昭和が終わる直前だった。

当時の私は写真集(アイドルのではなく、芸術的な「売れない写真集」)の仕事をしていたので、写真家や編集者たちと、「新しく川崎にできた美術館は写真に力を入れる、画期的な美術館らしい」と話題にしていたのを覚えている。

平成の初期、「写真」は、ようやくアートとして認められようとしていた。しかし、「マンガ」はまだ、美術館で見るものではなかった。その時代に、川崎市市民ミュージアムは開館時から写真とマンガを所蔵していた。

美術館での大規模なマンガ展の最初は、多分、1990年の国立近代美術館での手塚治虫展だ(その前に、特別展として川崎市市民ミュージアムでも1988年11月から89年4月まで「手塚治虫の世界」展が開催)。手塚が亡くなったのはその前年、昭和が終わり平成が始まった1989年である。手塚は存命中から「マンガの神様」であり、その名声は確立されていたが、サブカルチャーであるマンガが、ハイカルチャーを収蔵・展示するはずの美術館で企画展として展示されるのは、当時、それ自体が「事件」だった。それは、あくまで「神様」である手塚のみの特権とも思われた。

それから30年が過ぎ、いまやマンガ展は各美術館の目玉である。理由のひとつは公立の美術館も「収益を上げる」ことが求められるようになり、固定ファンが数十万から数百万人いるマンガ家の展覧会なら集客が見込め、さらにはグッズも売れるからだろう。

そういう経済的な「大人の事情」もあるが、マンガの社会的地位が上がったからでもある。

平成の30年とは、サブカルチャーとハイカルチャーという分類そのものが無意味となるくらい、ハイカルチャーが壊滅した時代でもあった。

ハイカルチャーであるはずの歌舞伎もクラシック音楽も、いまや「親しみやすい」「面白い」と、サブカル的であることを必死にアピールしなければならないくらい追い詰められている。

一部のハイカルチャーはその座に安住し革命精神を忘れたから、凋落したのだ。

「花の24年組」のデビューから50年が過ぎようとしている昨今、彼女たちの展覧会が各地で開催されているのは、その革命が体制として成就し、その歴史を語るべき時期となったからだろう。

(画像協力:川崎市市民ミュージアム)

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中川右介

1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCの編集長として写真集を中心に美術書を編集、ソ連の出版社とも提携した。後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長に(2014年まで)。ドイツ、アメリカ等の出版社と提携し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどの分野で旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『坂東玉三郎』『カラヤンとフルトヴェングラー』(以上、幻冬舎新書)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『山口百恵』『松田聖子と中森明菜』(以上、朝日文庫)、『阿久悠と松本隆』(朝日新書)などがある。現在では幻の本となっている三島由紀夫が序文を書いた澁澤龍彦訳『マルキ・ド・サド選集』を発行した彰考書院の三代目にあたる(同社は倒産)。

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