シチリア一日目、わたしと夫はチーニジという町にいた。
 チーニジ。聞いたこともないだろう。観光名所もない、旅行者には無縁の町だ。なぜそんなところにいるのか。旅は予期せぬことの連続だ。

 それは、旅に出る一日前、すなわち昨日のことだった。宿泊ホテルの予約表を眺めていた夫が、言った。
 「ねえ、これ宿泊日が二日と三日なんだけど」
 間違えた。元旦に、野宿するはめになるところだった。

 慌ててホテル予約サイトを開く。当たり前だがキャンセル可能期間を過ぎていた。パレルモに三泊するのはつまらない。空港に到着するのは二十二時。だったらいっそ、空港のある街に泊まってみるというのはどうだろう? と、ふと思った。
 空港のある街。それがチーニジだった。

 空港からパレルモまではタクシーで一時間。四十五ユーロ以上かかる。空港バスは休日のため運休だから、タクシーに乗るしかない。空港からタクシーで十分のチーニジに泊まれば、時間もお金も節約できるのではないか?
というわけで、わたしたちはチーニジ、という聞いたことのない、そして絶対にガイドブックに掲載されないだろう小さな小さな町にたどり着いたのだった。(予想外だったのは、空港タクシーは定額制で、たった十分乗っただけでも三十五ユーロかかったこと)

 予約していたB&Bにつき、チャイムを鳴らす。応答がない。誰もいないのか、どうしようかと考えていると、タクシー運転手さんが看板に書いてある番号に電話をしてくれた。オーナーが五分で来るからここで待ってるといいよ、と言い残しタクシーは去っていった。親切な人だった。三十五ユーロは高かったけれど。

 夜だ。街には人の気配はない。石造りの質素な、背の低い家が並んでいる。ほとんど色味がない。壁も道路も同じように石の色。街灯はオレンジだ。ヨーロッパの都市というよりは、かつて行ったチュニジアの町に似ている。ここからもう少し西には、最もアフリカに近いヨーロッパ、といわれる町があるそうだ。
 日本よりはだいぶ暖かいけれど空気はしんと冷えて、夜の空は青い。月は細く、朧に霞んでいる。その月が妙に石造りの町に似合っていて、わたしたちはしばらくその光景を眺める。

 ここは異国だ、と思う。
 ああ、なんだかこの町好きかもしれない、ぼんやり思ったころ、オーナーが現れた。にこにこした髭のおじさんで、痩せたマリオ、という感じ。イタリア人の中年男性を見ると親近感を抱いてしまうのは、きっと任天堂のおかげだろう。

 二階のバルコニー付きの部屋を予約していたのだけれど、同じ値段で、一階のもっと広い部屋にグレードアップしてあげるよ、とオーナーは言った。バルコニーのある部屋に泊まりたかったので断ると、え、同じ値段だよ? 一番いい部屋だよ? と何度も言う。そんなに言うなら、と部屋を変えてもらうことにした。お客さんがあまりいないようだったので、二階は開けていないのかもしれない。

 部屋に案内してもらったわたしは「素敵な部屋、ありがとう!」と大げさに喜んで見せる。マナーとしてそうした部分もあるけれど、実際素敵な部屋だった。壁は薄い緑で、ベッドカバーは青。おとぎ話の中みたいな、可愛らしい内装だ。

 オーナーは満足そうにうなずいて、まず夫と握手し、次にわたしの手を取った。甲を表にし自分の顔を寄せようとしたところで、ちらりと夫を見た。
そのままオーナーはわたしの手を離し別れの挨拶をすると、部屋を出て行った。
 わたしと夫は顔を見合わせる。
 「今、わたしの手にキスしようとしたよね」
 「うん。俺を見て躊躇してやめた」
 さすがイタリア男性。想像していたのと一緒だ。
 そんなことに感動しながら、シチリア最初の夜を迎えた。

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