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性暴力とフェミニズムを考える

2018.02.22 公開 ツイート

#MeToo 運動は、日本の明治時代にも起きていた! 香山リカ/北原みのり

さまざまな性の表現があふれる現代ニッポン。いま「問題」と感知できなくなっている性の「問題」をめぐり、香山リカさんと北原みのりさんが対談で考察を深めていった一冊が、近刊『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか――「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』(イースト・プレス刊)です。
#MeToo運動をはじめとする最近の性に関する問題意識について存分に語っていただきました。
(2018年1月18日、下北沢・本屋B&Bにて収録)

診療所に来るセックスに傷ついた女たち

香山 私が性の問題について考えてみたいなと思って、それで編集者の方に、是非北原さんと話してみたいとお願いして、今回『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』(イースト・プレス)で対談をさせていただきました。北原さんとはご飯を食べるような場で一緒になったりとか、イベントで一緒になったりするぐらいのことが多かったので、一度きちんと北原さんとお話ししてみたいなと。

 私は精神科医という仕事をしていて、もう32年もやっています。途中から大学の先生になったんですけど、でもベースは自分の中では精神科医で、今でも病院に週何回か外来診療を行っています。そこで「性の問題」が関係している患者さんにお会いすることもよくあるのですが、自分の中でうまく体系的に整理ができずにいました。

 たとえば、最初から「私は性のことで傷ついたんです」と自らおっしゃるのではない方、つまり性暴力や性虐待のように性の問題が可視化されてはいない方と話している中でも、性の問題についてこちらから水を向けると、「いや、じつは……」といろいろ語り出すことが少なくなかった。

香山リカさん

 セックスレスの夫婦がいるとします。妻のほうが「何となく気分がさえなくてうつ病かもしれない」と訴えて、病院にやって来る。こちらはまずは症状をきいていくわけですよね。寝つきが悪いのですか、日中はそれで支障が出ますか、などときいて、ただの不眠症ではなくうつ病を疑えば、全般的に意欲が低下していませんか、とガイドラインに従う形で質問していき、規定の症状がいくつか揃っていると、「うつ病ですね」という診断を下す。うつ病の診断基準には、性の問題に関する項目はありませんから、ともすれば、そこはスルーされたまま治療が始まります。

 でも、抗うつ薬を飲んでも一向にうつ症状が良くならない。投薬以外にも行動療法などをやっても良くならないという人に、改めて「ちょっと立ち入った話ですけど、ご主人との“夫婦生活”はどうですか」ってきいてみる。あ、意外に若い人にも通じるんですよ、「夫婦生活」で(笑)。

北原 「セックス」でいいじゃないですか(笑)。

香山 うーん、その言葉は私の場合、なかなか口に出せない。「夜の生活」なんてかえっておかしな言い方をしてしまいます(笑)。いずれにしても、それについてきくと、「いや、全然ありません。もう何年もありません」などという答えが返ってくることがあります。たとえば、他のことでは優しくて申し分ない夫だし、疲れているのかなと思うけども、寝室で自分から近寄ってもふり払われてしまう、という話が出てきたりする。「ここまで求められない自分は、夫にとって必要ない存在じゃないのか」とか、そういう大切な話がそこから始まっていくわけです。

 若い女性では逆のケースもあります。うつ病と診断して、その治療をしても一向に良くならないので、何か性にかかわる問題があるのかなとちょっと水を向けると、彼氏がいると言うのです。今度はセックスレスではなくて、「会っても、とにかくセックスしかしない。全然外に遊びにも行かない」。「結局、私にはセックスしか価値がないんでしょうか」とそこにやはりうつ病の原因があることがわかります。

 つまり、カップルの間で、セックスはすればいいというものではない。「それだけ」となると、むしろ「私は性の対象でしかないのか」ということで、自己が激しく傷つき、毀損されることにもなりかねない。一方で、セックスレスでも同様に、自己は傷つく。

 セックスって自己肯定、自己承認にもなることもあれば、逆に自己を傷つけたり毀損したりするという、両価性があるわけです。「からだの関係」と言いますが、実は自分の価値に直結した、つとめて心理的なものです。この問題をどう扱っていったらよいか、ということを、北原さんにききながら考えたかったんですよね。

ずっと表現の規制に反対していたけども…

香山 あと、私は精神科医のキャリアよりも長く、学生の時から少しずつ、ものを書くような仕事をしてきました。昔は、エログラビアがある雑誌の読み物ページで書いていました。そういうところから仕事がスタートしたわけですから、もちろん基本的には表現の規制なんて反対。規制してくるのは権力で、それに対してどこまで抵抗できるか挑戦する、というのが私の書き手としての仕事の原点です。

 だから、80年代の話ですが、たとえば親を金属バットで殴って殺害した事件があると、マスコミではすぐに「ゲームの悪影響」だと言われた。ゲームを規制しろという声も上がった。私は当時、テレビゲームが大好きだったから、そんなバカな話はあるわけないなどと文字にして訴え、表現を規制する人にずっと反対していたんですね。

 ところが、やっぱり最近、表現というものを改めて考えると、「権力に対する挑戦」なんかではなく、人を傷つけるような表現も増えていると言わざるをえない。こういう状況下でも本当に際限なく自由でいいのか、という疑問もわいてきました。

 よく「これは全然差別の意図はないんだ」とか作り手は言うけど、意図がなければいいのか。そこで被害者が生じるなら、やはりそれは差別ではないか。「日本の文化ではこういうことは昔からやってきたから」という考えもあるけども、いわゆるグローバル時代で世界の人が見ている中では、ある種の標準的なルールみたいなことを適用せざるをえないのではないかとも考えるようになってきました。

 端的な例ですけども、トランプ大統領がフランスに初めて行った時、マクロン大統領の奥さん、24歳年上のブリジットさんに、“You're in such good shape”と言った。直訳すれば「体の線がきれいだね」だけど、「いい体してるね」と訳している人もいる。トランプ大統領としては褒めたつもりだったんでしょう。それがすごく問題になった。日本人が聞いたら、何も悪いことじゃないって思うかもしれないけど、今アメリカを中心とした世界では、それは褒めてもNGになる。そのへんの「どうしても必要な不寛容さ」についても、考えてみたいところです。

フェミニズムの皮を被った「暴力」

北原みのりさん

北原 最初、私は香山さんとの対談本の話を頂いた時、ありがたかったんです。というのも困っていたから。性について考えること、語ることを諦めたくなるほど、言葉が通じにくくなっているのを実感していたんです。

 例えば性表現について、少女への欲望が娯楽として消費され、商品として流通しているということに違和を唱えただけで「性表現規制派」とレッテルを貼られる。二次元表現に実在の被害者はいない、一切の表現の規制は許さない、というようなおきまりの声があがり、そもそもそのような表現を支えている性差別構造や性暴力への認識についての議論が全く深まらない。そんなもどかしさを感じていました。

 自己紹介をすると、私は1996年に「ラブピースクラブ」を立ち上げました。フェミニズムの視点で運営するセックストイショップです。先日、90年代当時の資料を整理していたら、色んな雑誌で私がバイブを持って、「女はクリトリスでイクんですよ!」みたいな当たり前のことを、すごく偉そうに言っていた(笑)。「女性が性に積極的になって楽しめる、それこそ本当の性の解放です」とか言っていて、そしてそういうことを若い女が言うことが「新しいフェミ」みたいに考えられていた時代の空気もあったと思います。

 たしかに私は、これは、今までにないフェミニズムの流れだと自分でも思っていたし、フェミニストがセックス産業に入っていって、その中で文化を変えていくことや、女性の欲望の解放をすることが私のフェミニズムだと考えていました。もちろん、そういう思いは今もあるけれど、性に積極的になるとか、主体的に楽しむとか、そんなことを牧歌的に言えてきた時代が懐かしいな……と思うほど、性暴力表現問題が今より切実になっています。また、性差別構造が全く変わらないなかで「女性の欲望の解放」だけを主張することは、何か大切なことを取りこぼすことになるという危機感を持つようになりました。

 例えばAV出演強要被害に対し声をあげた被害者に「一部の被害をもってAV全体を批判するな」など被害を矮小化したがる人たちが、「自分の体を主体的に商品化することこそフェミニズムだ」等と言いはじめるのを見聞きして、「女の性解放」「女の欲望解放」は、言葉が表面だけうまく切り取られ、フェミニズムの皮を被った暴力になってしまっているのを感じています。フェミニズムにとって性は、基本の基だったはずですが、非常に混乱している状況になってしまった。

 そういう中で、どのように性について語れるのか、語ればいいのかを迷っていたなか、香山さんからお話をいただきました。非常にありがたかったです。

#MeTooとドヌーヴの対立構造

北原 性産業で仕事をはじめた時は、「女の欲望の解放=フェミニズム」ということ自体が新しいと思い込んでいたのですが、新しいのはバイブをつくって売る、という行為だけで、本当は全く新しい価値などではないんですよね。

 例えば今回の♯MeToo運動を例に取るとわかりやすいんですが。#MeTooは、そもそもハリウッドの女性たちが有名なプロデューサーをハリウッドから永久追放にするまでの戦いをしたわけですよね。それに対して、フランスの著名人女性たち100人が#MeTooを批判する声をあげた。そこにカトリーヌ・ドヌーヴが入っていたから、「ほら、ドヌーヴもこう言っている」「やっぱりフランスの女は違う」と日本では、むしろ肯定的に盛り上がりました。ドヌーヴさんもさすがに、「性暴力被害者に謝ります」と、すぐに謝罪しましたけれど。

 フランスの100人の女性たちの主張は、#MeToo運動はやりすぎ、男性を憎み、性を憎むようなフェミニズムに自分たちは与しない、というものでしたよね。そしてまた「♯MeToo運動は女性に貞淑を求める保守派を利するだけだ、女性を家父長制に押し込めているのだ」とか、「男女の私的な関係に全体主義的な権力を持ち込むな」とも言っている。

 この構造って、今の性の議論と、非常に似ています。例えば、性暴力表現を批判したり、性暴力を告発する女性に対し、「いつまで被害者でいるのか?」「いつまで男を憎み続けるのか?」「いつまで性に道徳的なことを言って、保守派を利するのか?」という声が、むしろリベラルな男性や、またフェミニストを自称するような女性たちからあがる。

 それでも、性の問題は、反権力とか反保守、といった単純な権力構造では語れない。どのように現実を見ているかが問われる問題だと思うんです。そういう意味で、フランスの100人の女性たちの世代、#MeToo運動の中心となっている女性たちの世代が違うことは、象徴的だと思いました。フランスの100人の女性たちはドヌーヴをはじめ、若い時代に「性の解放=女性の解放」「フェミニズム=新しい女の生き方」といった時代の洗礼を受けた世代です。そのように、昔、性の解放をフェミニズムだとした人たちが、いま若いフェミの女性たちと対立している。そしてそれは日本も、もしかしたらとても似ている状況ではないかな、と思います。

日本最初の#MeToo運動とは

北原 最近ずっと、明治維新辺りから今までの日本の近代のフェミニズムについて調べていました。1886年、「矯風会」という日本初の女性団体ができました。キリスト教の女性たちによる廃娼運動、禁酒運動を目指した団体でしたが、矯風会がフェミニズムの文脈で語られることは、少なくとも1990年代以降はありませんでした。日本で初めての女性団体といえば、誰もが「青鞜」と言うんじゃないかと思うんですよね。矯風会じゃない。でも、私、やはり矯風会がフェミニズムじゃなければ、何がフェミニズムだろう、思うんです。というか、矯風会こそ、元祖#MeTooだと思います。

 矯風会は、公娼制度に取り込まれた女性たちを支援する運動をするわけです。その場から逃れさせ、そして経済的自立のための支援をする。その時、「醜業婦は我らが姉妹なり」という言い方をしています。醜業婦という時代の制約がある言葉を使っていたとしても、これはシスターフッドの運動です。妻を殺しても罪に問われない時代を体験した女性たちが、女が家族のため、貧しさのために売られていくような社会を変えたい、そのために法律を変えなければいけない、そのために参政権運動が必要になる、そしてとにかく目の前の女性を助ける、という運動をしてきたんです。

 こういう矯風会を、伊藤野枝さんや平塚らいてうさんは正面から批判しています。伊藤野枝さんは、「廃娼運動をやっている矯風会って、“愛”とか“寛容”が足りないよね」……それって、完全にフランスの100人の女ですよね。矯風会はエロスと寛容が足りない、男の本能故に遊郭は必要なのだ、とか矯風会の廃娼運動にとても批判的です。

 あのらいてうさんも、「矯風会の運動は、婦人運動ではありません」と言い切ります。「矯風会というのは婦人運動ではない。なぜかというと女性のことしかしていないから」。らいてうさんによれば、婦人運動というのは本来、フランス革命のように自由・平等・博愛を精神にした人間の意識革命でなきゃいけないのに、矯風会は女のことしかしないから、ということです。これって完全にドヌーヴですよね。

 自由恋愛を謳った「青鞜」のらいてうや野枝の生き方、そして戦い方がどれほど当時の女性の人生を明るくしたか、その力は測りしれないものがあったと思います。でも一方で、矯風会「的」なものが否定され続けてきた背景には何があったんだろう。「女の欲望の解放」は確かに重要だけれど、本当の意味の「性の解放」とはどういうことを目指すべきなのか。そんなことをしっかり考えたいと思うようになっています。

 私は20年以上、性を楽しみましょう、欲望を解放しましょう、と言ってバイブを売ってきましたが、実はこの仕事をしながらお客様から聞く話って、香山さんと同様で、ものすごく辛い話が多いんです。楽しいだけじゃない、痛みもある性、そういったことをどうやって語っていったらいいんだろう。そこがフェミニズムの根源にあったはずだけども、語りにくさになっているところを、ちゃんと今日も二人で語っていきたいなと思っています。
(後編に続く。2月25日公開予定です)

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香山リカ

1960年、札幌市生まれ。東京医科大学卒業。精神科医。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。豊富な臨床経験を活かし、現代人の心の問題のほか、政治・社会批評、サブカルチャー批評など幅広いジャンルで活躍する。『ノンママという生き方』(幻冬舎)、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』『イヌネコにしか心を開けない人たち』『しがみつかない生き方』『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』『弱者はもう救われないのか』(いずれも幻冬舎新書)など著書多数。

北原みのり

1970年神奈川県生まれ。作家。津田塾大学卒。1996年フェミニズムの視点で女性のためのセックストーイショップ「ラブピースクラブ」を設立。時事問題から普遍的テーマまでをジェンダーの観点から考察する。『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(朝日新聞出版)『性と国家』(河出書房新社)など単著・共著多数。

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