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世界中で民主主義が劣化している。アメリカのトランプ現象、イギリスのEU離脱、フランスの極右政権の台頭。多数の民意を反映した選択は、目先の利益のみを優先したものばかりです。そのむき出しの欲望と民主主義が結びついたとき何が起こるのか? 若き天才哲学者、マルクス・ガブリエルら世界を代表する知識人がその混迷の深層を語り、話題となったNHK番組が『欲望の民主主義~分断を越える哲学』として書籍化されました。世界の知性が見る、民主主義の現実と限界とは――? 
「Ⅱアメリカの激情 フランスの憂鬱』」よりシンシア・フルーリー「民主主義のイノベーションのために」の一部をお届けします。


シンシア・フルーリーCynthia Fleury
政治哲学者/哲学者/精神分析学者(フランス)。パリ・アメリカ大学教授。1974年生まれ。
政治哲学と、その後哲学の博士号も習得。精神分析も研究し、現在は、大学で政治学を講じる他、倫理に関する国家諮問委員会のメンバーでもあり、パリの救急医療および心理学ユニットにも参加、さまざまな社会活動を通じて、人間と社会の本質を考察し続ける。

民主主義とは勇気

 勇気の問題をお話ししましょう。私がまず伝えたいのは、民主主義は、勇気が基本的な美徳となる、ということです。勇気とは、自分を守るためのツールになるものです。理由は簡単です。まずは自分自身が鬱状態に陥らないために、主体として行動することが必要だからです。

 つまり、考えながら行動することが必要です。この思考と行動という二つを分けてはいけません。そして、勇気とはバランスのための大きなツールでもあります。理由は非常に簡単です。私たちは、民主主義においてネオ・リベラリズム的な望みを持つがゆえに、往々にして忘れがちなのですが、民主主義とはどこか自動的なものであると思い込んでいるのですね。自由主義者が抱く大きな理想の問題は、民主主義とは、手続きや制度や体制などによって勝手にうまくいくものだという思い込みがあるのです。

 しかし、それは間違っています。民主主義とは人間によって、あるいは市民の貢献や取り組みによって成立するものです。特にバランスの力によってです。そして、それは多くの場合、勇気の必要性を反映します。つまり、よく学生たちにも言うのですが、「デモクラシーとは権利ではなく、権利を獲得することができるための条件である」ということです。これらはまったく別物です。なぜなら、そうでなければ民主主義は単なる力関係のゲームになってしまうからです。民主主義とは、単に今現在の状態であるとの認識から抜け出さねばならないのです。民主主義とは、常に単なる保守主義の力と戦う、不断の進化主義の力であるのです。

 その反面、権威主義的な体制とは異なり、暴力を利用することなく、新しい正当性を生み出そうとするものでもあります。そして、そこには市民の不服従、法律の成立やメディアとの論争などといった問題があり、それこそが民主主義の特殊性なのです。これは、ある意味闘争です。暴力のエネルギーを他のものに利用しようとする闘争なのです。

勇気は特別な人だけが持っているのではない

 では主体的に、市民として、どこからこの勇気を得ることができるのでしょうか? そのような勇気はどこにあるのでしょうか?

 勇気というものは、驚くべきことに、多くの場合は付加価値のようなものとみなされています。つまり、一部の人間に与えられているものであって、多くの人にはないものと考えられているのです。大雑把に言えば、勇気がある人とない人がいる、という風にです。しかし、現実は必ずしもそうではありません。

 勇気というものは、自らが責任を負うと決めた時にしか存在し得ないものです。正確に言えば、それは他人に責任を肩代わりさせないということになります。そういう意味で、孤独であることは基本的な前提となるのですが、同時に勇気とはその孤独の中で学ぶものでもあるということです。それは一種の教育によって学んでいくものでもあります。

 勇気というものは、模範によって教えることができるものです。それが至って平凡な模範だとしてもです。つまり、途轍もないヴィジョンがなくてはならないわけではないのです。

自らが使う勇気、もらう勇気、さまざまな形

 例えば、他人を救うといったような行為です。例を挙げるとすれば、最近もテロがありましたが、その時、ある男性が勇気のある行動を見せましたし、もちろん、そのような女性もいたわけです。彼らは途轍もない勇気を示しました。武器を取り上げようとテロリストに向かって突進した人がいたのです。それらは、驚くべき勇気ある行為でしょう。自らを死に直面させるわけですからね。それは単純なものではありません。

 その一方で、ありふれた勇気とでも言うようなものもありますね。例えば、職場でハラスメントの被害にあった場合などに見られるものです。従業員として職場に来ることを拒否するようなことですね。これなどは途轍もない勇気というものではありませんが、同僚や自分自身の人生を変えるかもしれないものです。ですから、そうした日々の生活の中で、ありふれた市民的な勇気というものも、実は至るところにあると言えるでしょう。

 驚異的な勇気を持っているのであれば、コントロールをする際に、より多くの勇気を見せることができ、日常的に目の当たりにする機能不全を拒否することができ、職場における軽蔑的な言動や誹謗中傷、失礼な話し方などといった典型的な場面に出くわした時、その段階で「ストップ!」と言うことができるのなら、それは、より害の少ない環境を手に入れることに大きく貢献するでしょう。さらに、メディアの中にも勇気ある態度を示している人はいます。中には命を賭けている人もいるのです。

 しかしそうではない場合、通常は知識人という人たちが発言します。政治家がもっともらしく伝えていることも、高尚な言葉も、建前も必要ないと言うのです。こうしたものすべてが人々に勇気を与えるのです。それらが、なぜ勇気を与えるのでしょうか? 例えば市民が政治家たちの話を聞いても、彼らの発言はいつまでも繰り返される建前ばかりであってそれが市民を大きく失望させるからです。

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続きは、『欲望の民主主義』をご覧ください。
シンシア・フルーリー(政治哲学者)以外に、ジョナサン・ハイト(社会心理学者)、ヤシャ・モンク(政治学者)、、マルセル・ゴーシェ(政治哲学者)、ジャン=ピエール・ルゴフ(社会学者)、マルクス・ガブリエル(哲学者)が登場します。

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